ツイッター上の公/私

仲正昌樹
[第2回]
2013年11月6日

 今回は、前回の最後に予告しておいた、大手広告代理店のアイドル・オタクの社員の妄想によって受けた迷惑の話をしておこう。既に述べたように、この件の始まりは、八月のツイッター騒動のほとぼりが冷めてから数日経った頃である。
 大手広告代理店の傘下にあるアイドルプロデュース関係の子会社の執行役員を名乗るこの人物は、私が八月に明月堂書店から出した著作『〈ネ申〉の民主主義』のことをどこかで聞いたらしく、それと例のツイッター騒動を強引に結び付けて、かなり無茶苦茶なコメントをツイッター上でツブヤイた。こいつの認識では、例のツイッター騒動の原因は、私がこの本で、AKBをやり玉に挙げる形で、「アイドル」全般を批判しことにアイドル・オタクたちが腹を立てたことにあるようである。これは二重、三重にねじまがった事実誤認である。
 まず、例のツイッター騒動の原因は、「アイドル」とは全く無関係である。前回の繰り返しになるが、ツイッター騒動の発端は、拙著『カール・シュミット入門講義』に対して、法学部生で研究者志望だという匿名の人物が、ネット上で失礼なコメントをしたので、私が、こんな奴に研究者になられたら困る、という反撃コメントを明月堂ブログに書いたところ、この人物が逆切れしたことである。この人物が、自分が学部生であり弱者であると強調したため、“弱者の味方”を気取る連中が群がってきた。その中に、アイドル・オタクもいたかもしれないが、アイドルの話は全く関係ない。
 それに、『〈ネ申〉の民主主義』が一般書店の店頭に並んだのは、ツイッター騒ぎが起こった少し後である。原因になりようがない。しかも、この本の中で、私はアイドル批評も、アイドル批判もしていない。私がこの本で述べたのは、小林よしのり氏などの言論人が、AKBファンには公共性がある、という議論をしていることに対して、アイドル・ファンの振舞を安易に公共性と呼ぶのはおかしくないか、政治的公共性とは異なるだろう、ということである。AKB自体、あるいはそのファンの振る舞いの良しあしを論じたわけではない。まともな日本語読解力がある人間なら、それを、「アイドル批判」とは言わないだろう。件の広告代理店のアホは、この本に全然目を通していないか、完全な妄想による誤読をしたのかのいずれかである。
 このアホ曰く、「仲正はアイドル批判して、オタクに突っ込まれ、自爆した。AKBが嫌いなら、ももクロ見ればいいのに」。見当外れすぎて話にならない。
 その時は、単なる、不愉快な勘違い野郎としか思わなかったが、それから二か月くらいして、こいつの妄想が更に増幅する“事件”__本当は、事件というほどの話ではないが――が起こった。私が普段から親しくしていて、何度か一緒に仕事をしたことのある社会哲学研究者の清家竜介氏が、IT批評家の桐原永叔氏と共著で。有楽出版社から『ももクロ論』という本を出した。筋金入りのアイドル・オタクを自称するこの広告代理店のアホは、学者であり、職業的にアイドルとの直接の接点がないはずの清家氏が、アイドル批評に進出したのが気にいらなかったらしく、ツイッター上でネガティブなコメントをして、この本に対する批判を煽った。私は、清家氏のこの本の執筆に関して何か相談を受けたわけでも、推薦文を書いたわけでもないので、基本的に関係ないのだが、このアホは、先の私に関する妄想を思い出したらしく、仲正と清家をくっつけて罵倒し始めた。そうなると、もはや他人事ではない。
 大手広告代理店のアホ曰く、「最近、仲正といい清家といい、普段はまともな仕事をしている学者が、素人のくせにアイドル批判に手を出して、爆死している。本人たちは、それに全く気付いてないことが、哀れだ。アイドルとおしゃべりしたいという願望の表れだろうか。アイドルと一緒に仕事をしている宇野さんや濱野さんに対する嫉妬か」。
 清家氏のことは置くとして、少なくとも私に関しては、何重もの事実誤認による曲解である。それで、この人物が務めているという大手広告代理店の子会社に、貴社の執行役員を名乗る人物がこのような事実誤認に基づく誹謗中傷を拡散しているが、本当に貴社の社員ですか、という問い合わせのメールを送った。すると、数時間後に、ツイッター上から私の名前が付いた誹謗中傷コメントが消えた。実際にこの会社の社員だったことが、ほぼ明らかになった。
 本当ならそれで鉾を収めるつもりだったが、このアホは、該当コメントを削除した数分後、仲正という名前を出さないで、お仲間らしい目立ちたがりの男と、以下のようなやりとりをしている。

「ネットって怖いよ。キチガイっているもんだ」
「絡まれたのか。さらせよ~」
「ダメダメ、話が全然通じないキチガイ。体に言ってきかせないと分からないレベル!」

 あまりにもひどいし、幼稚なので、今度はその会社に電話して、これは犯罪の可能性があると言ってやった。すると翌朝、その子会社の社長から、件のアホが執行役員であることを認め、謝罪し、不適切コメントを削除させる旨のメールが来た。それで鉾を収めることにしたのだが、どうもこのアホは、少なくとも大手広告代理店への入社当初は、才能がある有望な新人として期待されていたようである。
 もともとおかしな人がツイッターで暴走するのか、ツイッターで好き勝手なことを言っている内に気が大きくなって暴走するのか、分からない。いずれにしても、ごく親しい人間との間の噂話で留めておくべきプライベートな会話を、公衆の目の届くように拡散させてしまうツイッターはとんでもない媒体である。
 件のアホは、同じアカウントで、仕事上の取引先とのやりとり(の記録)と、お気に入りのアイドルをめぐるオタク・トークを並行的にやっていたようである。SNSで趣味と仕事を兼ねた“コミュニケーション”を繰り広げるのが、最先端でかっこいいと思ったのかもしれない。しかし、趣味のオタク・トークの一環として、他人を――ちゃんと批判するのではなく――一方的に中傷誹謗するようなコメントをすることが、まともな商売につながるのだろうか?他人をキチガイ扱いして溜飲を下げるような輩と、取引する気になる企業があるとしたら、そこの経営者の面を見たいものである。
 こいつに限らず、最近の若者には、いろんな場面で様々な顔を使い分けているつもりで、第三者的に見ると、破たんしている奴が少なくないような気がする。ご当人は、公的な場面での品行方正な「私」と、ごく私的な場面での、わがままで他人を中傷誹謗しまくっている「私」を使い分けているつもりでも、他人の目から見れば、前者の振る舞いに、後者の兆候がはっきり現れていることがある。人間とは、もともとそういうものなのかもしれないが、ツイッターには、その矛盾を拡大し、可視化する性質があるように思える。
 ツイッター上で、相手によっていろんな自分を使い分けようとしても、それぞれのやりとりの痕跡がネット上に残ってしまう。いい子を演じていた相手が、自分のダメなところ、ダーティーな部分を、何かの機会に発見してしまうかもしれない。そういう当たり前のことがピンと来ていないくせに、ネット論客になりたがる輩が多すぎる。
 因みに、私(=仲正)自身も場面に応じていろんなキャラを演じているが、特定の相手に対して、自分のイヤな部分を隠そうとは思ってはいない。学会や研究会に出かけると、学者っぽく話をするようにしている。しかし、その一方で、この手の文章を書いていることを、他の学者に隠すつもりはない。隠さなければならないようなことは、書かないし、公の場で発言しないことにしている。