受験脳から卒業できない人間に「哲学」は無理なのか?

仲正昌樹[第28回]
2016年1月5日

「ハイデガー入門『存在と時間』を読む」(講談社現代新書、2015年11月)

「ハイデガー哲学入門――『存在と時間』を読む」
(講談社現代新書、2015年11月)

 十一月に講談社現代新書として拙著『ハイデガー哲学入門――『存在と時間を読む』』を刊行した。哲学系の著作を出すと、例によって、アマゾン・レビューなどに、訳知り顔で見当外れのコメントを書いてくる輩が出てくるので、それが苛々の元になる。比較的早い時期にアマゾン・レビューに登場したfriedrichという人物による“評”は、全体的なトーンとしては罵倒調ではなく、好意的なところもあるが、タイトルがいわゆる「上から目線」で、偉そうな感じになっている:「あくまでも『存在と時間』の副読本としては有益な一冊」。
 このタイトルは、この人物の態度をよく表している。「あくまでも~」という言い方は、暗に、「別の面から見れば、それほど有益ではないかも」、ということを暗示している。著者としては嫌な感じを受ける。また、「副読本」というのは、主として、(大学ではなく)学校で教科書を理解するガイドラインを与える参考書に対して使う言葉である。学校の教科書には、決まった答えがある。哲学・思想の入門書を書いている研究者で、副読書の著者と言われて気分のいい人はいないだろう。しかも、間接的に、『存在と時間』を学校の教科書扱いして、過小評価しているようにも思える。私は『存在と時間』を聖典扱いすることには反対だが、かといって、学校の教科書のように安直なものだと思っていない。私は、教科書の副読本を書くほど、物好きでも暇でもない。
 無論、「副読本」というのは、単なる言葉のセンスの問題にすぎない可能性もあるが、レビューの中身も、虎の巻的なものを評価するような調子である。

他の著書はさておき、とりあえず『存在と時間』の本文を理解したい初学者のための本といった感じです。『存在と時間』以外のハイデガーの著作やハイデガー本人の生涯に興味のある読者には、この本はあまり役に立たないかもしれません。あくまでも『存在と時間』の副読本としてはとても良質な入門書だと思いました。

この本の9割くらいは、ほとんど『存在と時間』の要約だと言ってよいです。(…)『存在と時間』が後世に与えた影響や最近のハイデガー研究の動向については、冒頭や終章や論述の途中で少しだけ説明されている程度です。ハイデガー研究が昔よりも進んだこのご時世ですから、『存在と時間』の要旨ばかり述べるだけでは正直なところ物足りない感じがしました。ハイデガーに関する目新しい情報をもっと盛り込んで、他にもたくさんあるハイデガー入門書にはない個性を出しても良かったと思います。

『存在と時間』が後世に与えた影響や最近のハイデガー研究の動向については、冒頭や終章や論述の途中で少しだけ説明されている程度です。ハイデガー研究が昔よりも進んだこのご時世ですから、『存在と時間』の要旨ばかり述べるだけでは正直なところ物足りない感じがしました。ハイデガーに関する目新しい情報をもっと盛り込んで、他にもたくさんあるハイデガー入門書にはない個性を出しても良かったと思います。

