たけもとのぶひろ(第21回)
20世紀初頭の東アジア――米国の「日本殲滅」計画が始動!
前回詳述したように、米国大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約を仕切ることによって、20世紀の世界戦略を「ホワイト・パシフィック」路線の方向へと大きく舵を切りました。そのルーズベルトが急に――でもないのだけれど――日本びいきから日本嫌いになったとの話が、ちょうど符節を合わせたように、その頃、人の口の端に上るようになったのでした。いわゆるアメリカ帝国主義が、太平洋の彼方から、アジア大陸、わけても中国の富をめがけて攻めあがってくるという路線が敷かれたわけです。
ポーツマス以後、もう少し詳しく見るとどういう流れになっていったのでしょうか。
あのとき以降、日本とアメリカがはじめて接触するのは3年後の1908年のことです。
1908年11月30日、日本の高平小五郎駐米大使は、米国のエリフ・ルート国務長官との間で、「太平洋方面に関する日米交換公文」という名の協定に調印し、相互の保有領土について、その現状を認めあったものです。具体的には、日本が、アメリカによるハワイ王国併合とフィリピン支配を認め、アメリカが、日本による南満州支配と韓国併合を承認し、その代わりに日本は、日本人のカリフォルニア移民に対するアメリカの制限措置を黙認する、というものです。
これら日米間のやりとりについて、ウィキペディア「高平・ルート協定」の中の「背景」は、次のように解説しています。
「米西戦争によってアメリカは、東アジアにおける主要勢力となった。アメリカがハワイとフィリピンを得たことは、清国における積極的な経済政策と結びついていて、当時の日本政府にとって、ますます脅威として捉えられていた。
他方でアメリカ政府は、日本の清に対する領土的利益への野心と、日露戦争後の日本の近代的で強力な海軍を不安視していた。
協定は日米間の緊張の増大を避けるものとして評価された。しかしながら、1907年以降の日本のロシア帝国への再接近(日露協約)、および満州への経済的投資の増大によって、協定は中国での日本の覇権に対するアメリカの影響力の弱体化に帰着した。」
上記の記事で明らかなのは、①日本が日露戦争と打って変わってロシアに再接近し満州の権益確保に乗り出したこと、②その日本の行動が、中国大陸における権益獲得に出遅れていた米国の反発を招き、以後、日米両国は中国大陸の利権をめぐって激しく対立せざるをえなくなったこと、の二点です。
①について、ポーツマス日露講和条約調印以降の日露関係で節目と見るべき出来事を『日本史小年表』(山川出版社)から以下に引用しておきます。
1905年09月05日 日露講和条約ポーツマスにて調印
1906年06月08日 南満州鉄道(満鉄)会社設立の勅令公布(11月26日 設立)
1906年08月01日 関東都督府(関東州守備・満鉄警備が任務、関東軍の前身)官
制公布
1907年07月28日 ロシアと通商航海条約・漁業協約調印
1907年07月30日 第1回日露協約調印
1908年04月10日 ロシアと樺太島境界画定書調印
1910年1月21日 日露両国、満州鉄道中立化案拒否をアメリカに回答
1910年07月04日 第2回日露協約調印
1912年02月16日 日露協会設立
1912年07月08日 第3回日露協約調印
②この当時の日米関係について、直接利害関係のない国の外交官が証言してくれています。ポルトガルのヴェンセスラウ・デ・モラエスという人です。彼は1854年、リスボンに生まれ、軍人・外交官・文筆家として活躍。1889年初来日の後、マカオ港務局副司令官を経て外交官となり、1899年、日本でポルトガル領事館が開設されると、在神戸副領事として赴任、のちに総領事となって1913年まで勤務。在任中の1902年から1913年まで、ポルト市の新聞「コメルシオ・ド・ポルト(ポルト商業新聞)」に、当時の日本について、政治や外交から文芸に至るまで細かく紹介しており、それらは『日本通信』全6冊として刊行されているといいます。彼は芸者のヨネ(福本ヨネ)と結婚し、ヨネの没後は彼女の故郷の徳島に移り、満75歳で没したとされています。彼は『日本通信』の中で、日米関係を次のように見ています。
「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとっても、この地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅されるかもしれない。」(ウィキペディア「満州国」の中の項目「日本の生命線」からの引用)。
