【極北ラジオ開局カウントダウン連載】

深夜放送の怪人たち(2)アンダーグラウンド・フォークの怪人・なぎら健壱


竹村洋介[第8回]
2017年5月3日


「深夜放送の怪人たち」(1)のつボイノリオに続き、(2)ではなぎら健壱の足跡を検証する。第2回中津川フォークジャンボリーで本格デビュー後、深夜放送、映画、TVドラマまでマルチにこなすアンダーグラウンド・フォーク界きっての怪人といえば、なぎら健壱をおいてほかにいない。

おまわりのはなし
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なぎら健壱のライヴでのトークのことだ。

駅から自転車で家に帰ろうとすると、駅のそばにある交番で、おわまりがじーっと僕の方を見ているんですよ。その次の日もまたその次の日も。別に泉谷しげるのように黒いカバンを持っているわけでもないのに、視線だけが僕の方を見ている。反対にこっちが、おまわりに視線を合わそうとすると、おまわりはあわてて視線をそらす。高田渡のように盗難自転車に乗っているわけでもないのに。そういうことが毎日続く。とうとう気になって交番の中に踏み入ってみると、なんと僕の顔写真が貼ってある。俺は指名手配犯人か!と、思いきや、その写真の下に「相手にしてはいけない人」と手書きで書いてある。おまわりはいったい僕のことをどう思ってるんですかね。

マルチな怪人
怪人です、間違いなく。ひょっとするとこの連載でも「相手にしてはいけない」のかもしれません。しかし、この葛飾の怪人をほっておく手はないでしょう。アンダーグラウンド・フォーク界のみならず、深夜放送、エッセイ、雑誌、映画、TV、ドラマとマルチに活躍しているフォークシンガーを「怪人」編で取り挙げないわけにはいきません。
フォークシンガーが役者をつとめる例は泉谷しげるなど少なくないが、なぎらも映画『嗚呼!花の応援団』に薬痴寺南河内応援団OB役で出演し、日本映画大賞助演男優賞を獲得している。
著作も多く、『日本フォーク私的大全』『酒にまじわれば』『五つの赤い風船とフォークの時代』などの名著がある。コンピュータ雑誌『アスキー』の編集長を務めたこともある。下町愛好家としても知られ、サブカルチャー・マニア、とりわけ発禁レコードの収集などでも有名である。

デビューと高田渡
なぎら健壱1952年生まれ。その本格的デビューは、かの第2回中津川フォークジャンボリーである。アマチュアの飛び入りということで「怪盗ゴールデンバット」を演ったという。当時、なぎらはまだ東京の高校生。このとき同じく飛び入りをしたのが、のちにMBSのチャチャヤングのパーソナリティをつとめたひがしのひとしである。この飛び入りというのがいわくつきのもので、出演の順番整理ということで名前を書きこむと、それが契約書になったというものなのだ。加川良もこの第2回中津川フォークジャンボリーがデビューだ。彼は、高田渡が引きずり出したことになっているが、秘密のうちに予定されていた演出したものであることが、現在ではわかっている。
 翌1971年の第3回中津川フォークジャンボリーでは、なぎらは「教訓Ⅱ」を発表していることは後で見ることにしよう。大胆不敵である。この業界、かなり広く取っても、なぎら健壱が頭の上がらないのは高石ともや、高田渡、西岡たかしくらいのものだろう。泉谷しげるまでもが頭が上がらない。それでいて高田渡については、けっこう茶化したりしているのだが(高石と西岡はMBSチャチャヤングやKBS京都で深夜放送のパーソナリティをつとめているのでそこでまた詳しく書きたい)、尊敬しているように感じられる。
 高田渡との交遊は広く知られているだろうが―高田渡の通夜に西岡とともになぎらは列席している―、交遊というか大酒のみ仲間というか、友川かずきを入れて大酒豪の三人に数えられているようであるが、高田とはなんでも言いたいことを言える親友でもあったようである。
やはりなぎらのライヴでだが、高田渡が音楽で喰えなくなって市場でアルバイトをしているときのエピソードを次のようにしゃべっていることからもうかがい知れるだろう。

いやぁ、高田渡は顔に手拭いを巻いて冷凍庫に入れる仕事をしているんですよ。「高田さんですよね」というと「ちがう」という。いいじゃないですかねぇ。どんなアルバイトをしていても。「自転車に乗って」が一発あたると顔を隠さなければ恥ずかしいんでしょうね。

