仲正昌樹(第4回)

バカの一つ覚え
 
 第一回にも話題にしたように、ネット上には、知識人や学者を執拗に攻撃し、「こんなので、○○大学教授をやっているなんて…」とツブヤき、溜飲を下げたつもりになっている輩がいる。そうやって罵倒することで、暗に、「こんな奴より、私の方がはるかに優秀だ。その優秀な私が評価されないのは、世の中間違っている!」、と言いたいわけである。
 自分が優秀だと証明したいのなら、ちゃんとした論文あるいは評論の形で、独創的な議論を展開し、(まともな知識人や編集者から)注目を集めることに力を注げばよさそうなものだが、それだけの自信がないのだろう。あるいは、既に試みて挫折したのかもしれない。それで、ある程度名前が知られている知識人の文章の粗を必死になって探し、“批判”もどきをすることに終始することになる。
 「粗を発見する」ことが大前提になっているので、とんでもない誤読をしがちである。しかし、本人は、まともな知的訓練を受けていないので、誤読だと思わない。というより、何が誤読なのかさえ分かっていない。だから無邪気に、自分の目から見て“学者の無知”のように見えるものを“発見”し、鬼の首を取ったような気分になれる。バカげた振る舞いなのだが、その手の“自称論客”をフォローし、“情報”交換しているのは、同じ様な人種なので、同じ様な早とちりで、すぐに“賛同”する。「こんなバカが学者をしているなんて…」というフレーズで共感し合う。それが、快感なのだろう。
 この手の人たちに一般的に見られる傾向として、「バカの一つ覚え」がある。自分が学校あるいは大学で、尊敬する先生に“教えてもらったこと”、あるいは、有名な学者が本で書いている文章から“感銘を受けたこと”を、金科玉条扱いする。無論、ほとんどの場合、“教えてもらったこと”あるいは“感銘受けたこと”は、本人の頭の中でかなり単純化され、歪曲されている。
 にもかかわらず、その単純化、歪曲された“金科玉条”を、“似非知識人”に対する批判に応用しようとする。例えば、尊敬する先生が、「文章を書くときは、自分の考えをはっきり述べないといけない。他人の考えをコピペしただけの文章は読むに値しない」と教えてくれたとする。「自分の考えをはっきり述べる」というのが、具体的にどういうことを指しているのかは、その先生がどういう種類の文章を念頭において発言したのか、文脈を特定しないと分からない。というより、ほとんど意味をなさない。「自分の考えをはっきり述べる」というフレーズ自体が、かなり言い古されている。
 しかし、バカにはそれが分からない。『○○哲学入門』という本を読んだ感想として、「この著者はひたすら過去の偉大な哲学者の言葉を紹介するだけで、自分の考えを述べようとしない。こんなのは、学者と呼ぶには値しないと、尊敬する△△先生もおっしゃっていた」、と平気でツブやく。入門書もしくは教科書を“読んだ後”――本当に“読んだ”と言えるほどの知的作業を行っているかどうかさえ怪しいが――で、そんなことをツブヤくのは全くもって見当外れなのだが、バカには、そういう当たり前のことさえ分からない。
 そもそも、入門書や教科書であっても、書き手自身の考えが全く反映されていないなどということはあり得ない。同じ主題について全く同じ事を述べているように見える文章でも、比べてみると、書き手ごとの癖、考え方の違い、場合によっては、学問観が見て取れることが少なくない。更に言えば、分かり切った話でも、書き方によっては、読者に新しい視点を与えてくれることがある。細部の違いに注目することが、大きな発見に繋がることもある。
 優秀な人間は、そういう発見をするものだが、バカにはそんな発見ができるわけがない。自分が、既に知っているようなことしか書かれていなかったら、「この著者は無能だ。こんなのは、私でも書ける」と即断する。では、本当に書けるのか、自分の言葉で説明できるのかというと、当然、無理である。「それだけ分かっているのなら、何がポイントなのか要約して説明して下さい」、と言われても、ほとんど何も答えられない。分かったつもりになっていただけである。
 ひょっとすると、やはりどこぞの偉い先生に、「分かり切ったことしか書けない奴は無能だ。読者がつまらないと思うのは、その著者に書く力量がないからだ」、と“教えて”もらったのかもしれない。そんなことをマジで言っているとしたら、その“偉い先生”自身相当のバカである。
 先ほどの教科書の話よりも、一見多少まともに見える「バカの一つの覚え」のありがちなパターンに、「○○の△△論は、既に□□の▽▽論によって論破され、完全に過去のものになっているはずだ。それを未だに言っている◎◎は全然ダメだ」、という言い方がある。多くの場合、その手のことを言うのは、論争している一方の陣営の誰かである。端から信用することはできない。バカは、その手の発言の孫引きの孫引きくらいのものを、どこかで仕入れてくる。そして、それが既定事実になっていると単純に思い込む。何故、その人の発言が学術的に信頼できるのか、と聴かれても、答えられない。多分、“信頼できる偉い先生”の発言なのだろう。その手の孫引きの孫引きの孫引きは、当然のことながら、かなり歪んで、単純化されている。
 私にとって多少馴染みのある分野だと、「ポストモダンの欺瞞性は、ソーカル事件によって完全に露呈され、ポストモダニストたちは完全に論破された」、という言い古された言い方がある。2ちゃんねるで、その手の書き込みをしつこくやっている奴がいる。その連中のほとんどは、ポストモダンのどういう欺瞞が暴露されたという話なのか分かっていないし、ソーカル事件がどういうものかも知らない。ましてや、そのソーカル事件なるものによって、ポストモダニストが廃業しなければならなくなる理由など、説明できるはずもない。説明できないくせに、真理を掴んだつもりになっていて、その言い分を認めない学者、知識人を廃人扱いするので、全然話にならない。
 高校の英語や世界史・日本史の授業で習う内容から哲学の専門的論争の内容に至るまで、様々なレベルでの「バカの一つ覚え」がある。ネット上のバカたちは、そうした自分の一つ覚えに基づいて、似非知識人を成敗したつもりになり、悦に入っている。

 極めて当たり前のことだが、文章にはいろんな解釈の仕方がある。文系の学者、知識人になろうと思えば、どういう種類の文章をどう読むべきかについて、基本的ルールがあることを理解し、そのルールを習得しなければならない。ただし、ルールブックのようなものに全て書いてあるわけではないので、実地で少しづつ学ぶしかない。大学の演習とか読書会のような場に出席し、その分野の常識を無視したとんでもない誤読をしたり、横道にそれたりしないよう、お互いに批判し合う必要がある――素人だけの“読者会”だと、バカの相乗効果が生じる恐れがある。“偉い先生の教え”(と自分が勝手に思い込んでいること)も、様々な角度から捉え直す必要がある。
 しかし、バカはそういう面倒くさい手続きが必要なことを分かろうとしない。だから、努力しない。一つ覚えしたバカのままである。

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哲学塾

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2012/11/10(土) 前編、2013/01/12(土) 後編

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主 催:rengoDMS - 連合設計社市谷建築事務所

協 賛:明月堂書店

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時 間 : 開場17:45 講義18:00-20:00

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