たけもとのぶひろ(第9回)

松井秀喜の引退会見の報道に触れて

 年末の12月28日、松井秀喜選手の引退を伝える新聞報道を見た(朝日新聞)。28日の朝刊、夕刊、29日の天声人語、を繰り返し読んだ。阪神ファンである前に巨人嫌いのぼくですら、いつの頃からか、心秘かに松井選手に強く惹かれるものを感じてきた。松井という選手の存在は巨人という一つの球団を超えてしもうとるからな、というのがぼくの言い訳だった。それに彼は、もともと阪神に来たかったのだし、というのもあった。
 巨人というチームには、ぼくらの劣等感のせいもあろうが、どこかしら球界ナンバーワンチームのエリート意識みたいなものが顔に書いである選手が多いような気がして、どうしても好きになれないのだった。が、松井選手だけは例外だった。いつも「奢らず高ぶらずただひたすら」という感じ。得意げに振る舞うのができなくて、「恥ずかしそうに笑うのがやっと」という感じ。そういう雰囲気が無理なく身についていて、見る者をして、それが彼の生き方そのものではないかと感じさせてくれたからではないか。

 ここで松井の20年を振り返っておきたい。
 1992年8月の全国高校野球選手権に星稜(石川)の4番として出場した松井は、明徳義塾(高知)戦で5打席連続敬遠された。明徳へのブーイングは高校野球の勝利至上主義を問うところとなり、松井は図らずも時の人となる。同年11月、ドラフト会議で巨人の長嶋監督が松井のくじを引き当て、生涯の師と仰ぐ長嶋と運命的な出会いをはたす。長嶋は「4番1千日計画」をぶちあげ、田園調布の自宅で毎日のように2人きりのバッティング指導をし、松井を「最高のホームランバッター」に育て上げた。師の期待に応えて松井は、93年5月ヤクルト戦で初ホームランを打って以来、96年には打率3割1分4厘、38本塁打でセ・リーグMVPを初受賞。98年、00年、02年は本塁打王・打点王に輝いた。02年、本塁打50本・打点107点・打率0.334とほとんど自己ベストを極め、オフでフリーエージェントを宣言し、ヤンキース入りを果たす。背中を押して大リーグ・ヤンキースへの挑戦に導いてくれたのも、師の長嶋だったという。松井は明かしている。「長嶋さんに、(元ヤンキースの)ジョー・ディマジオを目指せと言われた。その言葉が心の中に残ったから」と。

 03年、大リーグ・デビュー戦のことを、12月29日の「天声人語」は次のように書いている。「松井秀喜選手は日本で332本の本塁打を打った。渡米して初のアーチは本拠地ヤンキースタジアムでの顔見せの初戦、しかも満塁弾だった。試合後の言葉がよかった。「333本目ではなく、1 本目です」。ニューヨークに住む日本人が大いに沸いたのが記憶に新しい」と。翌04年は本塁打31本・打点108点・打率0.298、さらに05年には本塁打こそ23本と少し下げたが、打点は116点と日米通算最高点をたたき出し、打率も0.305と大リーグ時代の最高を記録したのであった。
 しかしその後の松井は、大きく運が傾く中での自分との闘いが続いた。まずは06年5月に守備で左手首を骨折(日米通算1768試合連続出場ストップ)、次は07年の(5月には日米通算2000本安打を達成しながら)11月に右膝の負傷・手術、さらに追い打ちをかけるように翌08年の9月に今度は左膝の負傷・手術、と試練の連続であった。それでも松井は、めげなかった。その時その時の自己のベストを実現するための練習を止めることはなかった。天がそんな彼を見放すはずがない。松井は、09年11月、ワールドシリーズにおけるヤンキースの優勝に大きく貫献し、日本人初のMVPに輝いた。

 しかし、「全てが実力次第」の米国・大リーグは決して甘くはなかった。松井はMVP(優優秀選手)に選ばれながらヤンキースを後にして、10年にはエンゼルスへ移籍し、なお翌11年にはアスレチックスへ再移籍せざるをえなかった。しかも昨12年は、どこの球団ともメジャー契約を結ぶことができず、4月にようやくレイズとマイナー契約を結んだものの、それも8月には自由契約となり、退団を余儀なくされた。それでもなお彼は、契約先を探していた。「最も愛した、好きな」野球をやめたくなかった。まだやれる。現役の選手でいたかった。が、買い手は現われず、ついに現役引退を決意した。否、決意したというより、決意しないわけにはいかないところにまで追い込まれたのであった。   
 
