たけもとのぶひろ(第16回)

硫黄島・栗林中将の戦い(6)

 硫黄島日本軍の指揮官と将兵2万余は、日本人同胞のために力の限りを尽くし、最後の血の一滴が尽きるまで戦わなくてはならない――それが、軍人の本分であり、軍人として果すべき当たり前の義務である。栗林はそう信じて疑わなかった、と前回の終りに書いた。今回はその中身を見てゆきたい。二つある。
 最初にとりあげるのは、硫黄島の現地に住んでいた一般の日本人に対して、軍人・栗林がどのように考えていたか、またどのように対処したか、という点である。例によって手前勝手な引用をして以下に示す。お許し願いたい。

 「硫黄島のおもな産業は硫黄や燐鉱の採掘で、硫黄の精錬所があった。土質と気候条件のため稲作はできず、農産物といえばサトウキビや薬用植物くらいだった。
 それでも栗林が着任したとき島には1000人ほどの住民がおり、その多くが元山台地の中央部の集落に暮らしていた。貧しいながらも平和な暮らしを営んできた、素朴な人々である。/6月の空襲の際には、この住民たちを軍の防空壕に収容して保護した。もとより自前の防空壕など持たぬ人たちである。女性や子供が慣れぬ事態に逃げまどい、着の身着のままで防空壕に飛び込んでくるのを見て、栗林は住民を早めに内地へ送還すべきだと判断した。足手まといになることはもちろん、軍人と民間人が狭い島で雑居するのはよくないと考えたのだ。おそらく風紀上の問題が起こってはいけないと考えたのだろう。
 栗林は潔癖な人だった。硫黄島には慰安所が設けられなかったが、これは栗林が難色を示したためだという説がある。
 島民の内地送還は7月3日から始まり、14日までに完了した。16歳から40歳までの扶養者のいない男子が陸軍の軍属として徴用され、また島にあった気象観測所の所員が海軍勤務となったが、その他の住民は全員島を離れた。たとえ不便であろうが殺伐としていようが、軍だけで戦いに備えた方がよい――こうした判断をごく早い時期に下したことが、硫黄島が結果的に民間人の犠牲者を出さなかったことにつながったのである。
 当時すでに戦争は軍も民もない総力戦の様相を呈し、国民はひとしく “軍国の民” として戦争完遂のためにすべてを捧げることが求められていた。
 しかし栗林の中には、普通の人々が普通の生活を送れるようにするために自分たちは存在するのだという強い思いがあった。
 いかにちっぽけな島でも、島民にとってここは大切な生活の場である。戦闘が始まれば、住民の家も職場もめちゃめちゃに破壊される。それは国民を守るのが仕事である自分たち軍人に力がないせいだとして、(栗林は)島民に謝っているのである。「われわれの力がなくて皆さんに迷惑をかけてすまないが、もうこうなってはどうしようもありません」(前出『闘魂・硫黄島』より、島の住民・「硫黄島産業」常務・桜井直作氏の談話)と。

 万事にわたって暴力的で・居丈高で・高圧的で・威張りんぼで……等々、これらは出どころも現われも結局はみな同じなのだし、いくら言っても言い足りない。それくらい下劣なことを、大本営とそれに連なる戦争指導者たち “いわゆる” 軍人はしてきたのだと思う。人々をいじめて悦に入っている。栗林のいう “軍人の本分” とはなんの関係もない、単なるごろつきに過ぎない。こういう奴らが、軍隊の中枢を占拠している状態で、どうやって戦争に勝つことができるであろうか。この種の軍人と栗林ら硫黄島の軍人とでは、「(同じ) “軍人” という言葉でひとくくりにするのがためらわれるほどの違いがあることが見えてくる」と、梯さんは述べている。

 次に見ておきたいのは、硫黄島の兵団生活である。栗林忠道という軍人が、普通の日本の人々をどのように見ていたかは上に記した。では、この栗林という人は、麾下の軍人将兵をどのように見ていたのであろうか。そして硫黄島の戦場においてどのような兵営生活を構築していたのであろうか。この点に関しては、梯さんの叙述を二つに分けて以下の通りに紹介したい。引用の仕方はこれまで通り。ご寛恕ください。

