たけもとのぶひろ(第11回)

栗林忠道陸軍中将の戦い

 多くの日本人がややもするとプラスの価値としてイメージしている “潔さの美学” とでもいうべきものは、実は美しくもなんともないどころか、むしろ見てくれだけを飾りたてて人を欺きかねないという意味で、欺瞞と醜悪に通じるのではないか。そういう趣旨のことを書いてきた。
 書いているうちに、この延長線上をもう少し先へ進めたいという気持ちにさせられたのは、7〜8年前に読んだ本のことを想い出したのがきっかけだった。

梯久美子著『散るぞ悲しき――硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社2005)

梯久美子著『散るぞ悲しき――硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社2005)

 梯久美子著『散るぞ悲しき――硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社2005)が、それである。その本に接したときの第一印象は うん? というものだった。サブタイトルにある主人公の肩書からして栗林が軍人であることは自明だ。軍人たる者は武士道を継承していることになっているのだから、彼らが武士道の定義を我が事として引き受けていたはずである。曰く「武士道と云は、死ぬ事と見付たり」と。だとすると、本の題名は『散るぞ潔し』でなければなるまいところ、上記のように『散るぞ悲しき』と正反対になっている。題名からしてこの本は、多くの日本人の常識に挑戦し、その神経を逆撫でしてるもんなぁ。人間としてはたとえそれが本音であり真実であることでも、それをそのまま正直に口に出して言うと酷い目にあうのが世の中ちゅうもんやけどなぁ。などなど、しょっぱなの印象からして、非常に好感がもてた。

 かくして、まったく知らない世界へと分け入っていったのだった(注 ぼくらが第二次世界大戦・太平洋戦争における日本および日本軍について、ほとんどなにも知らないこと自体、とんでもなく大きな問題であるが、ここでは立ち入らない)。読むこと二度三度、あるいはそれ以上かと思う。歳のせいもあってか、その都度、涙なくしては読むことができなかった。感動があり、尊敬というより畏敬というべきものがあった。その一方で憤りがあり怒りがあった。自らを絶望の淵へと沈めてしまいそうな無力感を覚えもした。それらのことを書き綴っていきたいと思う。

 そもそもの初めに「散るぞ悲しき」という言葉は何処から出てきたのか、ということである。これの出所は、栗林中将が硫黄島最後の総攻撃を目前にして、大本営(を経由して結局は日本国民)に向って発した「訣別電報」の、その末尾に添えられた辞世の三首のうちの最初の歌の中にある。
  国の為重きつとめを果し得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき
 というのがそれで、梯さんは、ここの「散るぞ悲しき」を書名に持ってきているのだ。
 だが当時の日本人の多くは、栗林中尉のかの有名な辞世の歌の結句は「散るぞ口惜し」と承知してきたのであって、「散るぞ悲しき」というのは見たことも聞いたこともなかったはずである。彼女はどのようにして「散るぞ悲しき」に出会ったのであろうか。この本の冒頭「プロローグ」で述べているところを次に示す。

 「後日、私は栗林の遺族を訪ね、訣別電報の実物を見せてもらった。 / 大本営に宛てた電報であるにもかかわらず遺族の手に遺されているのは、栗林の戦死後、当時の大本営陸軍部第20班長だった種村佐孝大佐が栗林家を訪ね、「この電報をもって、ご遺骨と思わるべし」と、妻・義井に手渡したからである。(中略)遺された電報は受信した通信手の手書きによるもので、3枚に別れている。辞世の歌が記されているのは、その最後、3枚目である。 / 3首並んだ歌のうち1首目の頭には朱書きで二重丸が付されている。そして「悲しき」の文字が黒い墨の線で消され、横に「口惜し」と書き直してある。墨の線は生々しく、朱筆の色は今も鮮やかである。」
 大本営がこの「悲しき」を時局柄穏やかでないと見咎めて、これを削除、それに代えてその場所に「口惜し」という言葉をはめ込んだのだ。つまり、改ざんしたのである。
 大本営の指示通り新聞は、その辺の事情を知ってか知らずか、「散るぞ口惜し」と印刷した。かくして、ほかならぬ大本営が栗林に「口惜し」と言わしめたことになる。そこまでするか、とあきれてものが言えない。