 引退会見の場に選ばれたニューヨークのホテルには、十数台のカメラ、およそ八十人にのぼる記者や関係者が集結したという。そこで行われた一問一答の会見の模様を伝えた朝日の記者・鷹見正之は、そのリードの部分で、「球界の王道を歩み続けた男が、ひと言ひと言かみしめるように、野球人生を振り返った」と書いている。
 また翌日の天声人語氏も書いている。「松井選手の引退会見をテレビで見た。口を一文字に結ぶ表情で、言葉をさぐるように話す」。「結果が出なくなった。命がけのプレーも終わりを迎えた」。「38歳。万感を押し殺すような、男の顔だった」と。
 
 残念ながらぼくは、テレビのその場面を見損なったが、彼の表情や様子は手にとるように心に描くことができる。その一問一答のなかで、ぼくの印象に残ったのは「引退」の二文字についての松井の強いこだわりだった。彼にとってそれは、口にするのも避けたいほどの、強いこだわりなのではないか。
 冒頭の記者の質問「いつ引退を決断したのか」に対する松井の答えは、「そういう気持ちは常にあったが、野球が好きだし、プレーしたい気持ちも心の中にあった。傾いたのは最近です」というもので、自分の言葉としては「引退」とは口に出して言っていない。
 最後のほうで形通りに「今の心境は」と聞かれて、ようやくその二文字を言いはしたものの、今でもやはりその言葉を否定したい気持ちなのだ、と次のように述べている。
 「寂しい気持ちとホッとした気持ちと、複雑ですね。まあ、引退ということになるが、自分としては引退という言葉を使いたくはない。草野球の予定もあるし、まだまだプレーしたい」(笑)と。
 「引退」ではなくて 「区切り」だ、と強弁さえしている。曰く、「本日をもちまして、プロ野球人生に区切りをつけたいと思います」と。

 引退したくなかったのだ。だからこそ、エンゼルス(2010年)、アスレチックス(2011年)、レイズ(2012年)と、自分を買ってくれる球団を求めて転々とした。しかも、最後の球団となったレイズでは、甘んじて結んだマイナー契約(4月)を破棄される辱めを受けた(8月)。退団せざるをえなかった彼は、それでもなお契約先を探し求めた。諦めきれなかったのだと思う。それほどに野球が好きだったのだろう。彼が言ったようにそれは、口で言うと「最も愛した、好きなもの」への思い、などと月並みな文句になってしまうのだけれど、被のなかでは、それはそれは筆舌に尽くせないほどの、自分の全て、自分自身と言いたいほどの、したがって断ち切りがたい思いだったのだと察せられる。

 引退会見の場においてなお「引退」という言葉は使いたくはない、などと。それがこの期に及んで言うことか、と人は言うかもしれない。しかし、待ってほしい。
 他人の目にいかに未練たらしく映ろうとも、あるいは自分としてはいかに不本意な処遇であったとしても、自分の好きなものに対してどこまでも殉じていく――見た目にはあまり格好よくないかもしれないが、そういうところが、あえて言うと松井の魅力ではないのか。あるいはそこまでと言わしめるところにこそ、松井の偉さがあるのかもしれない。ぼくなんかはそういう思いがしてならない。

 ところが、松井がこの決意に至るまでどれだけ苦しんだか、まったくわかろうとしていない人がいる。あの甲子園の5連続敬遠のときの星稜高校の監督、山下智茂氏(67)である。
 氏は引退会見を見ての感想を次のように語ったという。「まだプレーができる状態だとは思うが、命がけで野球ができないから、という理由で潔くやめたのは、彼らしい、良い決断だ」と。そして朝日新聞はこれを受けて、“高校恩師「潔い決断」”と大きく見出しに採り上げている。
 潔ければ良いのか。潔く散れば男らしいのか、立派なのか。散るのを眺めているほうは、そう言って済ませられるであろう。しかし、散る本人はそうはいかない。葛藤と懊悩の末に疲れ果て、なんとか自分をあきらめさせ、断念に至るのだ。それを「潔い決断」などと飾り立てて、大の大人がその気になっている。ただ、己が冷たいだけではないか。
 高校の教師も教師なら、朝日も朝日だ。疑うのなら、先の戦時中に、教師や新聞が何を言っていたか、想い出すだけで十分だと思う。特攻隊員は言うに及ばず、動員されて戦地に赴いた全ての学徒が、この種の「潔さの美学」に欺かれたのであった。
 松井は潔くやめたのではない。ふざけるな!

