匿名希望(第6回)

今月の千字綴り書き(第6回)
眠れぬ夜のための音楽を求めて(1)    

 就寝時に音がないと却って落ち着かない、何か物足りない感じ。そんな妙な「性癖」に取り憑かれてしまってから既に数年が過ぎた。きっかけは何だったのか? 思い当たるフシのないわけでもないが、あえて、ここではそれに触れないことにする。もったいぶっているわけではない。それはまた、これとは別のテーマだからである。

 要するに、ひょんな事をきっかけに、横になって眠りを待つのが辛くなった。もっと言えば、心、寂寞として胸ふさがり、眼(まなこ)、カッと冴えれば、躯、輾々として一向に休まらず――。気づけば窓が白んでくるような事もたびたびと言った状態に追い込まれてしまったのである。
 手っ取り早く睡眠薬のお世話にでもなれば済むものを、それまでかなり頑固な薬嫌いで通して来た手前、なかなかそこまで思い切れないでいた。それほど大げさな事でもないのだが、そういう性癖というか嗜好はなかなか改められないのである。酒に関しても薬に同じ。普段、浴びるほど呑む酒も、催眠を目的とした酒は潔しとしなかった。
 しかし、眠らないわけには行かない。それで、眠りに落ちるまでの気晴らしにと、眠りを誘う音、安眠を得るための音を求めてあれこれ遍歴を重ねる事となったのである。結論から先に言ってしまおうか、辿り着いた先はエリック・クラプトン。それもクリーム【註1】の彼を筆頭に挙げたいと思う。

 当初はラジオに縋って、民放AM、民放FM、NHK、NHKFMを無作為に流していたが、民放AMは就寝時流しっぱなしにしておくにはうるさ過ぎて、まず脱落。民放FMは早朝にいい番組があるものの、それまでの時間帯にAM同様の問題を抱えるためにこちらも脱落。そして選択は自然にNHKに絞られて行ったのだった。
 番組は、AM・FM共に同じ内容の「ラジオ深夜便」。AMよりも電波事情がよかったのでFMからの聴取を優先した。民放に比べ会話のスピードも番組の内容も、ともに落ち着いていて、その点に問題はなし。但し他の所に難点があった。
 「ラジオ深夜便」は5時に終了する。FMの場合、その直後の番組に問題があったのである。「邦楽百選」! 何と、朝っぱらから、笛、太鼓、更に笙、鉦と、これでもか! これでもか! と、安眠妨害を繰り返すのであった。
 身に染みてわかったのは、邦楽の特徴はそのほとんどが空気を切り裂かんばかりの高音で構成されていると言うことだった。声楽もまた奇声に似て、安眠には極めて迷惑な高音が主流である。
 せっかく「ラジオ深夜便」で静かに眠りに落ちて、いよいよ佳境に入ろうかと言う時に、笛、太鼓、笙、鉦、奇声の波状攻撃である。堪え難い苦痛であった。
 一旦眠りを妨げられると、“坊主憎けりゃ袈裟まで”の譬えのように、醒めた意識、怒りの目覚めは邦楽に向けられる。そして怒れる意識はますます眠気から遠さかって行くのであった。こうなるともう寝ているどころの騒ぎではない。結局、この「邦楽百選」に怖れをなして、AMに切り替えることにしたのである(それにしても、あの時間帯に「邦楽百選」を取聴している人が日本全国に果たして何人いるのだろうか)。
 しかし、AMも安泰ではなかった。まだまだ深い眠りの真っ最中の朝6時半、突然「ラジオ体操」が始まるではないか! 当時、就寝時間は大体午前零時台から1時半の間、起床時間は7時半から8時頃の間を目安にしていた。従って、6時半に始まるラジオ体操の元気のいい掛け声、号令の類いは邦楽同様、迷惑きわまりない雑音にしかならないのだ。これでNHK・AMもペケ。

 民放AM問題外、民放FM問題あり、そしてNHKにも頼れないとなると、自分好みのCDでも購入して、就寝中繰り返し流しっぱなしという作戦も思いつきそうなものだけれども、何故か当時はそちらにアタマが回らず、もっぱらラジオに救いを見出すべく、ただし、それまでの就寝から起床まで一局に限定していた一局路線を改め、時間帯によって、民放FM、NHKFM、民放FM、民放FMと聞き分けおる「時間帯選定方式」に活路を探ってみる事にしたのだった。
 当初からそうすればよかったのだが、一旦眠りに入ったあとに、時間を区切って途中から番組を代えると言うのは、メンドー臭さも手伝ってやはりハードルがタ高かったのである。