 “ほかならぬ” 大本営が栗原をして「口惜し」と言わしめるからには、大本営は、栗原率いる硫黄島2万余の将兵に対して、十分量の陣地構築資材を輸送し、十分量の水と食料を供給し、かつ十分量とは言わないまでもせめて敵と互角に戦うに足るだけの武器弾薬でもって装備させていなければならない。少なくとも、戦うためのそれらの最低条件は準備する、それだけの努力はしてきたということが、大本営側の “自負”としてあらかじめ存在していなければならない。もしも大本営が大本営としての役割を果たしていたにもかかわらず、そのようにして投じてもらった価値なりエネルギーなりを役立てることができず、期待に応えることも真価を発揮することもできずして、散らざるをえないのだとすれば、それが事実であったのなら、指揮官たる者、いかにも口惜しかろうと、無理なく察することができる。「口惜し」という言葉は、要するに、期待されていたのに応えることができなかったとか、価値も真価もあったのにそれを発揮することができなかったとか、そういうときに生ずる感情のはずである。

 ところが、これから見ていくように、栗林中将と2万余の硫黄島将兵が戦いぬいた日本戦史史上前代未聞の戦闘は、圧倒的に不利な、なにもないにひとしい条件のもとで、真価以上の力を発揮して、よい意味で味方の期待をはるかに超えた戦果をあげ、敵米軍が讃辞を惜しまないほどの戦いだったのである。凄まじいの一語に尽きる、その戦いを指揮した栗林中尉の、いったいどこから、真価を発揮できず・期待に応えられなかったがゆえの、そういう意味での「口惜し」という感情が発せられるであろうか。栗林自身、後に見るように、訣別電報本分の中で、胸を張って述べている、「全員反撃し最後の敢闘を行わんとするにあたり、粉骨砕身もまた悔いず」と。悔いはないのだ、と。

 もちろん口惜しくないはずがない。敵米軍は、海兵隊が6万。それも歴戦の将校と20歳前後の士気旺盛な志願兵の部隊である。加えて、後方に10万とも言われる支援部隊がいたという。迎え撃つわが日本軍はわずかに2万余。これあるのみで、後方など1兵たりともあるわけがない。その2万余にしてからが、まとまった兵力は歩兵聯隊と戦車聯隊が各々1個聯隊ずつで、あとは歩兵にせよ砲兵にせよ、個々別々の大隊や付属部隊などの “寄せ集め” というお粗末さだったと伝えられる。しかも、これらを構成する将兵のほとんどは、あらかじめ専門的に訓練された職業軍人などではなく、妻子とともに普通の生活を営んでいた、たとえば農民とか商店主とか教師とか勤め人とかの30代以上の市井の人たち。それと嫌も応もなく引きずり出された出陣学徒。ひとくくりにして言えばいわゆる “応召兵” が硫黄島日本軍の主たるメンバーだったという。その彼らが、栗林中尉の指揮指導のよろしきを得て、壮大かつ細緻な計画のもと巨大な地下陣地を構築し、昼夜を問わない過酷な訓練によって自らを兵士として鍛えあげ、凄惨極まりない戦いを怯まず戦いぬく精鋭へと育っていったのである。

 凄惨さにおいてその “極北” とも形容される硫黄島の戦場は、「米軍の中でも命知らずの荒くれ揃いで知られる海兵隊の兵士たちをして『史上最悪の戦闘』『地獄の中の地獄』と震えあがらせた」と言い伝えられる。
 大本営は認めたくないかもしれないが、栗林日本軍の実力・真価がいかばかりのものか、敵米軍は嫌というほど思い知らされた。敵が認めずにおれないだけの戦力にまで自らを高めただけに、もしも大本営がああではなくて、こうだったら、と無念な思いはあったに違いない。悔しい気持ちがないわけがない。しかし、栗林にしてみれば、その種の「口惜し」い感情は決して感情の次元に留めておいてよい話ではなく、むしろ論理的に解明しなければならない重大な問題だったのではないか。それが証拠に、後述するように、栗林は正面切った大本営批判を行なっている。
 生死を共にしてきた自分の将兵に向かって、また同時に本土の日本人同胞に向って、発する最期の場面での別れの言葉、訣別の言葉は、自分自身が心の底から発しないではいられないかのごとく、自分の内側をその隅々まで浸して枯れることのない思い、そういう思いがあって言わずにはおれない言葉でなければならないのだった。