 このように書いてきた論旨は、一問一答の次の部分をみるとき、少し齟齬をきたすかに思われるかもしれない。記者根性というものであろうか、意地の悪い問いをしかけている。人間は神様ではないのだから、人生に悔いのない人などいるわけがない。それを承知の上で、記者は「悔いはないのか」と問うている。松井の答えは「その時、その時で考えて決断したことに何一つ悔いはない」というものだった。
 王貞治も、求められた感想のなかで、「過酷でも自分の選んだ道を歩んで来ただけに、悔いのない野球人生だったと思います」と同様の趣旨のことを述べている。
 すべては自分で考えて「決断」し「選択」してきたことである以上 「何一つ悔いはない」と表現としでは、言葉としてはそういう流れになるしかない。もう少し言い方を変えると、決断とか選択という言葉は、「悔いのない」という言葉がそれらの枕詞であるかのように思われるほど相性がいいのではないか。ぼくらの国の文化の中にそういう回路ができてしまっているのではないか。だから、自分が 「その時その時で考えて決断した」と言ってしまうと、おのずと 「何一つ悔いはない」となってしまう。どうしても「何一つ悔いはない」と言わないと終わりようがないのだと思う。

 しかし、それはやはり無理があるのではないか。神ならぬ人間である限り、ままならぬことはむしろ数限りなくあるのが当たり前で、いかに松井でも悔しい思い(悔い)は嫌というほどしてきているのだ。大リーグ10年のうちの最後の3年は臥薪嘗胆の日々であったことは想橡に難くない。
 ちなみに「悔しい」という言葉を辞書で調べてみた。ある辞典には、「自分の受けた挫折感・敗北感・屈辱感などに対して、そのままあきらめることが出来ず、どうにかして・もう一度りっぱにやり遂げてみたい(相手を見返してやりたい)という気持ちに駆られる様子」とある。また別の辞典には、 「負けたり、恥を与えられたり、自分の無力を知ったりして、残念だ。無念だ」とある。
 彼もこのような感情を味わったことがないはずがない。しかし、自分だけの松井にとどまるのならともかく、ファンの「松井」でもある。泣きが入ったままで終わるわけにはいかない。世間では、見栄を張ってなんぼ、と決めるところで決めないとしのげない場面というものがあるのだと思う。本当のことを言うと、悔いはある、それも他人に分けてやりたいほどある。だが、ここは“何一つ悔いはない”と自他に向かって見栄を切る、切らねばならない、そういう場面だったのではないか。ファンの身贔屓と言われるかもしれないが、そう強弁したい気にさせるところが松井の松井たる所以かもしれない。

 「潔い決断」などと見当外れなことはいっさい口にせず、見事に彼の本当の心のありかを、「ファンの抱く松井像を優先した決断だった」と言い当てたのは、松井自身が師と慕う長嶋茂雄元監督であった。
 球団を通じて発表した彼のコメントは以下の通りであったという。
 「大好きな野球を続けたいという本心よりも、ファンの抱く松井像を優先した決断だったように思う。最後の2、3年は投手と対戦する前に、ひざの故障と闘う毎日で、本人もつらかっただろう。2000年の日本シリーズで、09年のワールドシリーズで、チームを優勝に導いた大きなホームランが目に浮かぶ。個人的には、2人きりで毎日続けた素振りの音が耳に残っている」。そして松井自身も、20年間で一番思い浮かぶシーンを聞かれると「長嶋監督と2人で素振りをした時間」と答えたという。
 ふたりは申し合わせたわけでもないのに、一番の思い出として同じ「素振りの情景」をあげている。この師にしてこの弟子あり、というべきか。