 •同じ量の水を飲み・同じものを食い・苦楽を共にする
 「米軍の情報分析官は上陸前に、硫黄島にひそんでいる日本兵は、最大1万3000人と見積もった。飲用に適した水がないため、それ以上は無理と判断したのだ。しかし、その予測は外れた。日本軍は、絶望的に乏しい水で2万を超える人間の生命をつなぐという離れ業を、どうしても演じなければならなかった。
 とにかくこの島には水が足りない。そのことがつねに頭を離れなかった栗林は、水の浪費を厳しく戒めた。『この島では、水の一滴は血の一滴だ』と。妻の義井宛てにも、『川もなく井戸もないから全部雨水を貯めて使うので、水は極度に節約します』と書いています。」
 「また陣地を見回る際、栗林はいつも徒歩だった。騎兵出身で乗馬の名手である栗林に馬での巡回をすすめる部下もいた。硫黄島には馬が3頭いたのである。しかし彼は一度も乗ることはなかった。馬を歩かせれば水をたくさん飲むから、というのがその理由だった。
 丸腰で地下足袋をはき、杖をついて各部隊に現われる栗林の姿を記憶している将兵は多い。
 そんなとき彼はいつも、水筒を1本、肩から掛けていた。当時、1日の水の配給は、ひとり当たり水筒1本と定められていた。それを自分も守っていたのである。
 水だけではなく生活の他の面についても、栗林は上下で差をつけることをかたく禁じた。
 将校も兵卒と同じものを食べろと言っているのである。
 階級にかかわらず、すべての将兵が不便を分かち合い、苦楽をともにすべきである、と。
 栗林は自分自身も兵士たちと同じものを食べると決め、それを実行した。」
 「留守宅からは、配給のウイスキーや副食物などを送りたい、あるいは島と東京を往復する連絡将校に託したいという手紙が何度も来た。しかし、栗林はそのたびごとに、『自分は兵士たちより恵まれた立場なのですべて十分足りている』 『大事な輸送物資を載せる飛行機なのだから、手紙以外は何も託さないように』という意味のことを書き送っている。
 恩賜の菓子が配られたときは、自分は手をつけず留守宅へ送った。夫人への手紙に、小さく『家だけで食べること』と書いているのがほほえましい。公平・厳格な統率を旨とした
 栗林も、家庭人としてはごく普通の父であり夫だったのである。」

 •つねに2万の部下とともに生きる最高指揮官の覚悟
 「米軍側の資料に、捕虜となった日本兵の多くが栗林の顔を直接見たことがあると主張したことに驚いたという記述がある。2万を超える兵士のほとんどが最高指揮官に会ったことのある戦場など考えられないというのだ。
 硫黄島のような生活条件が劣悪な地では特に、上官との接触が少ないと兵士の士気は衰える。たとえ直接顔を見ることはなくとも、雲の上の存在である最高指揮官が毎日陣地を見回っているという話はすぐに伝わり、兵士たちを元気づけたに違いない。
 無惨な死を兵士たちに強いざるを得なかった栗林は、だからこそ硫黄島での日々を、つねに兵士たちとともにあろうとした。そのことはまず、安全で水も食べ物も豊富だった父島から指揮をとることを拒否して硫黄島に赴き、最後までただの一度も島から出なかったところにあらわれている。」
 「島での栗林は、毎日隅々まで歩いて陣地構築を視察し、率先して節水に努め、みずから畑を作った。自宅からの差し入れを断り、三度の食事は兵士と同じものを食べた。兵士たちの苦しみの近くにあることを、みずからに課していたのである。
 明日なき命を生きる同胞として、兵士たちの日常の中に自分もとどまる――米軍上陸に備えた栗林の『覚悟』とは、つねに2万の部下とともに生きることだった。」