 自分と将兵たちの最期を前にした栗原総指揮官の胸中にあったのは、死んでゆく兵士たちを目の前にして、哀切という言葉をもってしてもなお尽くせない「悲しき」思いだった、ということではないか。
 であるからこそ、梯さんの著書の書名はどうしても『散るぞ悲しき』でなければならなかったのだ。「口惜し」は大本営の改ざんによるもので、栗林の表現ではないのであって、正しくは「悲しき」でなければならない。その真実を、彼女は、これまで知る由もなかった国民の前に、明らかにしないではおれなかったのだと思う。
 辞世の歌とは死を前にした人、死んでゆく人の言葉である。それが誰の言葉であれ、改ざんするなどということは、畏れ多い。その人がこの世を去るにあたって遺していった言葉を、死にゆくその人に断りなく、勝手に削除したり、書いてもいない言葉を書き加えたり、センテンスの位置を入れ替えたり、そういうことがはたしてできるものであろうか。
 実は、大本営による改ざんは、辞世の歌にとどまらない。遺言そのものとでも言うべき「訣別電報」――その最後に辞世の言葉が添えられていたことは上述の通り――の本文に対しても、あるいは加筆し、あるいは削除し、勝手にいじくっているのであった。

 訣別電報の原文は「漢字+カタカナ、句読点なし」の表現であるところ、著者はそれを「漢字+平仮名、句読点あり、ルビあり」の状態で著書に収録しているが、同時に、句読点抜きの今日の日本語表現を試みている部分もある。それらを前提にし、分かりやすくを心がけて、ぼくなりに書き直してみた。栗林中将の訣別電報は以下の通り【】である。

【戦局、最後の関頭に直面せり。敵来攻以来、麾下将兵の敢闘は、真に鬼神を哭かしむるものあり。特に、想像をこえたる物量的優勢をもってする、陸海空よりの攻撃に対し、宛然、徒手空拳をもって、よく健闘を続けたるは、小職自ら、いささか悦びとするところなり。 / しかれども、あくなき敵の猛攻に相次いで斃れ、ためにご期待に反し、この要地を敵手に委ぬるほかなきに至りしは、小職のまことに恐懼に堪えざるところにして、幾重にもお詫び申し上ぐ。今や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し、最後の敢闘を行わんとするにあたり、つらつら皇恩を思い、粉骨砕身もまた悔いず。 / 特に、本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安からざるに思い至り、たとい魂魄となるも、誓って、皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。 / ここに、最後の関頭に立ち、重ねて衷情を披瀝するとともに、ひたすら皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ、とこしえにお別れ申し上ぐ。(後略)】

 栗林中将が同胞に伝えたかったことは、冒頭の3行がすべてであろう。すなわち、将兵が、武器もなく補給も途絶えた、まるっきり徒手空拳も同然のなかで、いかに敢然と戦ったか、その戦いぶりは、実に「鬼神を哭しむるもの」であった、ということ。その様を見て、鬼神でさえ慟哭する、大声を上げて哭く、と。栗林が言いたかったことは、これに尽きるといって過言でないと思う。これを読んだ梯さんの感想も、まさに正鵠を射抜いている。
 「(そこに)ありありと描かれているのは、圧倒的に優勢な敵に「徒手空拳」で立ち向かわなければならなかった兵士たちが、「弾丸尽き水涸れ」て斃れていく姿である。そして電文全体をつらぬいているのは「鬼神を哭かしむる」という語に端的に示された、指揮官としての断腸の思いなのである」と。
 ここの部分が新聞報道(大本営)では、まるっきり別の文章に書き換えられているのである。文章の順序を入れ替えたりしているのは無視して、見過すことができない肝心な点を三つ取り上げる。

 第1は、冒頭の部分が、「戦局遂に最後の敢闘に直面せり。 / 17日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち、皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ全員壮烈なる総攻撃を敢行す」とそっくり入れ換えられている。「遂に~全員壮烈なる総攻撃を敢行す」「皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ」という。それはつまり、このようなTPOにおいてはこれらの言葉を散りばめておけば無難ということになっている、手垢にまみれた常套句のつなぎあわせたものに過ぎない。すでに自分を捨ててかかっている兵士の命を、決まり文句で片付けるとは!