 さて、午前零時から1時までは東京FMの「ジェットストリーム」である。
 独り寝の侘しい心に、沁み入るように流れる「ミスターロンリー」の静穏なBGMには、来し方への悔と、行く末への悩みを掻き立てられ、却って心穏やかならぬ心境へと追い込まれてしまうのだけれども、それでもこれは外せない番組だった(NHK一局路線の時にもこの番組は外していなかった。Endingの「ミスターロンリー」を心静かに聴いたその余韻の中でNHKにチューナーを合わせていたのである)。
 一人であること、「ミスターロンリー」だけが唯一のお友達……、孤独を噛み締めながら、そんな自嘲を暗い床の中でつぶやくカタストロフィ的浄化のためにも必用な番組だったのである。
 そして午前1時から5時まではNHKFMである。朝の5時、熟睡していても、笛、太鼓、笙、鉦で迫る「邦楽百選」が確実に目覚めさせてくれるから「安心」して眠りに身を委ねる事ができるし、絶対に寝過ごす心配がないのが却っていいではないか。
 これまでの“邦楽百選敵視路線”ではなく、これを“不慮の天災”とあきらめことにしたら、それまでの邦楽への怒りが嘘のように消えて行ってしまったのであった。笛、太鼓、笙、鉦に攻めたてられたら、次の手を打つ、即、東京FMに番組を代えてしまうという作戦である。
 東京FMでは午前4時から6時までバロックからモーツァルト、ベートーベンなど西洋の古典音楽を中心にした「シンフォニア」という番組をやっていた。何と言うか、これがまた実にいいのである。
 若干エコーのかかった女性アナウンサーの落ちついた、優しく語りかけてくれるような口調(かなり主観的思い込みの入った解釈ですが)といい、選曲といい、いかにも、これから迎える新しい朝の清々しさを演出してくれているようで、「邦楽百選」の音の暴力に叩き起こされた不快を補って余ある安らぎが、心地よい新たな睡眠に身を委ねさせてくれるのであった。
 4時過ぎ、5時前に眼の覚める事があれば「邦楽百選」を待つまでもなく東京FMにチューナをあわせていたのはいうまでもない。

 ところで、当初意図したわけではなかったが、「シンフォニア」では、睡眠導入の為のBGMとしてのみ聴くにはあまりにも勿体ないと思えるような、そんな気に入った楽曲に遭遇する事も少なくなく、やがて、それらの楽曲を記憶にとどめておいて、後日ネットのyou tubeで検索を掛け、ダウンロードしてパソコンに保存し、好みの“名曲コレクション”を作ってみたいと言うような野心が湧いて来たのであった。
 といっても、夢現(ゆめうつつ)状態で聴く楽曲のタイトルを正しく記憶にとどめて置くのは至難のワザで、とりあえずメモ用紙のようなものを枕許に用意しておいたのだが、実際問題として、これあまりうまく機能しなかった。
 “あ、これは”と思える楽曲に出会うと、眠気眼でメモをしようと構えるのだけれど、曲名の紹介は、何曲か流れた後にまとめてされるため、それまで眠気に堪えて我慢していなければならない、つまり、シッカリ目覚めていなくてはならないのだった。
 そもそも、眠りたい為に心地よい音楽を求めながら、心地よく眠気を誘ってくれそうな気に入った音楽に出会う度に、それをメモすべく眠ってはいけないというこのジレンマ――これでは何の為に「シンフォニア」を聴いているのかわからなくなってしまう――本末転倒も甚だしくなってしまったのであった。

 解決策として選んだのが、枕許に用意するのをメモ用紙からICレコーダーに代えて、いつでも作動出来る状態で就寝するという作戦である。さすがに“そこまでしなくても”“それほどの事でもないだろう”という“内なる声”が聞こえてこなかったわけでもないけれども、心地よく眠れる楽曲の出会いを、これ一度きりで終わりにするのはあまりにも惜しいような気がしたので、あえて実行する事にしたのであった。
 これは確かに簡単だし、記録をとると言う点では覿面に成果を上げる事が出来た。しかし、予期しない齟齬もあったのである。しかもこれは深刻な齟齬であった。と言うのは、夢現(ゆめうつつ)状態で心地よく聴いた“これだ”という曲でも、ICレコーダーで再生してみると、どうも印象が違うのである。勿論、いい曲、心地よい曲に違いはないのだけれども、あえて、you tubeで検索し、ダウンロードしてコレクションに加えねばならないと言うほどの曲か、となると、どうも疑問符がつくのが多いのであった。
 そんな事を繰り返えしていると、“内なる声”が、かかる手段での“名曲コレクション”をすること自体への疑問、手間暇を掛けること自体に疑問を投げかけてくるではないか。そして、それはやがて「シンフォニア」そのものからも離れて行くことになるきっかけにもなってしまったのである。

 かくして孤床に睡眠を求めるユリシーズ【註2】の遍歴は「シンフォニア」に終わる事なく、まだまだ続くこととなるのであった。
 しかし、「シンフォニア」は、枕許で作動させたICレコーダーの中に、一つの置き土産を残してくれていた。「シンフォニア」がくれた一つの土産とは何か――。それを知りたい読者(がいればの話だけれども)は、次回を待たねばならない。そして、最初に記したエリック・クラプトンにはいつ辿り着けるのだろうか。その為にも、やはり読者は次回以降に期待せねばならないのである。

【註1】http://ja.wikipedia.org/wiki/クリーム_(バンド)
【註2】http://ja.wikipedia.org/wiki/ユリシーズ