受験脳の弊害

仲正昌樹[第29回]
2016年1月31日

仲正昌樹

仲正昌樹

 前回、「受験脳」から抜け出せない人間に、「哲学」は無理ではないのか、という主旨のことを書いたが、受験脳の弊害は「哲学」だけに限った話ではない。文系の学問全般にとって障害になるのではないかと思う。
 私が受験脳と言っているのは、中高受験の社会科で多用される、穴埋め式の問題のようなものに答えられるようになることが知識の本質だと思い込んでいることである。試験の穴埋め問題は、小さな穴にうまく収まるよう調整されている。「○○年に関ケ原の戦いが起きた」とか、「△△が室町幕府を創設した」とか、「上位の領主が臣下に対して土地を割り当て、その支配を認める支配体制を□□制と呼ぶ」…というように。こういう問題に正しく答えられるようにするには、ひたすら機械的に暗記するしかない。そのため機械的に暗記することこそが、知識だと思うようになる。国語や英語の文法的に正しい形を()内に入れさせる問題や、正しい読み方や発音を答えさせる問題にも同じような効果がある。
 大学は自分の頭で考えるように仕向ける所なので、入学した時点で、「暗記中心の受験勉強はもう終わり!」、と一応指導する。当然、大学の(文系の)専門科目の期末試験では、穴埋め問題ではなくて、それなりに長い分量の文章で答えさせる問題を出すのが原則である。私の担当している政治思想史だったら、「ロックはどのような論理によって抵抗権を正当化したか、300字程度で説明しなさい」とか、「サンデルはロールズの『原初状態』論をどのような視点から批判したか400字程度で説明しなさい」、というような問題を出す。300字~400字程度の分量があれば、書き方にはそれなりにバリエーションがあるが、その通の専門家にとっては、許容範囲はほぼ決まっている。しかし、受験脳を卒業していない人間には、この程度の短い論述問題でも、覚え方のコツが分からないので、かなり苦痛のようである。
 大学受験でも小論文問題が出ることがあるので、多くの学生は高校や塾で指導を受けているはずだが、キーワードを入れて書きさえすれば及第点が取れる、というような適当な指導をしかしていない所も少なくないようである――あるいは、それ以上の高度なテクニックを教えても無駄になっているのかもしれない。大学でも、そういう感覚でやればいいと思っている学生は、試験前に教科書・参考書の大事そうなところを二~三回黙読して、キーワードらしいものをいくつか覚えて、準備できたつもりになるようである。しかし、いざ試験本番となると、そのキーワードをどのように繋いで文章にしたら良いかよく分かっていないので、見当外れの作文になってしまう。例えば、「サンデルは、ロールズの自然状態は実在しないので非現実的であると批判した。格差拡大を容認する格差原理ではなく、共同体全体の利益のことを考える共同体主義を提唱した」、という調子のひどい答案になったりする。ちゃんと分かっていなかったので、ひどい答案を書いてしまったという自覚があればまだいいが、本人はキーワードをちゃんと入れたはずなので、及第点が取れたはず、と思い込んでいることがある。こういう受験脳はかなり厄介である。
 最近では、試験後模範解答を公表することがルールになっている大学が多く、私も仕方なく、毎年模範解答を作って公表しているが、単純に単語だけ覚えた人間にはどこが間違っているのか分からないようである。試験前に前年の模範解答を丸暗記することを試みる学生は少なくない。当然、毎年少しずつ出題の主旨を変えている。ルソーが関係する問題でも、ある年には一般意志の定義について問うて、次の年には立法者の問題を問うというような感じで。しかし、受験脳人間には、問題の枠組が変わっていることが認識できず、覚えた昨年の模範解答をそのまま書こうとするので、ズレた答えになる。本人はズレていると思っていない。まともに採点したら、やたらと不合格者が出る。そうなると、不合格者たちが私のことを恨みに思い、「仲正は人格異常だ!」と騒ぎ回る。
