たけもとのぶひろ(第5回)

愛猫ペロ失踪事件顛末記(1)

2012年10月31日(水)
 お昼前、多分11時半にはまだなっていない頃だったと思う。
 前日の歯の治療がうまくいかず、麻酔の効力が切れた頃からその部分の痛みが激しい。9時の開院を待ちきれず、10分前に電話をする。9時15分、診てもらって、治療。嘘のように痛みがとれ、帰宅。家に帰ってすぐに事務所へ行きたい。しかし、なんやかやと用事を言われる。いらいらする。東京にいた頃は、朝の5時半には会社に着いていて、机に向かっていたのだが。京都に帰ってからは、時間が思うに任せない。事務所到着は早くて10時、11時前後で当たり前、帰宅は16時過ぎ。
 その日は歯医者に行ったことも手伝って、大幅に遅れる。
 それもあったかして、とにかく急いでいた。
 家を出るとき、玄関の引き戸をきちんと閉めていなかったらしく、10センチほどの隙間を通って、まずゴローが、続いてペロが出てしまったらしい。ぼくとヨメはんは事態の重大さに気づいた。なにしろ、7歳のペロは普段から抱っこさえできないのだから、どうして捕まえるか?! ヨメはんは半狂乱。二人で二匹を追いかける。ぼくらの大騒ぎに驚いて、ゴローのほうは玄関から家に入ってくれたが、ペロのほうは完全にパニックになってしまう。ぼくは玄関の門を出て裏口に回る。ヨメはんは玄関にいるので、二人で挟んで捕まえるつもり。
 そもそもそういうことを考えること自体が、間違いだった。猫の運動神経とぼくら人間のそれとでは、勝負にならない。ペロは全力疾走でもってぼくらの阻止線を破り、いなくなってしまった。
 最初にしたことは保健センターへの電話。殺処分を阻止するため、万が一捕まり届けられたときの連絡を乞う。
 庭の縁側の端っこに置いていた外猫「トラ」の小屋を撤去する。ぼくらが飼っている猫はゴロー、ニー子、ペロの三匹の猫だが、ほかにもう一匹、いわゆる外猫を「卜ラ」と呼んでエサをあげている。ぼくの家の三匹は絶対に外に出さないので、家の敷地――小さな庭、玄関部分、裏側の通路――は、事実上トラの縄張りになる。ということは、そのトラの縄張りを突破しないと、ペロは帰って来られないことを意味する。
 したがって、トラのハウスを撤去せざるをえない。さらに友人のアドバイスによると、トラの縄張りを否定するためには、トラの通り道にペロたち(ゴローとニー子を含む)のオシッコが泌みた砂の塊を撤いて彼女を排除し、ペロが帰ってこられるように誘導する必要があるとのこと。もちろん、言われた通りオシッコの匂いで家の敷地を包囲する。
 10月31日の昼過ぎから暗くなるまで、近所中の何十軒もの家の一軒一軒に当たってペー(ペロ)を探す。他人の家の中を覗き、庭を探り、地面に頭をこすりつけながら自動車の下を見る。空き家(驚いたことに何軒もある! そういう時代なのだ)の中には入らせてもらう。
 「ペロ〜! ペロ〜!」
 「ペッちゃん、おいで、お父さんだよ! ペ〜!」
 夜。ペロが帰って来てくれたときに入って寝られるように猫用ハウスを組み立てて、裏の通路に置く。水とエサも。暖房も入れてあげなくては。
 実を言うとペロという猫は普通の猫ではない。家の中で飼えるようになるまでに、半年以上もかかった。 8か月くらいか。ヨメはんが噛まれながら、無理矢理つかまえて、ようやく家に入れたのだった。それまでの間ずっとペロは陽の当たらない裏の通路に猫用ハウスを造ってもらって生活していたのであった。エサを待ちながらも、持って行くとファ〜ッと一丁前に威嚇する毎日だったが。その場所――陽の当たらない裏の通路――なら、ほかの場所よりも、その頃のことを思い出してくれるかもしれず、帰って来る確率が高いのではないか。
 しかし問題は、帰還の“確率”ではない。“絶対の”帰還なのだ。今夜中に、友だちやボランティアグループの方に頼まなければ。
 捕獲器を貸してください――と。

11月1日(木)
 写真付きのポスターを作って電柱に貼って回る。5枚。コンビニでコピーして同じものを各家にポステイング。その文面は以下の通り。
 「10月31日昼前、飼っていた猫がいなくなりました。7歳のメス。白黒の猫です。体長は普通よりも小さく、鼻の先に、ちょびひげがあります。時々舌が出ています。人間には、なれないため、つかまりません。お見かけになった方は、至急ご連絡くださいますよう、お願いします。病気(腎不全)をかかえているため、心配しています。どうかご一報くださいますよう、よろしくお願い致します」

ペロの手作り捜査願。 日付が10月30日となっているが、実際は31日。当日の動転ぶりがよくわかる。

ペロの手作り捜査願。
日付が10月30日となっているが、実際は31日。当日の動転ぶりがよくわかる。

 昨日に続いて今日も、近所を見回る。実際にはどこにいるのかわからないのだが、すぐ先にペロがいるような気がしてならない。その姿の見えないペロに呼びかける。語りかけるように呼ぶ。
 「ペロや! ペッちゃん!」
 「ペ〜! お父さんだよ、おいで!」
 すぐ近所、探索圏内に、お地蔵さんがある。お賽銭をはずんで拝む。目をつむり、手を合わせ、頭を下げて、ただひたすら頼む。どうか帰ってきますように、と。
 猫は必ず、逃げたところから帰ってくる、と助言してくれる人があって、玄関は閉めない。門も同様の理由で開けておく。15センチ。夜も遅くまで開けたままで待つ。

