ネットで他人を罵倒して目立とうとする浅ましい“学者”たち

仲正昌樹
[第13回]
2014年10月6日
今月のラッキー

今月のラッキー

 前回は、「学者」の“常識のなさ”を口にしたがる、自称“常識人”の話をしたが、“学者”の中にも他の学者や知識人を罵倒することによって自分の“賢さ”をアピールしようとする、どうしようもない輩はいる。無論、学者として相手の主張をきちんと吟味したうえで批判するのは別に構わないし、むしろ、それこそが学者の本分とも言えるわけだが、私が今回問題にしたいのは、そういうちゃんとした「批判」などする気などさらさらなく、ただただ、他人をおとしめて快感に浸ろうとする卑しい根性の持ち主のことである。
 (当然のことながら私自身も含めて)学者というのは、普通の人よりプライドが高いので、同業者が自分より高く評価されたり、世間で注目を浴びるのを不快に感じ、その人物を過小評価したくなる傾向が強い。しかし、そういうのは、ごく親しい人との会話などに留めておかねばならない。どうしてもその人物について公の場で何か言いたいのであれば、よく考えたうえで、ちゃんと批判すべきである。ネット上で何の前置きもなくいきなり、「○○など素人同然だ。あんな奴が▽▽についての本を偉そうに書くなんて!」とか、「◆◆はバカだ。取るに足らない!」、などとツブヤクのは、自分の方が学者失格だと告白しているようなものである。
 昨年の夏、自称“研究者志望の学部生”が私の著者をよく読まないままけなしたので、私がこの「極北」で苦言を呈したところ、この人物が逆切れして、私を攻撃し、騒ぎを起こした。その際に、尻馬に乗って私を誹謗した連中の中に、何人か大学教員らしい奴がいた。中でもひどかったのは、この自称“学部生”をけしかけて騒ぎの発端を作った九大法学部の大賀哲(国際政治学)と、お仲間を誘ってきて私をしつこく誹謗した中大法科大学院の大杉謙一(商法)である。大賀は、私と一緒に仕事をしたことがあるにもかかわらず、私に一切連絡しないまま、自称学部生をおだてあげる一方、私の悪口を言って話を大きくした。仲裁しようともせず、騒ぎを大きくすることが、大学教師の使命だと思っているとすれば、狂っているとしか言いようがない。大杉は、匿名のお仲間と一緒になって、「極北」上の私の文章を曲解したうえで、「この人物が面白い文章が書けない奴であることがよく分かる」、などと偉そうにツブヤイていたが、どういうつもりで、そういう関係のないことをツブヤクのだろうか。騒ぎに便乗して私を貶めたいとしか思えない。それに、私の文章が下手だというなら、自分で少なくとも一冊上手な文章の見本のような本を書きあげて、大きな出版社から刊行すべきであろう――出来るものなら、とっくにやっていると思うが。この件について詳しくは、「極北」第二期の第一回で詳しく書いたので、そちらを見て頂きたい。
 最近こいつらに匹敵する、ひどい奴に出くわした。今年の八月、私は講談社現代新書で『マックス・ウェーバーを読む』という本を刊行した。新書なので、ウェーバーの主要なテクストについてごく基本的なことを紹介する内容になっている。それ以上でも以下でもない。幸い、それほどの部数ではないが、すぐに重版になった。
 にもかかわらず、佛教大の野崎敏郎(社会学)という男に、facebook上で誹謗中傷された。ウェーバーの大学教師としての歩みについての本を書いているので、ウェーバー専門家のつもりなのだろう。野崎曰く、「授業に使えるかと思って手にしたら、全く使えない。20分で読み終えた。全く内容のない本でした」。
 「全く内容がない」、というのはどういうことだろうか? 私が実はウェーバーのことについてほとんど何も知らず、自信がないので、関係ないことばかり書いてページ数をかせいで誤魔化したというのであれば、「全く内容がない」という表現が当てはまるかもしれないが、そんなことはない。むしろ、かなりのページ数を割いて主要な箇所を引用し、できる限り分かりやすく解説することを試みている。私は入門書とはそういうものだと思っているし、そういう了解の下で、これまで何冊も入門書を書いて来た。ひょっとしたら、私の解説に文句があるのかもしれないが、それなら、「内容がない」などという、それこそ“無内容な”けなし文句など使わないで、ちゃんと批判すべきだろう。しかし、「20分で読み終えた」という台詞からすると、ちゃんと批判しようとして読んだとも考えにくい。
 野崎は先の失礼な台詞の後で、無内容な私の本の代わりに、ゼミでは牧野雅彦氏が八年前に平凡社から出した新書『マックス・ウェーバー入門』を使うことにした、と付け足している。牧野氏の本を推しているところから――やや好意的に――推測すると、野崎は、たとえ新書であっても、ウェーバー解釈の新機軸のようなものをプラスアルファの情報として提示すべきだと考えていたのかもしれない。私は先に述べたように、入門書ではそういう姿勢を前面に出すべきではないと思っている。野崎がそう思わないというのなら仕方がないことだが、それなら、彼なりの判断基準を示したうえで、批判すべきだろう。
 判断基準も示さないで、「全く内容がない」などと他人の本をけなすのは、学者として恥ずべき行為である。批判する価値さえないと確信しているのなら、完全に無視すべきである。一応目にしたことだけは自分のゼミ生に伝えておきたいというのであれば、「私の考えに合わないようなので、別の本にした」、と言えば十分だろう。常識のある大学教師なら、そうするだろう。
 ウェーバー専門家でもない奴が(自分をさしおいて)偉そうに新書を書くのはけしからんと最初から先入観を持っていたか、自分のゼミ生や研究仲間向けにかっこうつけたかったかのいずれかであろう――失礼な奴なので、やや雑な決め付けをしても構わないだろう。野崎の著書のタイトルは『大学人ウェーバーの軌跡――闘う社会科学者』だが、彼は、他人の本を「全く内容がない」とけなして溜飲を下げたつもりになっている自分の態度が、「闘う社会科学者」にふさわしいと思っているのだろうか? これが、“ウェーバー専門家”のあるべき姿なのだろうか?
 因みに、私のウェーバー入門書を、どういうわけか経済学の早分かり本と勘違いして読み始め、難しい引用が多いのでついていけなくなって、「なんか詐欺としか思えないんだよね」、と全くもって見当なはずれなことをツブヤイていた、ハンドルネーム「似非教授」というバカがいたが、見当はずれっぷりに関しては、野崎と遜色ないという気がする。
 こういうことを書くと、そういう愚か者をいちいち非難しているあなたの姿勢は、学者にふさわしいのか、と思う人もいるかもしれないので、一応説明しておく。私は、自分を品行方正で模範的な学者であるとは毛頭思っていない。あまり品がなくて、決して人に誇れるような学者としての生き方はしていない。しかし、学者のはしくれだとは思っている――本当に、ぎりぎりのところにいると思っている。だから、他の学者を公の場でけなすことはしないよう心がけている――「批判」ならする。しかし、あまり人間ができていないので、いわれなくけなされたら、適宜反撃し、ストレスがたまるのを防いでいる。実際こういう文章を書くと、結構すっきりして、次の著作や論文に取りかかる意欲が湧いてくる。だから、心配してもらう必要はない。