不幸なことにモラエスの予言は的中します。彼がポルトガル総領事を退任したすぐ翌年の1914年7月、第一次世界大戦の幕が切って落とされます。日本はこれを奇貨として、英米連合国側の立つことを表明して参戦、ドイツの権益を略奪する挙に出ました。日本のこの参戦とその後の侵略行動が、同じく中国侵略に重大な利権を有する米国との関係を抜き差しならぬ対決関係へと追い込んでいくのは当然です。前掲『年表』で見ておきましょう。
1914年08月23日 ドイツに宣戦布告(第一次世界大戦参加)
1914年09月02日 日本軍、山東半島上陸(11月7日、青島陥落)
1914年10月14日 ドイツ領南洋諸島占領
1914年12月03日 対華21カ条要求提出を駐華公使に訓令
1915年01月18日 日置公使、対華21カ条要求を提出(5月7日最後通牒、同月9日
中国受諾、同月25日調印)
この1914年・15年あたりのことを林房雄は、どのように受けとめていたでしょうか。該当する部分を、以下に引用します。
「『当時の日本政府は、欧州大戦による一時退潮を「千載一遇の好機」と見て、『東洋における日本の利権を確立するために、日英同盟の義務というただそれだけの理由によって参戦し、青島を攻略し山東省からドイツの勢力を一掃した後に、『満蒙における特殊利益の強化、山東省におけるドイツ利権の継承、その他シナ本土における優越権の樹立』を21カ条にまとめ、武力発動で威嚇して北京政府に強制した。そのどの条項を見ても、火事場泥棒の居直りと評するほかはない。『日華親善』も『大アジア主義』もこの押しつけによってけしとんでしまった。
「21カ条こそは、その後の日韓関係を救い難い泥沼に陥れ、<アメリカの対日不信感を決定的にしたもので>、日本外交史上最大の失策であると言っても過言ではない。」
という『太平洋戦争への道』の記述は、私が傍点付した部分<>をのぞいて、すべて認めなければならない。」(中略)。
「『21カ条』が『日本外交史上最大の失策』であることは事実であるが、それは日本人がシナに対して言うべき言葉で、アメリカが言えることではない。」
北京政府に対する日本の「21カ条」の威嚇と強制について林は、「そのどの条項を見ても、火事場泥棒の居直りと評するほかない」とまで書いているのですからね。彼は、日本人および日本国の「侵略」という「非」を認めています(ただし、また別のところでは必ずしも非を認めていない表現もあるのです。彼自身が “究極の得心” にまでは至らず、揺れていたのではないでしょうか。この点はまた論じます)。
しかし話がアメリカとなると、同じ話が違ってきてしまいます。米国が対日不信を決定的にしたのは、ポーツマス条約締結前後のことですから、10年近く経った当時の、彼らの対日不信はいまや対日憎悪にまで成長していたのではないでしょうか。日本の大失策「対華21カ条」の知らせを耳にしたとき、彼ら米国の大統領や国務長官は、どんなにか大声で快哉の叫びをあげたことでしょう。
“ よっしゃ~、来た来た、今に見ておれ! 今度こそやったるど!”
「対華21カ条」が中国全土を覆う喫緊の課題となっていく、その起点は1915年1月でしたから、第一次世界大戦が始まってちょうど1年ぐらいです。 “新太平洋国家” 米国は、この中国大陸に対しては後発の侵略国であり、地政学的に目の前の日本を仮想敵国とせざるをえません。彼らにとっての日本とは、当面する戦争では同じ連合国側に属してはいても、近未来の戦争においては確実に敵国として戦わなければならないのです。したがって彼らは、おのれらの世界戦略の中に日本の位置を与え、日本を把捉し、日本を制御していかなければなりません。
当面のターゲットとして日本に照準を合わせている米国にとって、このたびの日本の「大失策」はまたとないチャンスです。第一次大戦中の米国は、常に日本を激しく非難し、シナ民衆の反日感情に同情を示し、かつ煽り、「門戸開放」のタテマエを振りかざして日本の「21カ条」を有名無実化しようとしました。このようにして米国は、あとから乗り込んできたハンデにも関わらず、着実に地歩を固めていくのでした。
戦後はどうなったか? 林房雄は短く要約しています。それを次に示します。
「第一次大戦が終ると同時に、アメリカの反撃はいよいよ本格化した。パリ講和会議においては公然とシナを援助する擬態(ポーズ)を示して、日本の要求(山東におけるドイツ利権の移譲、独領太平洋諸島の譲渡、人種平等案)を阻止しようとした。だが、日本は戦争中の英・仏・露・伊との秘密協定を楯として健闘し、平和会議脱退の決意までしめして人種平等案をのぞく諸要求を承認させた。そのために『中国側の失望は甚だしく、排日運動はいわゆる五・四運動となって爆発し、中国全土に波及した』と『太平洋戦争への道』は記しているが、これもアメリカの思う壷であったであろう。」
年表を記しておきます。
1919年01~06月 パリ講和会議
