たけもとのぶひろ(第4回)

2012年10月25日(晴)

 いつもどさっと入ってくる新聞の折り込み広告は見ないで処理するのが習慣ですが、なんかの拍子に眺めることがあります。その際、たまたまの偶然が幸いして、自分の関心を直撃するような情報に出会ったりもします。
 その、たまたまのラッキーな偶然を、つい先頃、体験しました。目にとまったのは、広告というより“お知らせリーフレット”という趣きのものでした。

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 「京都大学宇治キャンパス公開2012/10月20日(土)21日(日)」という、その二つ折のリーフレットによると、宇治キャンパスは、
 1、 理系の4つの研究所と大学院を含む11のサテライトを結集して、科学の先端をいく研究に従事しており、
 2、 16年前から毎年この時期に何十もの公開ラボやいくつもの講演会をプランニングして、学外の人たちにも「知るよろこび、考える楽しさ」を体験してもらっている、ということらしいのです。
 見るなり直観的に思いました。「よっしゃ、行ったろ、行かしてもらおう! チャンスや! ぼくらの宇治分校の中に入れるぞ!」と。そして実際に、行きました。行ってみてどうだったか、そのことを書きます。
 行こうと決めるが早いか、友人のO君に電話をかけていました。彼は大阪府在住ですが、京都のすぐ隣りの市ですし、宇治へ行くのに1時間はかかりません。
 「あのなぁ、宇治分校の中に入れるぞ! この20日と21日、オープンキャンパスやてぇ、行かへんか? 」 「行く行く、へえ懐かしいなぁ。どうなってるやろか?」
 20日の土曜日、14時、JR奈良線の黄檗駅で待ち合わせることにしました。
 O君とは経済学部の4年間ずっと一緒でした。1回生2回生は同じE3のクラスでしたし、3回生4回生のゼミも新左翼に人気の平井ゼミだったから同じ選択でした。60年安保とそれ以降の学生運動についても、お互いにそれなりのお付き合いをしました。4回生のときの「大管法闘争」が最後でした。彼は就職し、ぼくが学校に残ったあとも、関西ブント系の大阪労働者学園の活動なんかは一緒でした。60年代末、「造反有理・大学解体」の全共闘運動が燎原の火のごとく燃え広がったとき、ぼくはその勢いに呑まれてただ流されていくだけで、挙げ句の果てはご承知の通りでしたが、彼はぼくらの運動に共感しながらも、時代の全体を見る冷静な目を失いませんでした。社会的ポジショニングのちがいを生かして、むしろ助太刀の役割りを買って出たのでした。
 ぼくが潜行生活に入ってからの彼は、つねに警察の監視対象でしたから、お互いに接触するなんて考えもしませんでしたが、パクられてからは毎月、浦和拘置所に多額の送金を続けてくれたのでした。ここに書くのはためらわれるようなプライベー卜な面でも世話になったことがアレコレとたくさんあります。が、書かないでおきます。
 10月20目、快晴。懐かしの宇治分校を訪ねる日です。14時03分、JR奈良線の黄檗駅に着きました。彼はひとつ前の電車で来たらしく、駅前の小さな広場のベンチに腰掛けていました。かけ寄りました。
 「済まん、済まん、3分遅れや」
 「かまへん、かまへん、許容範囲や」
 駅前に長居は無用、早く行きたい。このJRの駅からすぐ近くだと地図は教えているけれど、京都市内からだと国鉄は交通の便が悪いので、当時はこの駅を一度も利用したことがありませんでした。
 「遠回りやけど、京阪の駅から行くやろ?」
 どちらからともなく、そういう話になりました。京阪電車の黄檗駅まで歩いて引き返し、そこから昔登校した道順通りに行きたいのです。京阪の駅は利用客が少ないからでしょう、うら寂れた感じです。
 「ぼくらが乗り降りした昔もこういう感じやったねえ」
 昔、昔、と言うけれど、どれくらい昔なのか。書いているぼくが驚くくらいですから、これを読む人もさぞかし驚いてくれると思うのですが、ここで言う昔とは、正確には52年前、ざっと半世紀前の昔なのです。