 最強の軍人・最強の部隊をつくるのに、最善の策を授けてくれるような便利なマニュアルなど、あるわけがない。これはもう、最高指揮官たる自分が先頭に立つしかない。そして将校たる者は一人ひとりが自分とともに、何事についても身を挺して実践躬行するのみ、それに尽きる。それが栗林の考えだった。梯さんは、陣地づくりの「穴堀り」に関する栗林指揮官の通達を挙げたのち、次のようにコメントしている。曰く。
 「栗林が出した通達である。全将兵がもれなく築城、つまり陣地構築に邁進せよと命じている。司令部や本部のいわば “管理職” も、事務処理などを理由に現場に出ないのはけしからんと言っているのである。兵士たちの士気を高め軍紀を保つには、上官が『現場に進出』するしかないというのが彼の考えだった」と。
 栗林最高指揮官は、大まかに言うと、将に厳しく、兵に優しかったのだと思う。というか、この逆、将に甘く、兵に厳しいようでは、軍は強くならない。やはり、まず将に厳しくして、将が我先にと困難に立ち向かい範を垂れるようでないと、軍の全体が強くなるはずがない。彼はそう信じていたのだと思う。

 このような、いわば現場尊重というか下方志向というか、あるいは反権威主義というか、思い切って言うとリベラルでさえある、と言って言えなくはない、栗林指揮官のものの考え方は、ひとつには、彼の戦術思想の根幹をなす合理主義的なものの考え方と響きあうのではないだろうか。梯さんは繰り返し指摘している。栗林という軍人は、アメリカ体験ということもあるのであろう、非常に合理的にものを考えることのできる人であった、と。
 とくに紹介しておきたいのは、栗林が妻の義井に宛てた手紙の一部を引き、それについて考察した「エピローグ」の冒頭に近い部分である。梯さんはこう述べている。
 「栗林は義井に、軍人の妻として夫の名を汚さぬように生きよとは言い残さなかった。むしろ逆のことを、硫黄島からの手紙で伝えている。子供たちの養育をよろしく頼むという意味のことを述べた後で、次のように書き記しているのである。『なおこれから先き、世間普通の見栄とか外聞とかに余り屈託せず、自分独自の立場で信念をもってやって行くことが肝心です』(昭和19年9月4日付 妻・義井あて)。陸軍中将だった栗林は、硫黄島守備の功績によって大将に叙せられた。 “大将の妻” としての誇りを義井は胸に秘めて生きたはずだ。しかしそれは、家名を守り夫の武功を子々孫々に伝える、というようなものではなかった。当の夫が、そんなことを望んでいなかったからである。
 『世間』も『普通』もどうでもよい、信念をもって自分らしく生きよ。きびしい現実に立ち向かい、子供たちとともに強くあれ――それが、もう自分が家族を守ってやることはできないと覚悟した栗林が妻に求めたことであった。それに応えて、義井は見栄や外聞とは無縁の強さをもって戦後を生きたのだった。」
 当時としては(あるいは今日でも)相当進んでいる、と言ってよいのではないか。

 栗林のこのような生き方・考え方に強く影響したものは何だったのか。そういうことを最後に考えておきたい。二つの視点があると思う。
 最初の視点は、彼の学歴がエリートコースでありながら、その反主流派に属していたことに関わっている。栗林少年は旧制中学を経たのち、陸軍の高級将校養成コースを選択し、そのシステムの中を優等生として進んで行く。その道をつぶさにたどって行けば、ぼくらがこれまで論じてきた「栗林中将」に出会うことができる。そういうことだと思う。
 そこで、例の引用法でもって、彼の足跡を紹介してゆきたい。梯さんの詳細な取材と解説を、長くなることを気にせずに、できるだけそのまま伝える。