11月2日(金)
 昼過ぎ、大阪のボランティア団体の青年が捕獲器を届けてくれる。青年の説明によると、それの構造と使い方は非常に単純でわかりやすい。以下に要約を示す。
 捕獲器(檻)の形は細長い直方体で、正方形に近い小さめの長方形(26cm、27.5cm)2枚と細長い大きめの長方形(75cm、26or27.5)4枚を組み合わせてできている。6枚の長方形は太い頑丈な針金を編んで作ってある。
 つまり、捕獲器の5つの壁面と1枚の地面部分はいずれも太い針金の網目だから、中は丸見えだ。正方形に近い小さめの長方形の1枚が、捕獲対象の(入ったら出られない)入り口とされている。それを内側の天井に吊り上げておく。猫はそこから中へと入って行く。
 一番奥に皿を置いてエサ(鳥の唐揚げ)を乗せておく。匂いにつられて捕獲器に近づいてきた猫は、その入り口を入り、唐揚げに向かつて奥へと進む。猫が歩くところは新聞紙を二つ折りにして敷いてあるので見えないけれど、唐揚げの少し手前に、鉄製の踏み板が仕掛けてある。唐揚げを食うためには、その踏み板の上に乗らざるをえない仕掛けになっている。だから、乗る。と同時に、入り口の天井に吊り上げられていたふたが下りてきて、猫を中に閉じこめてしまう――。
 話を聞いている分にはやすやすとやってのけられそうに聞こえるが、実際には何が起こるかわからない危険がともなう。猫を確実に捕獲するためには、この捕獲器の中のエサを安全に獲得できることを猫自身に学習させ、確信させる必要がある。だから、最低2回は、入り口のふたが下りてこないようにふたを紐で縛って固定し、猫に危険な目に遭わずにエサが食べられることを体験させなければならない。
 学習させずに、いきなり捕りにかかって、万が一失敗でもすると、猫は危険を察知して二度と捕獲器に近づいてくれない恐れがある――。
 青年が付け加えたこの“但し書き”は、実に悩ましい。仮にペロが捕獲器の中に入ったのを見ていても、みすみすそれを見逃して、彼女に学習してもらうなんてことが現実にできるだろうか。
 ヨメはんがコンビニへ鳥の唐揚げを買いに行く(ここ数年のあいだ腎不全のため病院通いをしてきたペロにとって、唐揚げは良くないけれど、そんなこと言っていられない)。夕刻より、捕獲器を小屋の前に仕掛ける。雨が降ったときのことを考えて、厚手のビニールをフェンスとサッシの窓枠との間に渡して、簡単な雨よけを作る。
 また、夜行性の猫のことゆえペロは夜に来るかもしれず、その際、見張り番のぼくの眼に見えるように、懐中電灯を、雨よけの下のフェンスにくくりつけ、常時明るくしておく。
 えさ場(捕獲器と小屋)のちょうど真上がぼくの部屋なので、こうしておけば、夜になっても彼女を見張ることができる。
 トラが通る、夕刻5時過ぎ。用意しておいた石を投げる。当たらないように――。
 トラは野良猫ではあっても、ぼくらが毎朝毎晩エサをあげている外猫だから、ぼくらが急に敵意をもって迫害し攻撃するのはなぜなのか、理解できないに違いない。今迄はトラの縄張りを守るために他の野良猫を排除してきてくれた、その同じ人たちがどうして? と。トラがうろうろしていると、ペロが怖くて帰って来られないのではないか、とぼくらはそれを恐れていて、だからペロが帰ってくる迄の少しの間、彼女に近寄らないでいてほしいだけなのだが、もちろんわかってもらえない。
 夜9時頃、ペロが来る。ぼくの窓の下に姿を見せた。数分のうちに2回。腹が減っているのだろう。が、捕獲器の中には入ってくれない。気のせいかもしれないが、タイミング的には、目が合ったから逃げたかもしれず、心配になる。夜10 時、見張りを止める。
 興奮していて眠れない。ほとんどの本を捨ててしまったのに、猫の本は写真集なんかを含めて、捨てないでとってあった。情報を探す。関連情報の載っている本を2冊見つけた。当該部分を引用しておく。
1、『こんにちはネコ』(婦人画報社)
「かわいがっていたねこが家出をしたきり、帰ってこない。そんなとき人間は、ずいぶんボクたちのことを心配しますね。もしあなたが、愛情をもってボクたちの世話をしてくれる飼い主であれば、ボクたちは絶対に家に帰りたいと望んでいます。
なにしろ、家では食物も安全も簡単に手に入ります。甘えられる飼い主もいます。でも、知らない場所ではそうはいきません。空腹などの現実の壁にぶつかって、(逃げた時の)パニックがおさまることだってあります。
ねこが帰ってこないのは、何らかの理由で『帰れない』だけなのです」
2、『猫と暮らせば』(南里秀子 駒草出版)
「水さえ飲んでいれば1週間くらいはご飯を食べなくても大丈夫」
「そうそう、見つかったけれど、怯えて出てこないこともあります。でも、こちらが焦ったり、興奮しなければ、必ず出てきますからね」
 1、2、ともに、ペロが帰りたいけど帰れないと指摘してくれている。そういえば姿を見せてくれており、ということは彼女が遠くへは行っていないことを示唆している。まだまだ始まったばかりだし、希望はあるのだ。と、自分に言い聞かして、なんとか眠ろうとするも、ぼく自身の不注意で起きた失踪事件だけに、自責の念で夜中まで眠れない。
 ヨメはんはと言うと、『私の宝物のペロがもし帰ってこなかったら、許せない、タダでは済まない』と怒る一方で、取りつく島もない。
 失踪以来3日が経過、ペロはまだ帰らない。続きは次回に。