匿名希望(第4回)

今月の「千字綴り書き」(第4回)。「善行」の報酬未だなし

 「今月の『千字綴り書き』」、先月はサボッってしまった。たかが月一回じゃないか、カクに充分な体力は備えている筈なのにこれがなかなかカケない。これもひとえに気力の問題と深く反省し、今後は(月一回に拘る事なく)むしろ周囲からカキ過ぎを揶揄されるくらいの覚悟で臨む所存である。
 ところで前回は、筆者がアカの他人にお声を掛けたお話だった。今回は逆に筆者が他人にいきなりお声を掛けられた時のことをカイてみたい。

 約3年前、先輩から家庭の事情で飼えなくなったバカ犬一匹を預かったのをきっかけに、小生、それ以来、このバカ犬と一緒に会社で寝起きを共にする羽目になったのだけれども、犬は散歩が大変で、最低でも1日2回。3回~4回は普通で多い時には6回、7回にも及ぶ。時間帯も、朝5時などいい方で、深夜に騒がれて仕方なく午前2時、3時なんてことも珍しくない。ほとんど小生奴隷状態と言っていい。これは、そんな日々の散歩の時のできごとである。

散歩要求モード全開のラッキー

散歩要求モード全開のラッキー


散歩中にラッキーと筆者

散歩中にラッキーと筆者

 今から2年ほど前のお話。ある日の夕方、近くの児童公園に面した歩道をいつものようにバカ犬(名前はラッキーにも拘らず、ラッキーが来て以来、小生、アンラッキーの連続で、仕事、金銭、人間関係、家族関係、すべてに青息吐息で休まる間がないのが現実だ)と一緒に歩いていると、「にいちゃん、にいちゃん」と小生を呼び止める声がするではないか。

 齢50代の後半を走る小生に「にいちゃん」と声を掛けるくらいだから、声の主のお歳は推して知るべし。声の方に顔を向けると、児童公園のベンチ付近に屯す全員80代とおぼしきお婆さんが5~6名、嗤(わら)いながら小生に「おいで、おいで」と手招きをしている。小生とラッキー「何ですか」などと、無邪気に近づくと、何と「にいちゃん、鍋をあげるよ」というのであった。

 曰く「この鍋は、アメリカ製で、しかも非常に高価な代物だ。このまま捨てるのはいかにも惜しいので、貰い手を探しているのだけれども、にいちゃん、どうだろうか」と言う主旨である。
 鍋は大小合わせて5~6個。「いらない」と断っても、代表格みたいなお婆さんが、「奥さんに持っていってあげなさい。喜ばれるから云々」と段々力が入って来た。小生、奥さんはいない旨告げても「じゃ、にいちゃん自分で使いなさい」「これでラーメンを作りなさい」「丈夫だから長持ちする」と営業トークさながらに一歩も引かない構えなのであった。

 小生も反論すべく、この鍋、小生が日頃使っている安いブリキ製に比べると妙に重厚過ぎて、これではお湯を沸かすにしても、鍋自身を暖める為にかなりの熱エネルギーを消費するし、経済効率的に、今使っている安物以上とは思えないので、(お声をかけて頂いた気持ちは有り難いけれども)勘弁して下さいと、ハッキリ断り続けたのだが、なかなか許してくれない。
 それどころか、何と、今度は、お婆さん、ラッッキーに目を転じ、「ワンちゃんの食器に使いなさい」と、攻めを搦め手に代えて口説いて来るのであった。まったく追求の手を緩めないのである。

 まあ、いろいろやり取りがあったのだが、(詳細は省くとして)その過程で、小生の脳裏に浮かんだのは、これはひょっとしたら、何かに試されているのかも知れない、と言う思いであった。
 神様や仙人の化身があえて醜い姿で人間界に舞い降りて、通りすがりの人間にいきなり無理難題を吹っかけ試練を課して、その対処の仕方に応じて、ご褒美を与えたり、罰を与えたり、という寓話は古今東西沢山あるけれども、ひょっとしたら、これもそんな「変身譚」の一つかも知れないなどと考えたのである。

 小生が、お鍋を引き取ったとたんに、このシワクチャ婆さんが煙のようにパッと消えて、代わりに笑顔の沢口靖子さんがたたずみ、受け取ったお鍋は何と純金製に輝いている――。
 『幸福の王子』(http://ja.wikipedia.org/wiki/幸福な王子)の「王子」や「ツバメ」は、その「善行」もこの世では報われる事なく、ゴミ捨て場に放り投げられたけれども、小生の場合、ここでうまく立ち回れば、現世でご利益を手に入れる事ができるかも知れない、そう考えたのである。
 それで、5~6個の内、一番大きなお鍋を1個だけ頂戴して帰ることにした。
 頂戴しても、当然、お婆さんは依然としてシワクチャ婆さんのままだったし、お鍋もただのお鍋であることをやめなかったことは言うまでもない。
 むしろ、会社に帰って、「また余計なものを拾って来て……云々」と、同フロアの女性陣から浴びせられた、聞くに堪えぬ罵詈雑言の嵐が唯一の報酬であった。「善行」の果てに、さながら『瘤とり爺さん』の欲深く「算盤尽くで動いた敵役」と同等の辱めを受ける不条理を味合わされる結果になってしまったのである。

 このお鍋、半年ほど小生の食器棚の隅に置かれたままになっていたが、今は知人のアパートの台所で活躍しているようである。
 保存していた半年の間、もしかしたら、小生の「善行」はそのうちきっと報われるのではないか、神様が見ていて下さるのではないか、俺はシワクチャ婆さん連中の話相手をしてあげたじゃないか、遊んであげたじゃないか、『わがままな巨人』(http://marieantoinette.himegimi.jp/gardenkyojin.html)の例だってある事だし、俺だって、その資格は充分ある筈だ、などと思い続けていたのだった。しかし、なかなかその兆しも見えないし、たまたま会社に遊びにきた知り合いに、その話をしたら、欲しいと言うので、それを機会に持って帰って頂く事になり、手放してしまったのである。
 
 今日(2月21日)も、夕方、件の公園の横をラッキーと散歩して来たが、北風の落葉をさらう音や空き缶を転がす音がいかにも寒々しく、さすがに、今日はお婆さん連中の姿を見ることはできなかった。

 いたら声でも掛けてみようかと思っていたのだけれども。「善行」を積ませて頂こうと思ったのだけれども。神様に見ていただきたくて――。