 そういうことになるので、先生たちの中には、一定の割合で穴埋め問題を出して点を取りやすくしたり、「近代政治思想における『自由』の意義について論ぜよ」というような、何とでも書けてしまう、ほぼ自由作文の“問題”を出す人も少なくない。金沢大学のようにたちの悪い二流学生――二流の意味については、この連載の過去ログ参照――が多い大学では、そういうのが、学生思いのイイ先生である。そういうイイ先生が多いと、文系の学問は暗記穴埋めか、自由作文か、というすごく安易な二極構造で捉えられることになる。後者のイメージに囚われると、この連載の第二十二~二十四回で取り上げた、にわかソーカル信者や文系学部不要論者のように、自分の不勉強・理解力不足を棚に上げて、文系の学問はほぼすべてまやかしであり、哲学や文芸批評の難しいテクストを自分が理解できないのは、文系学者が全く無内容なことをインチキ用語で書いているからだと決めつける、クズになる。
 前者のイメージに囚われると、文系の学問は、「フッサールは●●主義者だ」とか「心の哲学では△△説が有利になっている」、といった穴埋め式の知識を蓄えることだと思い込むことになる。そういう人にとっては、哲学、文学、歴史学などの研究をするというのは、そういう穴埋めのためのデータを増やすこと、あるいは、データの中身を入れ替えることである。そのつもりのまま大学院生になってしまう人間も少なくない。近年は、東大・京大でさえ、院生を増やすことに懸命になっているので、受験脳の人間でも入れてしまうことが多々ある。そういう、なんちゃって院生の中から、「今度、◎◎学派で新進気鋭の◆◆が■■論の最新の成果を盛り込んだ論文◇◇を出した」、という類の知識をいち早く仕入れて、自慢して回りたがる、嫌味な輩が出てくる。◇◇論文の中身を説明したうえで、それが何故画期的なのか自分の言葉できちんと説明できれば、研究者としての最低限の素養を身に付けていると言えるが、単に穴の中身を暗記しているだけで、中身がよく分かっていない人間が多い。それが受験脳人間である。名詞を暗記しているだけなら、ハイデガーとアーレントの不倫だとか、パースが就職や金銭の面で周りの人に迷惑ばかりかけていた、▲▲には同性愛傾向があった…といった類のトリビア知識と変わらない。
 まともな研究者なら、穴の中身を正確に素早く暗記する能力ではなく、その言葉の意味するところを的確に把握し、その学問の体系の中に位置付ける能力こそが肝心であることは分かっているはずである。当該の概念が、どのような議論の文脈でどのような役割を担って使われているか理解していなければ、それと他の概念との整合性を吟味したり、新しく発見された資料や事実に照らして再評価することはできない。理系の学問だと、数式や実験器具を自分で使いこなせなければ、本物の研究者でないことがすぐにバレるし、その現実を突きつけられると、本人も認めざるを得ない。文系の場合、論文を書かせて、複数の専門家に読んでもらわないと、ただの暗記人間か、その分野の研究方法が分かっている人間かなかなか判別できない――ただ、判別が不可能なわけではない。無論、審査員に見る目がなかったり、怠慢だったりすることはあるが、ネットで「無能な審査員のおかげで私は冷や飯を食わされている」、とツブヤイている人間の大半は、その“無能な審査員”よりも遥かに無能である。それだけ自信があるのなら、他人の悪口をツブヤク前に、ちゃんとした論文にして公表し、まともな学者から評価されるよう努力すべきである。
 大学院生崩れ、元大学非常勤講師、予備校・高校教師、図書館司書、思想系ライターなどで、やたらと現役の大学教員と張り合って、ブログやツイッターで「今の▼▼学の連中は偽物ばかり。本当に分かっているのは私だけ!」、などと息巻いている人間のほとんどは、単にトリビア知識自慢をしているだけである--そのトリビア知識自体が、学問の前提を知らないがゆえの誤解にすぎないことも少なくない。そんな連中に“論争”をふっかけられても、まともな学者からしてみれば、学問とは何なのか分かっていない勘違い人間の言いがかりにすぎないので、相手にしたくない。それで放っておくと、「勝利した!」と騒ぎ立てる。そうやって、「勝ち/負け」に拘ることが、まさに受験脳の証拠である。TVのクイズ番組は、受験と同じ様なタイプの穴埋め問題にどれだけ正解できるかで勝ち負け、“知性”の高低が決まるかのような設定になっているが、それと同様の発想をしているのだろう。



2016年1月5日
受験脳から卒業できない人間に「哲学」は無理なのか?