 このレビューを見る限り、friedrichは、私の本を『存在と時間』の“副読本”にすぎないと断じているくせに、その“副読本”さえちゃんと読めていないか、そもそもまともに読もうとしていないのかのいずれかであることが分かる。この人物は、私が『存在と時間』の要約あるいは要旨だけ述べているかのように書いているが、これはウソである。もしくは、「要約」や「要旨」という言葉の意味を知らないのだろう――だとすると、中学生以下である。「要約」や「要旨」というのは、本文を短くしたもの、あるいは、大事なところだけ抜き書きしたものである。当然のことながら、哲学の古典的テクストを要約しただけの文章を、自分の著作として刊行するような、ヒマで間抜けな哲学・思想史研究者はいないし、それを引き受ける出版社・編集者もいないだろう。ピケティ・ブームの時に、横着な読者のために『21世紀の資本』を要約した虎の巻的なものが何点か出版されたが、ハイデガー研究は、一般人が気楽に関心を持つようなブームには、ほど遠い状況である。
 国語の教科書に載っている古典的な文学作品の要約を載せた副読本ならある程度の需要はあるだろうが、『存在と時間』に関してそれをやることにほとんど意味はない。『存在と時間』はかなり難解なテクストで、哲学の素養がない人が読んでも何がテーマなのかさえよく分からない。文章の流れが込み入っていて、なかなか頭に入ってこない。話の流れが見通しずらいテクストを短く切り詰めたら、論理の繋がりが途切れてしまって、余計に訳が分からなくなる。だから単純に要約するのではなく、大事だと思えるポイントをいくつか選び、それについて歴史的・理論的説明を加えたうえで、それらのポイントを解説者流のやり方で繋ぎ合わせ、再構成する必要がある。それがまともな、哲学の入門書あるいは解説書である。ちゃんと読めば、ポイントの選択と解釈、文脈の再構成に私の独自性が出ていることが分かるはずだ。他の入門書には書かれていないようなことを随所で指摘している。オーソドックスなハイデガー研究者は同意できない点もいくつかあるだろう。「個性を出しても良かった…」という偉そうな言い方は、そういうことが分かっていない証拠である。
 friedrichは、「ハイデガーに関する目新しい情報」を盛り込むことを、個性を出すことだと思っているようだが、「目新しい情報」とはどういうことか?ハイデガー全集の刊行が進んで、これまであまり注目されてこなかったマイナーなテクストも読めるようになってきているが、多分、そういうものについての書誌的情報のことを言っているのではないだろう。また、その手の情報を詰め込んだ“入門書”を読みたがる初心者などいないだろう。
 「ハイデガー本人の生涯」と言っているので、恐らく、エピソード的なものを念頭に置いているのだろう。ナチスへの関与とか、青少年期の信仰体験、夫婦・兄弟関係、アーレントとの“浮気”、『黒ノート』問題に象徴される反ユダヤ主義的傾向、メディア戦略…について情報提供せよ、ということかもしれない。ハイデガー入門と銘打った本の中には、この手の情報を結構盛り込んでいるものもあるが、そういうのは、哲学書に慣れていない読者に対する、おまけのサービスにすぎない。そういう情報が増えることを、「研究が進む」ことだと理解するのは、勘違いも甚だしい。
 実験や観察を主とする自然科学系の研究では、理論的な背景を理解していない素人でも、“目新しい”ということだけは分かるような大きな成果が出ることはしばしばある。STAP細胞のようなものが実在するとしたら、それが“すごい”ということは、素人でも何となく分かる。一般向けの“理系の啓蒙書”には、理屈抜きで成果のすごさだけを強調するのが普通である。しかし、哲学や文学など、テクストの理解に主眼を置く学問では、理屈抜きに直感的に“すごい”と思える成果が上がることはありえない。夏目漱石とか太宰治の未発表の原稿が見つかったりしたら、それは文学の研究の重要な材料になり、文学好きの一般読者にとってもそれなりに興味深いだろうが、その手の情報を集めるだけで満足すれば、ただの好事家であって、研究者ではない。哲学についても同じことである。ヤスパース、シェーラー、ハイデガー等の未刊行のテクストが見つかったからといって、本気で興奮する素人はほぼ皆無だろうが。
 friedrichに限らず、哲学研究とはどういうことか理解していないくせに、偉そうなことを言いたがる“素人読者”が多すぎる。哲学の研究というのは、古典になっている重要なテクストに書かれていることをきちんと理解することを目指して行われる。その哲学者が影響を受けた他の哲学者・思想家のテクスト、あるいは本人の他のテクストを参照するのは、そのためである。他の研究者の仕事に言及するのは、それらと比較することで、自分の解釈の精度を上げるためである。歴史的背景とか伝記的な情報も、理解の助けとして有用な場合はある。そこを忘れてはならない。テクストの理解とあまり関係なく、トリビア情報を提供するのは本末転倒である。
 friedrichは、『存在と時間』以外のテクストも取り上げた方がいいかのようなことを言っているが、それは『存在と時間』を十分に理解している人間が言うことだ。最も大事なテクストで、しかも比較的初期のテクストである『存在と時間』の中身をあまり把握していない人間に、『形而上学入門』とか『ヒューマニズム書簡』とか、別の意味で難しいテクストを紹介して何になるのか?哲学豆知識は増えるかもしれないが、個々のテクストに内在した理解からはますます遠ざかることになる。本当に『形而上学入門』とかヘルダリン講義、ニーチェ講義などに関心がある奇特な読者は、副題に「『存在と時間』を読む」と付いている私の本ではなく、それらについての個別の研究書を読もうとするだろう。
 私は、『存在と時間』からの引用に、熊野純彦氏による岩波文庫の訳を利用したが、friedrichはそのことにもケチを付けている。

