匿名希望(第7回)

今月の千字綴り書き(第7回)
眠れぬ夜のための音楽を求めて(2)

 前回、就寝時、音楽、あるいはなにがしかの音がないと落ち着かない、何か物足りない感じがするというような意味の事を記し、これを夜の静寂に漕ぎだすオデュセウスの航海になぞらえ、睡眠を誘ってくれる音を求て孤床で繰り広げる遍歴を詳らかにしたところ、そこに何かしら病気の痕跡でも発見したのか、親切にも精神科医の診察を勧めて下さった読者があった。
 嬉しかった。その気遣い、その優しさも嬉しかったが、それ以上に、最低一人は読者がいたという発見が嬉しかった。
 たとえ一人でも読んでくれる読者がいるなら、いかなる艱難辛苦、全世界を敵に回してでも、たった一人の読者の為だけに書き続ける、討ち死に覚悟――、かかる大言壮語は百万の読者を担保している書き手にして初めて意味をなすセリフであって、村上春樹ならサマになるところだけれども、粉飾なく、文字通りたった一人、せいぜい片手の指の数しか読者をもたない書き手がこれを言っても、ひたすらお寒くなるばかり、それこそ病院ものであるが、気持ちの上ではそう言う感じになったのは事実であった。励まされたのは事実であった。

 従って、今回も読者の極少さにめげず、航海の続きを記して行きたいと思う。
 ちなみに前回記したユリシーズ、正しくはオデュセウスではないかという指摘をうけた。そこでちょっと弁解じみた事を一言。
 そもそもこの記事自体に深い意味はないのだから、そこでの表記にこだわることは更に意味をなさないと思っていたので、深く考えていなかった。どうでもいいことだと思っていた。それが大前提としてあったのである。
 それでもあえて理由を言えば、未だに「ブラインドタッチ」でキーボードを操作できず、人差し指と中指の二本、両手を合わせて計4本で操作している事が災いし、モニターを見ながら入力できないので、オデュセウスのように、「デュ」などという表記があると、熟練の徒にはこの苦労は多分わからないと思うけれども、打ち間違いをし、しかも間違いに気付かずそのまま打ち続けることが多いため、なるべく、かかる誤記を避けるべく、可能な限り平易な表記に流れる傾向があり、必然的にオデュセウスはユリシーズになるのであった。たったそれだけのことである。しかし、前回、指摘を受けた事だし、今回はオデュセウスで行く事にする。

 東京FMの「シンフォニア」はさながらセイレーンの歌声にも似て、聴くものをして虜にしないでおかなかった。ICレコーダーで録音し、後にここで記録した楽曲をyou tubeで検索、更にダウンロードして私家版名曲コレクションにまで発展した経緯は前回お伝えしたが、睡眠導入用に聴き始めたはずの「シンフォニア」にここまで肩入れするようになると、本末転倒で、眠る為に聴いているのか、聴く為に寝ているのか、その辺が曖昧になって来るし、労力の割にはどうも得るものがすくないような気にもなってきて、やがてセイレーンの魔力から解かれる事になるのだが、ある時、ゴールデン街で朝の4時近くまで呑んでそのまま会社に戻って寝た事があった。自宅に戻るのは1ヵ月にせいぜい1日位、それ以外は会社に泊まり込んでいるので、これは別にめずらしいことではない。
 いつもなら、反省堂と名付けられた(懲罰室とも言われている)二畳ほどの部屋の机とロッカーの間のわずかな空間に並べた、書籍運搬用の箱の上にのせたベニヤ板の上で、寝袋に包まって横になるところだけれども、この簡易ベッド、作業用の机としても併用しており、この日はたまたま、書籍、原稿のコピー、文房具などで机上狼藉を極めていたので、片付けるのが面倒くさくなり、同フロアで同居している別の会社の「雀の間」に酩酊する躯を横たえたのであった。

反省堂


雀の間から新宿をのぞむ

 雀の間とは、文字通り、この部屋、雀が二羽飛び交っていることから便宜的にそうよばれているのである(一羽は籠の中)。季節にもよるが、大抵朝5時前後になると、二羽、互いに譲らず美声を競って喧しく啼いている。この日、既に「シンフォニア」は始まっていたが、かかる状態でもラジオ、ICレコーダーを忘れる事はなく、しかもこの日は、最初からスイッチを入れたままにして横になったのであった。

 ICレコーダーを後で聴き返していると、ヘンデルのオルガン協奏曲、ハイドンのホルン協奏曲、モーツァルトのフルートソナタ、ベートーベンチェロソナタetc、の心地よい旋律に、雀の啼き声が絶妙に絡み合って、まるで市販されている環境音楽のしかも絶品の風情ではないか。
 ところが、しみじみ聴き惚れていると、途中から妙な雑音が入るのが気になりだした。何やら地底を揺るがすようなただならぬ音である。
 テレビドラマ風に映像化するならば、ヘンデルの旋律に合わせて、避暑地の白樺林に金色の木漏れ日が射すと、早朝の神聖さを言祝ぐかのように、小鳥達が啼きながら一斉に飛び立ち、光の中を乱舞する――、そんな高原の花嫁みたいな、仕合わせモードから、一転、物語は妖怪ものを予感させるような不気味方向へと大きく舵をきる――、そんな感じの妙な音が混じりはじめたのであった。強いて相似の音を探るとすれば、ガマガエルの鳴き声に似ていた。
 しかし、ヘンデルはわかる、ハイドンも然り、当然である、ラジオで流れていたではないか、雀なんか今でも啼いている。しかし、このガマガエルはどこから来たのか……、わからないのであった。しかも、その音はますます無遠慮かつ大胆になって来る……、そこでハッと気付いたのである。

 これはイビキであった。これは自分のイビキだったのである。酔いつぶれ爆睡状態で、なにもわからないまま無防備に録音された自分のイビキだったのである。
 しかも、期せずして、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、べートーベンなどの巨匠と雀を交えた貴重な作品に仕上がっていたのであった。
 そう思って聴きかえすと、あのガマガエルは人をして粛然足らしめる荘厳なベースの響きのようでもあるし、はたまた哀愁漂う酔っぱらいの悔悟のうめきのようにも聞こえ、いずれにせよ当人にとっては、抑え難い愛着を感じさせてしまうのであった。芸術作品とはこうした偶然の中に生まれるのではないだろうかと思ったほどである。
 これこそ前回予告した「シンフォニア」が残して行った貴重な置き土産の正体である。機会があれば、観音の夕べなど開催し、多くの人に聴いてもらいたいと思っている(え? 聴きたくない、あ、そっ)。

 今日は以上で終わる。読者は今回「シンフォニア」の置き土産の正体を知った事だけで満足せねばならない。
 それにしても我がオデュセウスは、いつエリック・クラプトンにたどり着くのだろうか。