仲正昌樹(第7回)

二流大学の厄介な学生

 私は二流大学で金沢大学の法学類という所に務めている。二流大学と言うと、最近の大学事情をあまり知らない年配の人から、「金沢ほどの大学がそんなにレベル低いことないでしょう。卑下しすぎ」、とか言われる。
 それは、「国立大学に通うだけで優秀」というのが常識だった、団塊の世代の感覚である。中には、金沢という固有名詞から、高級そうな感じを抱く人もいるようだが、加賀百万石とか旧制四校とかのイメージを、今の金沢大学に投影するのは全く見当外れである。そういう見当外れの感覚の人と、金沢大学について話をすると、疲れる。
 大学の格付けについての、業界人の大凡の常識を紹介しておこう。国立大学の中では、戦前帝国大学だった、東大、京大、東北大、九大、阪大、北大、名大は、当然別格扱いである。金沢は戦前、この七大学に京城帝大、台北帝大の二つを加えた九つに次いで、十番目の帝大になる可能性があったが、そうならなかった。だとすると、国立大の八位になりそうだが、戦後、文部省(現文科省)が、神大、筑波大、広大などを拠点大学として優遇したせいで、金沢は、何となくこれらの下に位置付けられる感じになった。
 そこに更に、理系だと東工大や医科歯科大、文系だと一橋大という専門に特化した大学が入って来る。文科省の運営交付金の配分額から見ると、金沢は八十六ある国立大学中の十二~十五位くらいである。よくて、十二位というのが常識だろう。
 私大や公立大を加えて考えると、更に順位は下がる。私大の多くは文系中心なので、金沢大でも理系は、十二位からさほど下がらないが、文系の順位はぐっと下がる。理系の場合、実験設備や病院などの施設の関係があるので、順位が変動しにくいが、文系の場合、良い所にキャンパスを作り、それなりに優秀な教員をいい待遇で呼んでくれば、それで“いい大学”になる。七〇年代から八〇年代にかけて、金沢文系はいくつかの私大に、抜かれてしまったと見るべきだろう。
 早慶に負けているのは当然のこととして、首都圏のMARCHや関西の関関同立などより、金沢が上だと言い切るのは難しいだろう。公立大だと、首都大や大阪市大は、金沢より上と考えるのが普通だろう。金沢大の教員で、これらの大学から招聘されて移動する人は結構いるが、その逆はあまりいない。そうすると、十一位下げて、二十三位になる。
 MARCHや関関同立の一部よりは上ではという見方もできなくはないが、戦後、金沢とほぼ同時期に国立になった旧六と呼ばれるグループの中で、(首都圏の)千葉や(新幹線で京阪と直通している)岡山は入試のレベルでは、金沢より若干人気が高い。単純に受験生の人気だけで言うと、横国にも負けている。文系でも当然、分野ごとにばらつきがあるが、全国で二十位以内に入っている、と自信を持って言える分野はないだろう。
 そういう風にリアルに考えてみると、決して一流大学ではない。二流だとはっきり認め、二流大学の教員にすぎない自分の分を弁えた方がいい、と私は思っている――三流でないだけまだまし、ということでもある。
 しかし学生の中には、その現実を認められることができなさそうな奴が少なからずいる。端的に言うと、名古屋や神戸に行く実力がなくて、不承不承金沢に入学したような連中である。そういうのは、“プライド”だけは高い。授業でそういう奴に、出くわすと厄介である。不快な目に遭うことも少なくない。
 何故、厄介かというと、自分は勉強ができない、授業が分からない、授業に身が入らない、という事実を素直に認められない。全て、教師のせいにしようとする。当然、厳しい教師は、嫌われる。嫌われること自体は、かまわないのだが、教師の人格がおかしいことにする。変人なので、自分の趣味でわざと難しいことを教えているとか、できるはずのない過大な宿題を出している、とかいう話にしてしまう。
 私は、政治思想史のほか、法学類の一年生のドイツ語も担当している。語学教師を真面目にやれば、恨まれやすい。私は、ごく普通のドイツ語教科書を使い、一年かけてちょうど終わるようにやっている。そんなに変わったことはやっていない。厳しいとすれば、予め担当箇所を決めたりせず、授業中に何度もランダムに当てること、訳読は基本的にやらず、ドイツ語の文章を口頭で言わせるよう徹底していることくらいだろう。ちゃんと身に付くように教えようとすれば、当たり前のことである。しかし、学生はそれが不当だ、という。自分にとって厳しかったら、全て“不当”なのだろう。