この怪人は大法螺吹きでも有名であるので、いくぶんかは差っ引いて聞く必要はあるだろうが。
インディーズのレコード会社を渡り歩いているのも特徴的だ。当時の2大インディーズURCとELECを渡り歩いたのは、なぎら健壱と西岡たかしくらいだろう。このいきさつについては、フォーク喫茶ジャンボリー エレック派特集 2/2に詳しい。ちなみに、フォーク喫茶ジャンボリー影響を受けた曲特集1/22/2は、坂崎といっしょに誰が誰をぱくったかを実演して見せているものでマニアには必見。
このなぎらも、放送禁止をいくつも喰らっている。代表的な曲としては前にも取りあげたことのある「悲惨な戦い」と「葛飾にバッタを見た」がある。(第6回「発売禁止・放送禁止と戦う深夜放送」参照)
「悲惨な戦い」が放送禁止になったのは半年たってから。あまりにもオーディエンスにこの曲をリクエストされるのでなぎら自身は辟易したそうだが。もともとはコミカルではありながらも正当なトーキング・ブルースの曲である。発売前から泉谷しげるがラジオ関東(現:アール・エフ・ラジオ日本)の『ミッドナイト・ムーヴメント』で、かけまくっていたのでなぎらは困惑したそうだ。僕が聞いたのは泉谷しげるが、スポーツ新聞に書かれたという一件である。
泉谷しげるが、放送でその記事を読むに「この泉谷しげるはずにのって、「「悲惨な戦い」というレコードを出し、ますますその下劣ささに輪をかけている」と書いてあるが、これはなぎら先生の曲です。どうか、どうか、ご勘弁をなぎら先生」と深夜放送で平謝り?していたのだ。この路線の集大成は『中毒』、なかでも「男は馬之介」に止めを刺すことになる。
初期からコミックソングと正統派フォーク(ガスリー・チルドレン、アメリカン・フォークの親分ウッディ・ガスリーの弟子たち)の二面性を持っている。正統派フォークのシンガーとしては、唄の市のジャケットに「マイナーの曲」に行き詰まって悩んでいるとある。カーター・ファミリー・ピッキングの名手として知られている。また現在にいたるまで吉祥寺・MANDA-LA2で毎月なぎら健壱+OWN RISKでカントリー調のフォーク・ソングを30年以上にわたって歌っている。
とりわけアングラ、アンダーグラウンドという名称に強い誇りを持っているようである。ほぼ同じ意味で「関西フォーク」と言われることもある。高石ともや、岡林信康、フォーククルセーダーズ、高田渡(のちに吉祥寺に移住するが、当時は京都に住んでいた)らがそう呼ばれた。なぎら自身は、東京出身のため、「メッセージソング」「関西フォーク」という言い方を極力さけているようだ。しかし、アンダーグラウンドということばに強い愛着を持っているようである。アンダーグラウンドという言葉自体は、N.Y.のロックバンド、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドからきたものであろう。ちなみに何度も書いてきたURCとは、アンダーグラウンド・レコード・クラブ(Underground Record Club)のイニシャルをとったものだ。

加川良『やぁ。』(URC、1973年)

加川良『やぁ。』(URC、1973年)

コミックソングの路線では1971年に発表された「教訓Ⅱ」(1971年、第3回中津川フォークジャンボリーで発表)(いも酎は60°ジンは40°/だから悪酔いをしないようにね/慌てるとついフラフラと/ 二日酔いなどになりますよ/青くなってもどしなさい 吐きなさい あげなさい)が嚆矢であろう。つまり加川良の名曲「教訓Ⅰ」(1970年、第2回中津川フォークジャンボリーで発表)(命は一つ人生は一回/だから命を捨てないようにね/慌てるとついフラフラと/お国のためなどと言われるとね/青くなって尻込みなさい 逃げなさい 隠れなさい)へのパロディで替え歌である。前年の第2回フォークジャンボリーを席巻した加川良の「教訓Ⅰ」を替え歌にしてしまうのだから、大した肝っ玉でもある(加川も、西岡たかしやひがしのひとしと同様、MBS「チャチャヤング」でパーソナリティを務めていた。高田渡の「仕事探し」及び「自転車に乗って」へのアンサーソング『仕事探しの高田渡に捧げる』などがある。

なぎら健壱と故・高田渡(右)

なぎら健壱と故・高田渡(右)

それでもギャラは安かった?
こんななぎら健壱だが、1970年代はギャラの安さに悩んでいたようだ。これは僕も迷惑をかけた。環境アセスメント条令案改悪阻止運動の資金集めのコンサートで1980年に駒場にお呼びした時も、ギャラ3万円とは安いものだった。学祭だったので、会場費はかからないもののキャパは500人程度、学祭という趣旨なので入場料4000円以下という条件がついていたので、どうしようもなかったのだが。覚えているところでは、長谷川きよしには事務所から断られた。そして会場は大いに沸いたのだが、ちっとも資金集めにならず、ちょうどなぎらのギャラ分が赤字になってしまった。それでも、プロデュースをしようという学生の意気に感じて出演してくれたのがなぎら健壱だったのだ(金がなかったこともあるが、一切、事務所などを通さず、照明・音響まで自分たちのきりもりでやってのけたのは良い思い出である)。
当時、なぎらはキャノンボールという店をやっていて、そこが連絡先となっていた。もっとも、この店も赤字に泣いていたそうではあるが。当時、なぎらはすでに大ヒットを持っていた。「一本でもニンジン」(1975年)である。「およげ!たいやきくん」のB面なのでこちらで売れたわけではないだろうが、EPを買えばB面も聴くだろうから多くの人が耳にしていたことは間違いない。しかしギャラは買い取りで3万円(ちなみにA面の子門真人は5万円)。印税方式にしておけば数百倍にはなっていたと、後々までもこぼしていた。1977年から「セイ!ヤング」のパーソナリティをつとめているが、そちらのギャラも安かったのだろうか?(ちなみに、前述の第2回フォークジャンボリーでなぎらと奇しくも同時にデビューしているひがしひとしのMBS「チャチャヤング」のギャラは3万円だと直接に聞いたことがある)。「セイ!ヤング」のそれについては良く知らないがこれらのことが重なってギャラの安さを嘆くことになっていたのだろうか?