1919年05月04日 北京学生デモ(パリ講和会議の「21カ条」撤廃拒否に抗議)
→五・四運動(反日反帝運動)拡大
五・四運動が中国全土へと燃え広がったくらいで、あの貪欲な米国が満足するはずがありません。 “大戦後の世界秩序はワシントンで決めようぜ” と言わんばかりの調子で米国が主催して開いたのが、ワシントン会議でありました。この会議のほんの一端でも知れば、日本と米国との関係が、その当時すでに、どれほど血なまぐさい危険をはらんでいたか、イメージしてもらえると思うのです。
で、少し林房雄から外れますが、主として宇佐美滋氏に拠りながら、ワシントン会議についての知識を整理しておきます。氏は、硬派のジャーナリストであり学究の人でもあったためか、知る人ぞ知る類いの人だったのではないでしょうか。
1933年生まれ、東京大学教養部卒業、毎日新聞入社、中国特派員、ワシントン特派員などを経て、東京外国語大学教授、日本大学国際関係学部教授などを歴任。米国の外交・政治関係の著書および翻訳多数。――――と書いているのは、2013年4月30日の朝です。昨日ネットで見たときは無かった記事が、ありました。「4月24日 肺炎のため死去、4月29日19時21分 最終更新」と。ネット時代というのはこういうことが起こる時代なのだな、と思い知りました。
では、亡くなったばかりの宇佐美さんに依拠して、ワシントン会議を学んでいきます。
ワシントン軍縮会議(1921年11月~1922年2月)は、米・英・日・仏・伊の五大海軍国を中心に、中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルなども加わって開催されました。
会議のイニシアティブは、ハーディング大統領(共和党)の手にありました。彼は同年3月、ウィルソン大統領(民主党)に代わって就任したばかりでしたが、米国主導のもとでの東アジア・太平洋国際秩序の構築に向けて野心を滾らせていました。会議の “見るべき成果” とされる条約が三つあります。海軍の軍備制約に関する「五か国条約」、中国に関する「九か国条約」、太平洋に関する「四か国条約」、以上の三条約がそれです。これらを順を追ってみてゆきます。
第1は、海軍の軍備制約に関する「五か国条約」です。海軍の主力艦保有率について、米・英を5、日を3、仏・伊を1.67、とするものです。この保有率決定で笑ったのは米国です。米国海軍の念願は自国の海軍力を英国並みに増強することでしたが、これを勝ちとることができたからです。泣いたのは日本です。日本の主張は対米7割(比率3.5)でしたが容れられず、全権・加藤友三郎提督の責任において対米6割(比率3)を呑まざるをえなかったのです。ただ、このときすでに(真珠湾よりはるか以前に)そうだったのか、とほぞを噛む思いがするのは、米国が日本側の暗号電文(日本政府から代表団への)を傍受・解読し、日本の許容限界比率をあらかじめ知った上で交渉に臨み、譲歩を迫ったという事実です。何をしてでも “勝てば官軍” というやり方を、アメリカ・プラグマチズムとは言いません。何と言うかって? 単なる謀略、単なる堕落、と言うしかありません。
第2は、中国に関する「九か国条約」です。これは要するに、中国に利害関係をもつ各国が、中国の領土保全・門戸開放・機会均等について同等の言い分を持つという、そのことを国際的に承認するということです。これだけなら何の変哲もないことのように聞こえるかもしれませんが、この条約が言いたい本当のことは、特定の国の特殊な権益や特典は認めないということなのです。特定の国とは日本のことです。この条約を締結した以上、日本は、先の大戦に参加することによって略取した山東省の旧ドイツ権益を返還しなければなりません。また、1917年11月に調印した石井・ランシング協定では、中国における日本の特殊権益(満州と東部内蒙古)が、言わば例外的に、米国との間で相互承認にいたっていたのですが、この協定自体が反故になったということです。
第3は、太平洋に関する「四か国条約」です。どの条約もそうですが、これはとくに米国のイニシアティブがなければ実現しないし、だいいち思いつきもしない条約だと言わざるをえません。米国の狙いそれ自体は、よく理解できます。日本はヴェルサイユ条約の結果、五大強国の一国にのし上がりました。そこまで押し上げた原動力一つ、それが20年間もちこたえてきた日英同盟であることは衆目の一致するところです。しかし、中国大陸を狙う米国の戦略からすると、日英同盟は迷惑極まりない障害物です。これを取り除く必要があります。これが、米国の魂胆です。