 すべてが一変していたとしても不思議ではありません。京阪の駅を右に出てすぐのところはT字路になっていて、突き当たりが自衛隊のはず、というのが記憶です。これは正解で、今も「陸上自衛隊宇治駐屯地」の看板がかかっていました。その手前の左側に確か「中西書店」とかいう本屋があったはずですが、学生がいなくなったのですから、なくなっていて当たり前です。陸上自衛隊を左折すれば、昔なら、その並びはそのまま宇治分校の敷地へと続き、道の向かいは田んぼだけとなっていたのですが、今は違います。田んぼが並んでいたところは家や商店がすき間なく埋め尽くしているし、自衛隊の続きには幼稚園と中学校が出現しており、その後にようやく京大の宇治キャンパスが見えてくるのでした。
 ここでちょっと、京大宇治分校の歴史をふり返っておきましょう。敗戦後のわが国はGHQ統治の下で、旧制帝大から新制大学へと移行せざるをえず、新制の大学生を迎え入れるだけの人材や校舎はもとより、そのスペースさえ事欠く有り様だったのだと思います。国は思案投げ首、やりくり算段の末、宇治の旧帝国陸軍兵舎跡地を京大教養の1回生校舎に当てたのでありましょう。急場しのぎのその宇治分校は、国立学校設置法(1949年施行)に基づいて1950年度に最初の1回生を迎えてから、1961年吉田分校に統廃合されるまで、耐え忍ぶこと11年に及びました。だから1960年入学のぼくらは、宇治分校が廃校になる前の最後の学生だったのです。
 当時の日本国は全体がまだまだ貧乏のどん底にあえいでおり、学生もみな平等に貧乏でしたから、ぼろぼろの教室があるだけで他には何もない大学であっても不平を言う者はおりませんでした。それどころか、分校には他の追随を許さないほどの長所、自慢できる点がありました。キャンパスの広さです。上述のようにぼくらのキャンパスは、その昔は旧陸軍の駐屯地だったわけですから、人里離れたところに広大な地面を確保することが絶対の条件でした。だからでしょう、敷地の広大さはもとより、それを囲む四方も、そのほとんどが田んぼで、さらにその向こうに葦や真菰の生い茂る湿原が広がっているのでした。
 キャンパスの風景を粗っぽくスケッチすると、人の背丈ほどもあるススキなんかの草が茫々と茂り、マツやスギ、ケヤキ、クスノキを初め様々な樹木がそこここに林を作っており、その中にぽつんぽつんと小さな平屋の建物があって、その中で学生は勉強をしている、そういう印象なのでした。
 いまの宇治キャンパスの、十といくつあるであろうか、研究棟はどれもが3階とか4階建てで背が低く、見上げるまでもなく大きな青い空にすっぽりと抱かれているかのような感じです。外来者を峻拒あるいは威圧するようなところはまるでありません。けれど、そこはやはり理系の近代的な建物です。ぼくらの脳裏に焼きついている宇治分校のイメージとはまったく異質のものでした。
 「え〜! みんな、こんな建物になってしもうたんやろか?」
 「地面に生えとる樹木だけは、あの頃と同じものやろけどなぁ」
 もともと、今の風景がそのままで昔の面影を偲ばせてくれるなんて、そこまで甘っちょろいことは思ってもいませんでしたが、ほんの一部にせよ当時の建物とかが残されているかもしれないし、もしあればそれを見せてもらうだけで納得がいくのだけれど、というくらいは思っていました。それがぼくらの抱いてきた一縷の望みだったのです。
 確たる当てがあって訪ねて来たわけではないので、とにかく奥へ奥へと進むしかありません。ふたりとも「こんなんとは違うのやけどなぁ」と言いながらですが。
 しばらく行くと、しかしというか、やっぱりというか、ありました。おそらくは宇治分校時代のものであろう建築物が。
 ということは、もとはと言えば帝国陸軍時代の建物ですから、このように置き去りになってから優に半世紀以上もの歳月を、そこに立ち尽くしてきた建築物です。ちょっと飾った言葉で言うなら、雨露を凌ぎ、風雪に耐えて、ということです。
