たけもとのぶひろ(第2回)

2012年10月8日(体育の日、月曜日、晴れ)

 突然ですが、1972年1月9日という日付けの話から始めます。これはぼく以外の誰にとっても、毎年めぐってくる365日のうちの1日にすぎませんよね。しかし、ぼくにとっては、その日を境に全国に指名手配されて潜行生活に入り、その3月、関西を後にして京都には帰らず、ここまで来てしまった、特別な日です。あの日はその始まりの年月日ですからね、忘れたことがありません。
 だからと言って、あれから40年、というふうに数えたことはなかったのです。ところが、何がきっかけであったか、ふと気づいてみると、これまでのぼくの人生は、おおよそ、東京(関東)が40年であるのに対して、生まれ故郷の京都(関西)は30年余りにすぎないのでした。手配書に「関西弁を喋る」と書いていただいたほど関西弁を好み、関西人であることを誇りにしてきたぼくなのに、その関西よりも東京(関東)での生活のほうがなんと10年も長いのです。
 その東京を離れました。渋谷の事務所と三軒茶屋の下宿を引き払ったのが6月29日。そしてあらかじめ契約していた京都の事務所に東京の荷物を搬入したのが7月2日でした。
 その前後の顛末を少し書いておきたいと思います。
 荷物の運搬はヤマト運輸に頼みました。そもそもクロネコが好きなことが一つ。潜行生活中常に伴侶として支え励ましてくれた猫の「つよし」もクロネコでしたし。7年前にぼくは東京で単身赴任、自宅は引っ越して京都、という二重生活態勢にしたときに、東京から連れて行った「五郎」も『ニィ一子』もクロネコですし、京都に帰ってから拾った「ペ口」だってクロネコ。みんなクロネコですからね。それともう一つ。16年4か月におよんだ、東京でのぼくらの映像制作会社「メディア・コム」時代はもちろん、その前に勤めていた同種の制作会社のときから、お世話になっていたフリー・ディレクターの浜田さんとの間で、「3.11」以後は何度も、「荷物を頼むならゼッタイにクロネコヤマトだよね」と確かめ合い、「クチコミで宣伝しなくちゃね」と言い合ってきた、そういう記憶もありましたし。

SANYO DIGITAL CAMERA

 京都帰還の話を始める前に、これはクチコミというよりマスコミの一例なのですが、それを紹介しておきたいと思います。朝日新聞の編集委員、安井孝之氏のコラム「波聞風問(はもんふうもん)」(2012年9月23日)の前半分です。当該部分の全体を引用します。

【黄金色に実った稲穂が垂れていた。
福島県中通りの南の地域で稲刈りが始まった。収穫期を迎えた19日、新米を低
温で保管する農業倉庫が完成した。東西しらかわ農業協同組合(白河市)の鈴
木明雄組合長は、「地域の発展に役立つ施設にしたい」と語る。
収穫したコメは、出荷が終わるまで長くて1年近く保管する。気温が上がる初
夏以降はコメの風味が落ちたり、虫が発生したりして商品価値が下がる。低温
倉庫は、農業所得の安定に必要だ。
この地域にあった倉庫は大震災で損壊。新倉庫は、今年の出荷に間にあわせて
つくった。建設費2億7千万円を出したのは、ヤマト福祉財団(有富慶二理事
長)。元ヤマト運輸社長の故小倉昌男氏が設立した。
今回の震災でヤマトホールディングスは宅配便1個につき10円、総額142億円余
りを財団に寄付。そこから31件の復興事業にお金を出した。
有富理事長は「倉庫を地域復興の起爆剤に」と語り、鈴木組合長は「放射能を
調べる全量検査もする。福島産のコメを食べてほしい」と新米の出荷に期待す
る。震災後、多くの企業が寄付し、ボランティアを出した。震災から1年半が
過ぎ、支援活動は全体では低調になった。でも、ヤマトの支援は2016年3月ま
で続く。】