日英同盟を解体するために、米国は何をしたのか。自国を含む「太平洋地域に権益を有する」ほかの3か国、日本、英国、仏国に呼びかけ、あわせて4か国の間で、「太平洋における領土と権益の相互尊重と諸島における非軍事化」「太平洋諸島嶼についての現状維持」について取り決めるべきだと提唱、とくに英国にこれを強く進言し説得して、条約の締結に持ちこみました。条約締結に成功した米国は、日英同盟の「発展的解消」、日本の国際的孤立、という多年の念願をかなえることができた、というのです。それが、日英対立への転換となり、日米対立の激化をもたらし、ひいては太平洋戦争への布石となっていったことは、言う迄もありません。
しかし、ぼくにはこの理屈がどうしても得心がいかないのです。つまり、「太平洋における領土と権益の相互尊重と諸島における非軍事化」「太平洋諸島嶼についての現状維持」について合意した「四か国条約」が、どうして「日英同盟」の解体につながるのか、そこのところが理解できないのです。米国統治下のハワイとフィリピンの間にはさまれた、パラオ・マーシャル諸島に対する日本の統治権が目障りであり、警戒を要する、という話なら、理屈としては解らないわけではないが、「太平洋諸島嶼」について取り決めた「条約」でもって、どうして日本と英国の二間「同盟」を解消することができるのでしょうか。二か国間の関係は、四か国という、それよりも大きな枠組みを作ることによって、その中に吸収することができる、つまり解消することができる、とでも言うのでしょうか。
一方は二か国間の「同盟」です。対するのは四か国間の「条約」です。次元が違います。それを、締結国の多いほうの「条約」が少ないほうの「同盟」を呑み込んで、なかったことにする。そんなアホな、と思うけれども、そのアホな、剥きだしの “力の論理” を押し通すのが、諸列強間の政治・外交・軍事の世界なのかもしれません。
第一次世界大戦に乗じて中国に進出してきた新興国日本の台頭を抑え込むこと、それこそがワシントン軍縮会議におけるアメリカの目的でした。そして彼らは、日本を狙い撃って所期の目的のほぼすべてを達成したのではないでしょうか。
狙い撃たれた日本は、唯一、殴る蹴るのやりたい放題の目にあったということです。
このように日本を沈める構造をつくることによって米国は、第一次世界大戦後の、東アジア・太平洋における諸列強の勢力関係を画定し、いわゆる「ワシントン体制」と呼ばれる国際秩序の構築に成功したのでした。
日本の代表団は、この屈辱を甘受せざるをえないとの立場でした。主力艦保有率に関する会議結果を受け入れるほかなかったとする、彼らの「理性的」「現実的」決断について、林房雄『肯定論』は、全権・加藤友三郎提督の、海軍次官井出謙次中将にあてた手紙を紹介しています。その部分をそのまま以下に引用します。
「(今後の)国防は軍人の専有物にあらず。、、、、、、国家総動員してこれに当たらざれば目的を達しがたし。故に、一方にては軍備を整えると同時に、民間工業力を発達せしめ、貿易を奨励して、真に国力を充実するにあらずんば、いかに軍備の充実あるも活用するにあたわず。平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。戦後、ロシアとドイツがかようになりし(崩壊せし)結果、日本と戦争の起こるプロバビリティのあるのは米国のみなり。かりに軍備は米国に拮抗する力ありと仮定するも、日露戦役のごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途はふさがるるが故に、日本は自力にて軍資を造り出さざるべからず。この覚悟なきかぎり戦争はできず。英仏ありといえども当てには成らず。かく論ずれば、結論として、日米戦争は不可能ということになる。
この観察は極端なるものなるが故に、実行上多少の融通きくべきも、まず極端に考うればかくのごとし。ここにおいて日本は米国との戦争を避けるを必要とす。、、、、、、でき得るだけ日米戦争は避け相当の時機を待つより外に仕方なし。」
このように全権・加藤提督の書簡を紹介したすぐそのあとで林は、さらに宇垣一成大将の日記の中の同趣旨の一文をも引用して示しています。大将曰く。
「当分のうちは、英米を敵とすることはなお得策ではない。ワシントン会議において譲歩したのも、それ賢明に近いと言える」と。
これらの文章は、日本の支配者層・指導者層にあって、日米間の彼我の力関係がいかほどのものであるかを、冷静な目で見て思い知る立場にあった、一部の人たちの判断を示すものであったと思われます。世に「幣原協調外交」と呼ばれ、軍部や右翼からは「幣原軟弱外交」と罵られていたのがそれで、その言わんとするところは、要するに、①米国主導の「ワシントン体制」を認めてその下で米英との協調路線を選択するしかなく、②したがって中国(支那)に対しては内政不干渉主義で対処せざるをえない――ということ、この二点に尽きます。