 「栗林がアメリカ留学に出発したのは昭和3年3月のことである。陸軍大学校を出て5年目、36歳の騎兵大尉だった。
 海外留学は当時、陸軍大学校を優秀で卒業した “軍刀組” (恩賜の軍刀を受けたのでこう呼ばれる) の特権だった。行き先はドイツ、ロシア、イギリス、アメリカ、中国など。最も多くの軍刀組が留学したのはドイツである。
 栗林は陸軍士官学校の26期だが、25期から27期までで海外留学を経験した28名の留学先を見てみると、ドイツが10名ともっとも多く、注いでフランスが7名となっている。アメリカは4名、イギリスは1名で、英語圏の少なさが目につく。
 日本陸軍には米英を知悉した軍人が少なく、その軍事力・国力を軽んじたことが太平洋戦争の敗因のひとつといわれるが、これは陸軍の高級将校の養成システムとも関係があった。
 陸軍の典型的なエリートコースは、陸軍幼年学校から陸軍士官学校へと進み、さらに陸軍大学校を卒業するというものだった。これとは別に、陸軍幼年学校を経ずに、普通の中学校(旧制中学)から陸軍士官学校に進むこともできたが、出世という点から見ると、圧倒的に幼年学校出身者が有利だった。幼年学校卒が本流、中学卒は傍流という考えが根強くあり、陸軍の中枢ポストの多くは幼年学校出身者で占められていた。
 栗林は幼年学校出身ではなく、地元長野の中学校から陸軍士官学校に進んでいる。松代高等小学校から長野中学(現・長野高校)に進んだ栗林は成績優秀、とくに英語が得意で、外国回りの報道記者を志望していたという。事実、陸軍士官学校のほかに、当時ジャーナリストや外交官を多く輩出していた上海東亜同文書院を受験して合格している。どちらを選ぶか迷ったが、教師のすすめに従って陸軍士官学校に進んだという。
 その後は陸軍大学校、海外留学と、いわゆるエリートコースを歩んでいるが、大本営勤務は一度もなく、政治とはまったく関わりを持たなかった。軍閥抗争とも無縁である。
 陸大軍刀組の割には出世が早いとはいえず、少将になったのも中将になったのも、同期でもっとも早いものから半年遅れだった。経歴を見ても、軍馬を扱う部署に長く在籍したりと意外に地味で、硫黄島の総指揮官をつとめるまでは特筆すべきものはない。」

 エリート意識ばかりが強くて視野の狭い幼年学校卒と違って栗林は、普通の旧制中学を成績優秀で卒業しているだけあって、かつてのある部下が言うように、非常に広い視野の持ち主であったことは、彼が「外国回りの報道記者」をも志望していたらしいことからも十分にうかがい知ることができよう。幼年から陸士、陸士から陸大へと、軍人政治の出世街道をまっしぐらに上がってきた人間は、その世界の外に出たこともない。彼らは、陸軍という組織に過保護なまでに可愛がってもらっているから、陸軍以外にはなんの関心もなくて当たり前である。しかし、どこまでも内向きの、この国でしか通用しない、ゴリゴリの組織人が、世界を相手に戦うことができるであろうか。
 そこへいくと、わが栗林中将は、アメリカに留学するはるか以前の少年時代から、世界に目を向けていたという。長野の山奥におりながら、である。栗林少年はたまたま軍人になっただけで、ガキの頃から軍人になりたい一心で幼年学校から、軍人一筋に生きてきた人間たちとは、価値観の根本が違っていたに違いないのだ。つまり、同じく軍人と言っても、彼らと彼とでは軍人が違うのであった。

 彼ら軍人一筋人間としては、おのずから軍閥抗争や大本営政治に明け暮れることになるだろうし、わが身の出世しか眼中になかったとしても、それはそれで無理からんところがあるのかもしれない。しかし、栗林としては、自分はなにも軍人でなくても、海外回りの新聞記者でもよかったし、外交官でもよかったわけで、ただ、開かれた世界の中でまともな人間として通用する人間になりたいと思っていたのではないか。それがたまたま軍人になった。したがって栗林にとっては、ひとくちに軍人と言っても、まともな人間として通用する軍人でなければならなかったのだと思う。その辺にゴロゴロしている軍人エリートさんと一緒にされたのではたまらない。彼らと自分とでは志が違うのだから。彼のことだから、あらわにすることはなかっただろうが、そこまでの自負をもって自らを律していたのではないだろうか。