 ヤマト運輸は自分たちの寄付行為をコマーシャルに使ったりせず、黙って被災地救援活動を続けています。それも、まだこれから3年半以上も続けると約束しているというのです。心憎いまでの「陰徳」、と感服するほかありません。
 さて、本題です。若い人2人と一緒に「メディア・コム」を立ち上げたのは、16年半も昔のことでした。こんなに長い間もったのは、もちろん多くの友人たちが仕事を作ってくれたからだし、その前に、手取り足取り仕事そのものを教えてくれたからです。多くの友だちがーから十まで支えてくれ助けてくれていなかったら、メディア・コムもぼく自身もどうなっていたことか。それを思うとゾッとします。
 若い仲間の一人はおおよそ8年前に辞めて、いまは和歌山で漁師をしています。3人の子どもと嫁はんを食わせているのですから、もう一人前の漁師です。別の一人は、漁師の彼よりも2、3年早い退職でしたから、いなくなってもう10 年以上になります。事情があって、彼のその後はわかりません。こう書いてきて気づいたのですが、友人たちは、その後8年間も、ぼく一人にこの会社をやらせてくれていたのですよね。驚きました。
 この事実に気づいたのはたった今のことです。けれど、長い間一人でやって来たのだし、との思いは、移転作業を始めるに当たって強くありました。全部の作業を一人でやろう、と決めました。声をかければ助けてくれる友だちもあったのに、一人でやるだなんて、体がもつかどうかも怪しいのに、ええ歳をしてほんまにアホです。クロネコとの交渉は別格として、他にもあるわあるわ。電気・ガス・水道・NTT 関連・不動産業者と大家さん・金融機関・郵便局・廃品回収業者・社労士事務所・移転通知書などの、文書作成やら手続きやら交渉やら。それよりもなによりも、膨大な量の企画書・契約書・会計資料、何百本もの各種テープの処理及び廃棄、その量に勝るとも劣らない物凄い量の本の廃棄、その他ありとあらゆるもの、何台もの古いパソコンから冷蔵庫からガスコンロからパーティションから椅子から整理棚から台所の鍋や食器に至るまで、みんなゴミとして出す作業です。
 とくに本は未練がありました。いちいち考えていたら、棄てることができません。本を棄てるなんて、とんでもない! 考えたこともなかったことです。しかし、移転先の京都の事務所は小さなアパートですから、容れられる量は限られています。しかも、東京の本だけでなく、京都の自宅の本も、アパートの事務所に収納しなければならないのですから。本は手にとってタイトルを一瞥して一瞬のうちに取捨選択をし、あとは、目をつぶってどんどん重ねて束にしていく。この要領でやらないと、終わりません。しかし、終わらさなければならないのですからね。
 これらの作業を開始したのが6月5目。クロネコが荷物をとりに来たのが同月29日でした。3 週間以上、来る日も来る日も、この種の仕事の連続でした。
 京都の事務所に荷物が搬入されたのは、東京を出てから3日後の7月2日でした。自宅から歩いて10分足らずのところにある新しい「メディア・コム」の事務所は、数十年前の昔ならどこにでもあった二階建てのアパートの2階です。トイレ付き玄関、ユニットバス付き台所、6畳と2畳のタタミの部屋、という間取りです。(大昔の一時期、部屋の中に置くための大きな“蚕”みたいな風呂が流行ったそうですが、それのあるアパートに入ったのは初めてです)。
 京都でもやはり、電気・ガス・水道・大家さん関係の手続き、会社の再登記、銀行口座の開設などは改めてしなければなりません。なんやかやと雑事を済ませて自宅の本の整理にとりかかったのが7月15日。便利屋に頼んで本を搬入し終えたのが22日でした。
 京都の自宅の本は、とくに全集をごそっと棄てました。マルクスやレーニンはとっくの昔に何の未練もなく棄てていましたが、このたび宮沢賢治や魯迅や山本周五郎や上野英信を棄てるに際しては、一時は傾倒した作家だけに躊躇しました。けれど、結局は棄てました。図書館に行けば借りることができるのだし、というのが言い訳です。
 ただ、ローザ・ルクセンブルグ関係の本については、さすがに気がとがめて手放すことができませんでした。それらのほとんどが東京の古本屋で買い求めた書物です。研究を再開していたわけでもないし、京都時代に読んでいた本は1冊も含まれていなかったのですが。
 すべてを終えてほっと一息ついたのがよくなかったのか、風邪をひいて寝ました。寝ると言っても、東京時代と違って、細君との共同生活ですから、アレもコレもと用事があって、休まりません。しんどい毎日です。なんの気兼ねもなく、決まった時間に事務所に出勤し、決まった時間に帰ってくる――そういう生活が理想なのだけれど、そうは問屋が卸してくれないようです。そうこうするうちに8月になり、2日と10日は五反田のNTT 関東病院の外科に出かけました。5年前の8月2日に手術してもらった食道がんの再発可能性を調べるための最終精密検査とその検査結果を訊くのが目的です。結果は上々、食道がんについては再発しないとの診断結果でした。ラッキーでした。感謝です。
 ですが、現状はいまひとつ元気一杯というふうにはいきそうにありません。6月5日からこちらずっと蓄積してきた疲労によって、身心の全域が制圧されているみたいな、そういう感じなのです。
 こういう心身の状態を指して世間の人たちは多分、「歳は争えない」とか「歳には勝てない」とか、言っているのかもしれません。あるいはそう言って言えなくはないかもしれませんが、と書き終わらないうちに、強烈に反発する声が自分の中から怒鳴り上げてきます。“これ式のことで弱気になってどないするねん、泣きを入れている場合やないやろ、もっとシャキッとせんかい”と。
 それはそうなのです。70歳を超えても日頃のぼくは、老人という範疇に自分が入っていると思ったことがありません。自分を年寄りだと思ったことがないから、「敬老の日」なんかでも、誰のことかいな、というのが実感です。いくら強弁しても、自分の外見が老人のソレであることくらいはぼくだって十二分に承知しています。しかしながら、ここが我ながら妙なところですが、毎日の生活では、自分のことを必ずしも年齢そのままには思っていないらしい。どうもそのようです。しかもこれは、決してぼくだけのことではないのではないでしょうか。
 自分の年齢を意識しないで生きる。年齢という時間を無視し、それと関係ないかのごとく生きる。いわゆる ageless life これこそは、老いたる者にのみ許された特権と言えるかもしれません。
 あなたには、これらが“負け惜しみの減らず口”と聞こえますか。
 それは、しかし、そのように生きなくてはいられない理由(わけ)があると思えるのです。
 この点については次回に考えます。