あと個人的に、この本で引用されているテキストが熊野純彦訳の『存在と時間』なのが少し残念でした。仲正氏はこの本でハイデガーのドイツ語の使い方にかなり配慮して論述をなさっているので、ドイツ語原典に忠実な和訳として定評のある原・渡邊訳の『存在と時間』をテキストにしたほうが良かったのではないかと思いました。

 この文面からすると、熊野訳はドイツ語原点に忠実ではなく、強引な意訳をしていると言っているように見えるが、何を基準にそう判断しているのか?レビュー全体を見る限り、friedrichは哲学の素人であり、『存在と時間』の原典を自分で読んで判断しているとは思えない。自分で読んで判断できるだけのドイツ語読解力があるのなら、「定評のある~」などと一見権威主義的に見える言い方などしないだろう。2ちゃんねる等で、熊野訳は分かりにくくて、昔の原・渡邊訳や細谷訳の方がいいと言っている奴がいるので、それをコピペしたのではないかと推測する――原・渡邊訳のどういいのか、friedrich自身の言葉で説明していないので、勝手に推測させてもらう。私に言わせれば、こんなのは、ドイツ語を読む能力も、哲学書をちゃんと読む能力もない人間の戯言である。
 『ハイデガー哲学入門』で述べたように、ハイデガーは、ドイツ語特有の言い回しを利用したかなり癖のある文体なので、どんなにうまく訳しても不自然な日本語にしかならない。何を捨てて、何を重視するか選択しなければならない。訳者によっていろんな癖が出て、それに対する読者の好みというのもあるが、研究者目線で重要なのは、その訳を見た瞬間、原文がどうなっているかすぐに思い浮かぶかどうかである。熊野訳は、私にとって最も原文のイメージが浮かんできやすい。かつ、キーワードに対する文献学的情報が充実しているので、言葉の背景を確認する検索がやりやすい。更に言えば、そもそも、『存在と時間』からの直接の引用は、全体としてさほどの分量ではないし、その多くの箇所で私は、元のドイツ語表現のニュアンスについて適宜解説を加えている。訳が、私の解釈と微妙に食い違っていれば、当然修正を加える。どの訳を使うかは実際のところ大して重要な問題ではないわけだが、ハイデガーの言葉遣い自体の異様さが際立つ訳の方が、都合がいい。その点で、熊野訳は、私の論述と、一番相性が良かった。岩波文庫なので、読者が入手しやすいだろうということも考慮した。
 最後に念のために言っておく、哲学を学ぶというのは、哲学者に関するトリビア的豆知識を記憶することではない。ハイデガーとアーレントの恋愛話を知って、哲学の本質を分かったような気になる奴は、哲学とは縁のない、ゲスな輩である。