 他のドイツ語クラスや中国語クラスより厳しそうなので、不当だと言う奴もいる。教師が設定している目標が低く、大して身に付かなくても合格点が付くようなゆるい授業をやれば、やさしくなるのは当然だ。そのクラスで学んだことにより、最終的にどの程度その言語が身に付いたかを基準にして、授業の良し悪しを言うのであれば、全うであるが、私の悪口をツイッターでいいふらしているような奴は、そんなことは全く考えていない。今の自分にとってキツイ授業をやるのは、“悪い先生”である。
 あと、私は、宿題をやってこなかったため私の問いに答えられない学生、寝ぼけていて見当外れの返答をする学生にちゃんと指摘し、注意するようにしているが、それも気に入らないようである。人格を傷つけられたと思うらしい。やるべきことをやっていない自分が悪いとは、全然思わないのである。恐らく、「私は優秀なはずだ。優秀な私が答えられないのは、仲正が悪いんだ」、と脊髄反射的に判断するのだろう。そう思い込んでいるとしか思えない書き込みをツイッターや2ちゃんねる等でしばしば見かける。そういう書き込みをしている奴は、ハンドルネームや書いている内容からほぼ特定できるのだが、バレるとは思っていないらしい。それが、“優秀”な奴のやることか!
 私は結構たくさん本を書いているので、首都圏や近畿圏の真面目な学生で、私の名前を知っている人はそれなりにいる。ウチのアホたちでも、学外の友人との会話や、ネット上での――それほどネガティヴでない学術的な――噂から、私が多少世の中的に知られている、という情報を仕入れてくることがあるようだ。しかし、連中は、“悪い先生である仲正”が、学外で結構名が知られている、という事実を認めたくない。「仲正なんて、学内じゃ全然知られていない。それは仲正自身に大して実力がないからだ。多分仲正は、自分がすごい先生であるかのように、外でほらふいて回っているんだろう」、ということにしてしまう――どんなほらをふいていると想像しているのか、私にはあまり想像できないが。自分たちにとって“悪い先生”が、世間的に評価されるがはずがないのである。
 私のようなのが、“悪い先生”であるのに対し、全然準備しないで教室でぼうっとしている学生に、その場でちょっとしたアドバイスしてやるだけで、すごい議論ができるようにしてくれる、サンデル先生のようなタイプの先生――言い換えると、田舎の高校生がイメージする“カリスマ予備校講師”のような先生――が“いい先生”であるようだ。
 自習しない人間が、ちょっとこつを教えてもらっただけで、“教師もびっくりするようなすごい意見を言う優秀な学生”になるはずなどないのだが、最近の大学教師には、「私のアドバイスを聞けば、短時間でみるみる実力がつく」式のことを平気で言うのがいる――学問に王道なし、というフレーズを知らないのだろう。プライドだけ高い奴は、そういうのにすぐ飛びつく。そのせいで、私のようなのは、ますます“悪い先生”になる。
 勉強関係での教師の悪口はまだいい。私は、図書館でおしゃべりしている学生を見つけると、注意することにしているが、それが気に入らないで、「仲正は変人だ」、とツブヤクアホがいる。ある時、図書館で調べものをしていたら、担当しているクラスの学生に、「質問があります」、と話かけられたので、「ここで話をしては、まずいので……」と小声で言って、小走りきみにその学生をつれて談話ルームへ入っていったことがある。そしたら、その一時間くらい後に、以前に私におしゃべりを注意されたらしい奴が、「仲正、この前は学生が図書館で話しをしているのを怒っていたのに、さっき走っていた。矛盾した。今なら論破できそうな気がする」、とツブヤイタ。こいつの頭はどうなっているのか?「矛盾」という言葉の意味を理解しているのか? 仮に、おしゃべり=走る、ということだとしても、多くの人がいる図書館の中で何十メートルも猛ダッシュで騒音をまき散らすような走り方ができるはずないだろう。“優秀な私に注意し、プライドを傷つけた仲正”は許せないとかねてから思っていたので、目の前で見たことをねじ曲げ、難癖を付けようとしたのだろう。
 その他、喫煙スペース以外のところで煙草を吸う奴とか、校舎の前でスケボーをする奴、花火をあげる奴など、ひどいのはたくさんいる。ごく少数ではあるが、授業中に立ち歩くやつとか、携帯で会話をする奴などもいる。これが、一流大学だろうか?