『日本フォーク私的大全』

なぎら健壱『日本フォーク私的大全』(筑摩書房、1995年)

なぎら健壱『日本フォーク私的大全』(筑摩書房、1995年)

この本は、私的と形容はされているが、大全の名にふさわしい名著である。なかには、なぎら一流の法螺話も入ってはいるのだが。
 高田渡は自身が歌っている最中に酔っぱらって寝てしまい、目覚めると、平然と続きを歌いだすというのは、どうも本当のようだ。僕もこれに近いものを目にしたことがある。
 けなされていないのは、高石ともや、五つの赤い風船(西岡たかし)、高田渡(いや、彼は充分に俎上に挙げられているか?)など、数えるほどでしかない(フォーク・クルセイダーズだけは、彼がデビューする前に解散したためか、一章をさかれてはいないが。もちろん随所に記述はある。)。
この本はなぎらが考える「フォーク」とは何かをよく表している。加川良、三上寛、斎藤哲夫、吉田拓郎、泉谷しげる、RCサクセション、友川かずき、遠藤賢司etc.となぎら独特の毒舌でめったぎり。生前の高田渡によれば、「なぎらはシャイで内気だから、ああいうふうに言うんだ。もっと素直になればいいのに」ということだったが(高石ともや、高田渡、「五つの赤い風船」らには、敬意が感じられるタッチである)。
なぎらの考えるフォークとは、ロックではなく、ましてやニュー・ミュージックでもない。『ニュー・ミュージック・マガジン』(現:『ミュージック・マガジン』。ニュー・ミュージックの雑誌と勘違いされるのに嫌気がさし改名したらしい)という中村とうようが主催する雑誌はあったにせよ、また同じフォークという名称を使い長い歴史的には概括されるかもしれないカレッジ・フォークでもない。ウッディ・ガスリーを頂点として、P.P.M.、ジョーン・バエズ、ピート・シーガー、ボブ・ディランなど、アメリカの第二期フォーク・ブームを日本に取り入れた、なぎらが考える「フォーク・ソング」というものが『日本フォーク私的大全』にはある。強いて言うならば自由国民社が出していた『新譜ジャーナル』に近いだろう。同社は姉妹誌として『深夜放送ファン』を出していたが、今ではどちらも古本が高い値段で取引されている。昭和レトロと言っているよりも、『日本フォーク私的大全』は筑摩書房から文庫版も出ているので必読だ。(巻末に細かい索引や年表もついていて重宝する。またアマチュアの「フォーク・クルセイダーズ」とプロの「フォーク・クルセダーズ」を細かく分けるなど、なぎららしいこだわりもよく現れている)。
葛飾の怪人にしてアンダーグラウンドにこだわるフォーク・シンガーなぎら健壱。このあたりは「フォークシンガー」が面白い。先にも書いたように、役者もやれば、ライターもやる、もちろん深夜放送のパーソナリティも、編集者も。しかし、この人ほど、「フォーク・シンガー」という肩書が似合う怪人はそうはいないことだろう。
 最後に 「出張ゼミナール・ザ・フォークソング番外編」(1時間半あるので要注意)を捧げておこう。(45分あたり、拓郎の「イメージの歌」を泉谷しげるが、フォーク・ギターをエレクトリック・ギターのように低い位置に持ちながら、しかもはしょりながら歌っているのが見れます。他にもピンク・ピクルス、高石ともや、岡林信康、佐藤公彦、リリィ、遠藤賢司そして最後はフォーク癖ダーズが演っていた寺山修司作詞の「戦争は知らない」など見どころ満載です)。

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また文末になりましたが、「セイ!ヤング」のパーソナリティをつとめられた元スパイダースのムッシュかまやつことかまやつひろし1939年1月12日 – 2017年3月1日さんが亡くなられたことに哀悼の辞を捧げます。曲名は「シンシア」(南沙織のニックネーム)、作詞・作曲吉田拓郎、ゲストに南沙織本人という若き日の動画です。

p.s.文中に取りあげさせていただいた加川良さんも2017年4月5日に帰らぬ人となられました。命は一つ、人生は一回、謹んでお悔やみを申し上げさせていただきます。


kanren