 第2は、同じ冒頭部分で栗林は「宛然、徒手空拳をもって」と書いており、著者もこの点に格別の注意を喚起している。武器弾薬・諸装備など、敵のあり余るほどの物量に対して、我が方の備えは丸裸も同然、まるっきりの徒手空拳と形容して大げさでないほどであったにもかかわらず、よくぞここまでという戦いをした、そのことを、栗林は部下に代わって訴えたかったのに、その肝心のキーワード「徒手空拳」をまるごと削除してしまっているのだ。

 第3は、上記訣別文の最後の部分、「ここに、最後の関頭に立ち、重ねて衷情を披瀝するとともに、ひたすら皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ、永(とこし)えにお別れ申し上ぐ」である。新聞(大本営)はこれを書き換えて、「ここに、将兵一同と共に謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ永へに御別れ申上ぐ」としている。最期の最後の言葉までをも改ざんするのか、と怒りを覚える。この期に及んで「重ねて衷情を披瀝する」とは、いかにも未練がましく女々しいとでも言うのであろうか。
 また、「皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ」を、わざわざ「聖寿の万歳を奉唱しつつ」へと書き換えなければならないのか。「聖寿」とは「天子の寿命」であり、「万歳」とは「いつまでも生き、長く栄えること」とあるから(広辞苑)、原文も改ざん文もほぼ同じ趣旨のレトリックだと思うのだが、にもかかわらずこれを改ざんしたのは、「聖寿」など関係なくて、むしろその後の文章をアピールしたかったのではないか。つまり、「万歳を奉唱しつつ永へに御別れ申上ぐ」の中の「万歳を奉唱しつつ」の部分である。
 硫黄島栗林日本軍の最期も他の島々の最期と同様、「バンザイ突撃」であったと、大本営は言い張る必要があったのではないか。栗林中将とその将兵の、侵すべからざる歴史的戦闘の事実を捩じ曲げてでも、大本営の戦術の貫徹を示さずにはおれなかったのではないか。

 ぼくのようなごく普通の、いま生きている日本人は、硫黄島って何? と聞かれても、太平洋戦争の末期、日米両軍が壮絶な戦闘をくりひろげた戦場、というほどの知識しか持ち合わせていないと思う。その総指揮官が栗林忠道という陸軍中将であったことも、彼らが構築した地下陣地がいかに巨大であったかということも、また栗林麾下2万余の将兵が徒手空拳同然の装備でいかに戦ったかということも、またまた日本軍大本営の軍人たちが戦争というものをどのように考えていたかといったことについても、何も知らないし、知らされてこなかったし、また知ろうともしてこなかったと思う。

 ここでほんのその触りの部分を紹介したにすぎない梯久美子氏の著書『散るぞ悲しき』は、このぼくのような、何も知らない “平和ぼけ” の人間に向って、先の太平洋戦争のことをもう少し知っておいた方がよいのではないか、と言ってくれているような気がしてならない。で、今回は、「硫黄島総指揮官・栗林忠道」(サブタイトル)の戦いとはおおよそどのような戦いだったのかということを、書名に採用された、辞世の歌の結句「散るぞ悲しき」との表現にこだわる形で書いてみた。ここで、いったんは終わらざるをえない。
 栗林忠道と彼の戦い、というテーマがおのずと浮かんできて目の前にあるのだが、それで言うと、今回はその入り口を入ったばかりというところであろう。
 次回もやはり梯さんに依拠しながらではあるが、栗林中将と2万余の将兵がいったいどのような戦闘を戦ったのか、またその戦闘のもつ意義をぼくらはどのように考えればよいのか、といったことを、太平洋戦争末期における日米戦争の全体というふうな視野の中で検証し、考えてみたいと思う。

註、http://ja.wikipedia.org/wiki/梯久美子
註、http://ja.wikipedia.org/wiki/栗林忠道