 栗林忠道という軍人を考えるとき欠かせない、いま一つの視点として、彼の生まれ・血統みたいなものがあるのではないか。そういう気がしてならない。
 とくにそれを確信したのは、梯さんの「エピローグ」における次のくだりに接したときであった。彼の出身地、生家の佇まいとその風景、栗林家、生家の生業と生活の営み、などを読ませてもらっていて、なるほど、と得心のいくものがあった。
 その全体像を以下に引用する。ここは梯さんの文章をそのまま全文、一字一句違えていない。目に浮かぶように書いてあるし、削れない。

 「平成16年初夏、私は栗林の出身地である長野市松代町を訪ねた。
 松代町は真田十万石の城下町で、幕末の先覚者といわれる佐久間象山の出身地でもある。真田邸や松代藩文武学校などの史跡がある中心部から少し南へ入った静かな山あいに、栗林の生家はある。なだらかな坂を上がっていくと、まず古い倉が見え、その先に、白い漆喰壁に瓦屋根が映える古い二階家があった。昭和初期に建てられたものだという。庭には白とピンクの芍薬(しゃくやく)が咲き乱れていた。
 迎えてくれたのは、現在の当主である栗林直高である。栗林の兄・芳馬の孫に当たる直高は、栗林が亡くなった昭和20年の生まれで、中学校の校長を務めている。
 栗林家は戦国時代から真田家関屋郷の郷士として現在の地にあった旧家である。郷士とは、城下町に居を移すことをせず、農業を営みながら地元に住んだ武士をいう。
 徳川時代には松代藩の藩士となり、明治になると製糸業や銀行業に出資するが、いわゆる”武士の商法” で失敗。さらに明治元年、14年の二度にわたり大火に遭って家屋が焼失する。明治24年生まれの栗林は、両親が家の再建に懸命になっていた頃に誕生したことになる。
 芳馬の長男・直(すなお)が、叔父に当たる栗林の生い立ちを綴った『若き日の栗林忠道』という手稿が栗林家に保存されている。それによると、栗林の父・鶴治郎は製材業や土木建築業に励み、母・もとは使用人とともに農業を営んでいた。両親とも多忙であり、子供たちは幼いころから廊下のぞうきんがけや庭掃除など、家の手伝いをした。いわゆる地方の名家に生まれたが、贅沢とは無縁で、勤勉質素に育てられたのが栗林という人であった。」

 栗林忠道の先祖は、戦国時代の真田十万石の郷士。常日頃は土を耕し、いざという時には武器をとって戦う、土着の武士であった。以来、何百年ものあいだ名家としてその地にあるという。軍人とは、普通の人々が普通の生活をやっていけるように彼らを守るのが、本分なのだ、という。栗林中将はその信念をもって硫黄島の島民を守った。そのことはすでに触れた通りである。また、すべてにおいて事欠く兵団生活であるからには、自分をも含むすべての将兵が同じものを食べ、同じ分量の水を飲み、苦楽をともにしなければならないこと、その際、とくに将たる者は将兵の隔てを越えて、兵のことを思いやる器量がなければならないこと、これも既述の通りである。

 大本営の軍人どもにとって、これらのことは、身をもって行うことはもちろん、心に想い描くことさえできなかったであろう。
 片や栗林中将は、真田十万石の郷士がその先祖であるという。平常時には普通の百姓とともに土を耕し、非常時には武器を手にして敵と戦い人々を守った武士。それが彼の先祖であった。その血脈が受け継がれてきて、その末に栗林忠道という軍人が生まれたのではなかったか。その末裔のひとりであるとの誇りがどこかで彼を支え、敵将をして感嘆措く能わざる言葉を献じさせたのではないだろうか。再度引用する。
 ニミッツ大将曰く、「歴戦剛強をもって鳴る海兵隊の指揮官たちでさえ、空中偵察写真に現われた栗林部隊の周到な準備を一見して舌を捲いた」と。
 スミス中将曰く、「太平洋で相手とした敵指揮官中、栗林は最も勇敢であった」と。