幣原喜重郎は、「加藤高明内閣・第一次若槻礼次郎内閣」(1924.6~1927.4)、「浜口雄幸内閣・第二次若槻礼次郎内閣」(1929.7~1931.12)のもとで外務大臣をつとめ、それぞれ第一次幣原外交、第二次幣原外交と称されています。外務大臣をつとめる以前のことですが、1921年11~12月、幣原はすでに言及した全権・加藤提督のもとでワシントン軍縮会議に出席し、上記の条約締結に、つまり、米国主導の「ワシントン体制」の構築に、尽力したのでした。「ワシントン体制」下の幣原路線と言われる所以です。
ワシントン軍縮会議(1921年開催・22年条約締結)は、海軍「主力艦」の保有率をめぐって日本を抑え込むのが目的でしたが、1930年(1~4月)、英国のマクドナルド首相の提唱で開かれたロンドン軍縮会議は、五大海軍国(米・英・日・仏・伊)の「補助艦」保有率の制限を主たる目的としたものです。前軍縮会議と同様、今回もやはり日本がターゲットであったことは言う迄もありません。二つの軍縮会議には、10年近い時間のへだたりがありますが、日本排除という共通の狙いがあったところから、ここで続けて論じておきたいと思います。
ワシントン条約の結果、どういうことが起こったのでしょうか。保有比率でもって制限されたのは「主力艦」だけで、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、などの「補助艦艇」の建造については何の制限もありませんでしたから、各海軍国列強は、一意専心、性能の高い補助艦の建造に当たりました。なかでも群を抜いて優秀だったのは、巡洋艦では、日本が建造した「妙高型重巡洋艦」でしたし、駆逐艦でも、やはり日本が建造した「吹雪型(特型)駆逐艦」のような大型駆逐艦がダントツの優れものであったとされています。他国のそれを上回る日本の海軍力とその技術だけは最低限封じ込まなければならない、というのが会議を主導する米英の期するところでありました。ただ、それだけでは安心できなかったのでありましょう。あらゆる補助艦艇の排水量はもとより搭載砲門の大きさに対してまで、彼らは、あらかじめ事細かな規制をかけてきたのでした。
それともう一つ看過できない点は、この会議が近い将来における日米戦争を当然の前提とした “駆け引き” の場であったということです。そして、日本側も米国側も、日本近海での艦隊決戦で決着をつける、とのイメージだったといいます。日本軍としては、米艦隊が決戦海域に到達するまでの段階で、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など、自軍のあらゆる補助艦艇を動員して、米艦隊の戦力を破壊し削減しておくことが、来るべき艦隊決戦において勝利するための必須の条件でした。米国艦隊の戦力をできるだけ削っておかなければなりません。これを補助艦艇保有量でいうと、日本側は、対米比率で最低七割は保有していなければなりませんでした。この数字は、日米両国の軍事専門家が一致して見るところでした。だから、日本が対米比率「七割」を主張するのは当たり前です。これに対して米国は「六割」を主張したのです。
結果はどうだったのでしょう?
日本の補助艦保有率は全体で対米比「六・九七五割」で、「七割」をクリアーできませんでした。しかし、時の浜口雄幸内閣はこれを受諾しました。日本の国力からすると破格に近い保有率を獲得できた、というのがその理由でした。海軍省軍令部はこれを拒否しました。
・最低条件の対米比七割を獲得していない。
・重要な戦力である重巡洋艦の保有量について見ると、対米比六割にとどまる。
・潜水艦についても、米国の3艦艇については特別措置を講じて保有を認めている
にもかかわらず、日本の潜水艦保有量については希望量を満たしていない。
これら三点が主たる拒否理由だったと思います。
日本指導部は混乱せざるをえません。内閣と海軍の不一致。海軍内部の「条約派」と「艦隊派」の対立。カリスマ東郷平八郎の反発。そこへマスコミや野党も加わって、火に油を注ぐ大騒ぎの中で、「統帥権干犯問題」という、なんか “化け物” みたいなやつが出てきたのでした。天皇の承諾なしに条約を締結したのは、大日本帝国憲法第11条の「統帥大権」(天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス)を侵すものだ、というのです。
無闇矢鱈に抜くものではないと禁じられている “伝家の宝刀” を抜いた。ギラッと。ゾッとしませんか。
この騒ぎは、しかし、もっともっと大きな騒ぎの中の一つのエピソードにすぎないのでした。「ワシントン体制」下の二つの軍縮条約によって、日本がどれだけの圧力にさらされてきたか、想像するに余りあるものがあります。次回に、そのあたりを見てゆきたいと思います。