 昔を偲ばせてくれるそれらの建物は、ようやくひとクラスの学生が入るかどうかの広さです。読み取るのがやっとというふうな字で「木質材料製造試験室」【注】と標札のあるものもありました。が、たいていは倉庫とか物置に使われているのではないでしょうか。
 「こういうのがぼくらの教室やったんやなぁ」
 「う〜ん、ここまで酷うはなかったやろけど、あの頃からぼろぼろやったもんなぁ」
 生き残っているほんの数棟のほとんどは、屋根の海鼠板もスレートなら、外壁もスレート板のようで、いかにお金がなかったか、無言のうちに伝わってきます。とはいえ、なかには窓や入り口の上辺部をアーチ形に作ってあるものもあって、往年の遊び心がうかがわれます。残そうという意思のもとに残しているのかどうか、今どき珍しい煉瓦造りの小さな建物が1棟、半ば樹々に囲まれるようにして立っていました。
 時間を見失って戸惑っているかのような風情の、その煉瓦造りのところで、ぼくはいきなり2冊のテキストを取り出しました。どちらも、手の平に乗るほどの大きさの本で、表紙には『Erstes Lesebuch』『Friedrich Nietzsche』と書いてあります。1 回生のドイツ語の、前者は文法テキストで、後者は講読テキストです。O君は、黄色い表紙の『Erstes Lesebuch』について鮮明な記憶があると言い、手にとって何度も繰り返すのでした。
 「ああ、これこれ、う〜ん、これやった、これやった」
 思いも寄らぬ物の出現で余程びっくりしたであろうO君のその様は、一気に52年の時間を超えたかのようでした。
 「ようまぁ、しかし、タケモト、よう持ってたなぁ。ずーっと持ってたのか! ワシはもう持ってないのや。いつ処分したのか覚えていないけど、今はもうあらへん」
 ぼくの中ではあれこれの思いがからまりながら、浮かんでは消え、消えては浮かびするのでした。1回生のときのドイツ語の教科書は捨てなかったけれど、つい先頃、東京と京都で何百冊もの本を処分してしまったのだし。そのことは心に突き刺さっていて悔いも未練もあるのだけれど、だからといって、いつまでも捨てずに持ち続けていて、どうなるものでもなかったのではないか、との思いもするし。結局は、ぼく自身のすべてが終わるその時までには、おそらくすべてを処分してしまわないと、遺された者が迷惑するわけだし。などなど、終りから今を考えると、こうなるしかありません。
 あるいは、しかし、まったく反対の考えもあり得るのではないでしょうか。今しかない、今の連続があるのみだ、というのも一つの立場ではないか、というふうな。もちろん今は断ち切れるけれど、それが終りというだけのことだ、というふうな。
 宇治分校当時の教室らしき建物の前の空き地で、その頃に勉強したドイツ語の教科書を手にとり、大声で一言二言わぁわぁ言ったあとは、それぞれの感慨に浸ることができたということ。この一瞬があってよかった。この一瞬があったおかげで、今日のこの日が忘れられない、かけがえのない日になるに違いないと思われるのでした。
【注】 宇治分校は同じ敷地の中で「木材研究所」と同居していました。当時の研究所は、「木質科学研究所」を経て、今は「生存圏研究所」となっておりました。オープンキャンパスの当日は『材鑑調査室見学会「樹をみて木を見る」』と題して、歴史的な古材など様々な木材サンプルを公開展示していました。研究者たちの雰囲気はおおらかで、好ましいものを感じました。木材研究所といえば当時、こんなことがありました。秋の文化察のときです。ファイアーストームで燃やす薪が足りなくなって研究所にもらいに行きました。
 「材木、もらいに来たんやけど、ええか?」
 「研究所としては、君らが材木を持って行ったか行ってないか、見てないし聞いてないし、知らない。そういうことをいちいち聞くもんじゃない」
 黙って持って行け、ということらしい。要るだけ頂きました。時代も人間も、おおらかなものでした。