“知的権威”を装いたいバカがよく使う“テクニック”

仲正昌樹
[第11回]
2014年8月2日

 ネット上で“論客”ぶって、ある程度名前の知られた人を誹謗・中傷していい気になりたがる輩は、自分の発言に知的権威があるかのように装うことが多い。内容は無茶苦茶でも、ある「型」にはめると、一見――つまり、その分野にさほど詳しくない素人目には、あるいは、プロでも注意力が欠如している場合には――まともに見えることがある。 「型」というと、難しそうに聞こえるかもしれないが、そのほとんどはさほど複雑なものではないので、論理的に思考する能力のない人間でも、割と簡単に習得できる。使っていると、同じくらいバカな人間が勘違いして、“知的な人間”として“尊敬”してくれることもあるので、調子に乗ってしまう。自分でも、本当に知的な人間であるかのように錯覚してしまい、どんどんエスカレートしていく。
 一番簡単なのは、“偉い人”の名前を出して、「●●も言っているように」、と権威付けするやり方である。●●が実際に何をどう言っているかは、素人には理解しようがないので、適当でいい。その“偉い人”の思想や発言についてまとめてくれている第三者のブログなどからの--自分に都合のいいようにアレンジした--孫引きで十分である。
 ただし、“偉い人”の選択については多少考える必要がある。(匿名に近い)アルファ・ブローガーとか、TVによく出て来るタレントや文化人等だと、必ずしも知的権威が伴っていないし、他の人も知っている名前なのでありがたみが薄い。東大・京大などの旧帝大や早慶の教授で名前が一般的にはさほど知られていなそうな――マスコミに月一回くらい登場して、専門的なコメントをするくらいの――人がいい。ハーバードとかオクスフォードなどの欧米の名門大学の教授だったら、なおさらいい――普通の日本人は、サンデル先生とかヴァカンティ先生くらいしか知らない。「●●教授は、▽▽の第一人者だ」、とか付け加えると尚更効果的だ――「権威」と言うとわざとらしいので、「第一人者」のような別の言い方がいいし、「~である」よりも「~だ」の方がナチュラルに言っている感じが出る。
 名前はあまり聞いたことがないけど、肩書だけはすごそうな先生を、ブログなどで引き合いに出すと、その先生と近い関係にあるかのような印象を読み手に与えることができる。しかも、そういう人からの“引用”は真偽を確かめにくいので、尚更都合がいい。
 そういう“偉い先生”の言葉を引き合いに出して、仲正のような、“それほど偉くない先生”をけなしたい時には、扱いに差を付けるといい。ある程度の長文だと、意図的に扱いに差を付けていることが分かりにくくなる。「△△大学の●●教授によれば、□□は◆◆として理解すべきである。ところが、仲正氏はその□□について○○と言っている。これは、明らかに違う。仲正氏の□□理解には注意が必要だ……」というのが典型である。こういう言い方をしていると、引き合いに出している当人は、●●教授の良き理解者で、仲正は基本を踏まえていないいい加減な奴であるかのように見える。一見難しい作文に見えるが、仲正が言っている○○とは違っていそうな見解を述べていそうな、“偉い学者”を、ネット検索で見つけてくれば、◆◆のところを埋めることができるので、さして難しいことではない。
 当然、その手の作文では、仲正の見解とされている○○や、●●の教授の見解とされている◆◆もかなりいいかげんに要約されていることが多い。ほぼ、でっちあげの時もある。それで、「私の意見をでっちあげるな」と抗議すると、「いや、私はあなたが間違っていると断言しているわけではありません。●●教授と言っていることが違うのではないか、と示唆しているだけです。冷静に私の文章を読んで頂ければ、分かるはずです」、という調子で“答えて”来る。抗議を利用して、自分の方が理性的で客観的であるかのように見せかける、汚いやり口である。「仲正氏の□□理解には注意が必要だ……」、というのは、明らかに他人をけなすことを意図した挑発の科白であって、冷戦な人間の客観的なコメントであるはずはないのだが、そういう自らの悪意については徹底してしらばっくれる。この手の文章をネット上で書き散らす人間は、自分の悪意はすっかり忘れてしまえる、特異体質なのだろう。
 “偉い先生”の名前ばかり列挙していると、いろんな分野の(珍)評論家が登場するどこかのバラエティ番組のような感じになってしまうので、適宜、××理論とか▽▽説も引き合いに出した方がいい。「この分野での□□研究では、××理論に従って議論を進めるのが主流になっているはずだ。しかるに、仲正氏の文章では、××理論が一切言及されていない。ここに、このテーマに対する仲正氏のスタンスに内在する問題が垣間見えるように思われる…」、という風に書くと、知的な雰囲気を演出できる――著作、テクスト、論文ではなく、「文章」という言い方をすると、さりげなく、「仲正」を格下げすることができる。
 これも一見難しそうだが、実は簡単である。□□研究についてネット検索して、××理論なるものの存在を知ることができれば、あとは、仲正がそれに――少なくとも直接的には――言及していないことを、何となく確かめさえすればいい。「一切言及されていない」と書いておくと、仲正はその肝心のことを知らない偽学者である――のに対し、自分はそれをよく知っている――と印象付けることができる。
 冷静に考えれば、仲正がその理論に言及していないのは、仲正がそのテクストで語ろうとしていると直接関係ないからにすぎないかもしれないし、そのテクストが入門書的な性格のものなので、そこまで説明する必要を認めなかっただけのことかもしれない。しかし、偉そうなことを言ってみたくてしょうがない幼稚な奴は、そうした可能性については一切考えようとしない。気が付いても、無視する。仲正から抗議があれば、先ほどと同じ様に、「私はあなたが当該理論を知らないと断定しているわけではありません」、としらばっくれればいい、くらいに思っている。
 この二つさえ“マスター”しておけば、学歴コンプレックスを抱いているバカを何人かフォロワーにすることができるだろう。仲正のようなあまり偉くない学者をこきおろすことで、溜飲を下げたつもりになるバカは世の中に結構多いので、この手の作文のパターンを覚えておけば、同類が集まってくることだろう。
あと、細かいテクニックとして、学者が論文で使いそうな――普通の人はあまり使いそうにない――言葉を並べて、雰囲気を出すということがある。「~は明らかだ」「~自明である」「~ということが導き出される」「~に根拠はない」「よって~」「理論的には~」「原理的には」、といった言い回しを使うと、論理的に話を進めているように見える。「エビダンス」とか、「レイヤー」「ドメイン」「レリヴァンス」「エンハンスメント」「エンタイトルメント」「フィージビリティ」「ラポール」といった、やや難しめで、汎用性の高いカタカナ語を使うと、素人目にはその学問領域の言語に通じているように見える。テレビ・ドラマを通じて少しだけ知られるようになった、〈QED〉のような略語を使うのも効果的だろう。
 こうした安直なテクニックだけで、知識人ごっこをする奴が多いので、本当にうんざりする。こうした外的なことばかり気にするような奴は、最初から学者に向いてないのだが、本人たちはそのことを自覚していない。仲正のような偽物がのさばっているせいで、自分たち本物の出番が少なくなっている、だからああいう偽学者は少しばかり懲らしめてやる必要がある、くらいに思っているのだろう。
 これとは少し違うタイプのアホに、文芸評論家ぶって、著名人の文章を下手だとか、魂がこもってないとか、けなしたがる奴もいるが、これについては別の機会に論じることにしよう。