たけもとのぶひろ(第20回)

大東亜戦争か太平洋戦争か?――19世紀末葉にすでに始まっていた日米戦争

 林房雄は『肯定論』第一章「東亜百年戦争」の冒頭に近い部分で、「大東亜戦争(太平洋戦争)は百年戦争の終曲(フィナーレ)であった」と自説を述べている。
日本および日本人は、百年というまとまった時間を投じて、「東亜百年戦争」という名の一つの戦争を戦ってきた。そう考えることによって日本人は、自分たちの歴史を自らに得心させることができるのではないか。その予感のもとに彼は、「東亜百年戦争」という概念を提起したのだと思う。そういう予感というか啓示というか、その種のものに導かれつつ、彼は大著『肯定論』の執筆に挑戦していったのだと察せられる。
 「百年戦争の終曲(フィナーレ)」としての「大東亜戦争(太平洋戦争)」とは何であったのか。この問いを、林房雄とともに考えていきたい。

 百年戦争の前半部分は、彼に拠りながらのちに詳しく見る。あえて後半から始めたい。普通の歴史教科書のように、年代順に叙述していくよりも、この方が、歴史をひもとく彼の方法論にふさわしいかな、との思いがあるからだ(注1)。
 常識からすると、日中戦争と太平洋戦争と、二つの戦争があり、前者から後者へ重点が移り、後者の太平洋戦争で決着がついたことになっている。しかし、彼の歴史観から見ると、戦われたのは二つの戦争ではない。「大東亜戦争(太平洋戦争)」という一つの戦争が戦われたのだ。それも、19世紀の末葉から、つまり、日清・日露あたりから、それ以降半世紀にわたって戦われた。これが、歴史の事実でなければならない。日本が大東亜戦争として戦った(戦わざるをえなかった)、その同じ戦争を、アメリカは、おのれらの世界戦略のなかに位置づけ、かつ利用し、太平洋戦争として戦ったのであった。だから、「大東亜戦争(太平洋戦争)」という表記自体が、林房雄の歴史観を物語っていると言えよう。

 林は当時のアメリカについて、朝日新聞社『太平洋戦争への道』第1巻第1章第2節の中の一文を引いている。
「19世紀の末葉、日清戦争に敗れた清国の弱体化をみてとった欧州列強は、清国に利権を強要して、おのおのその勢力範囲を固めた。このころ、太平洋をへだてたアメリカは、1898年の米西戦争を境として、モンロー主義からいわゆる帝国主義に転換した。この戦勝によって、米国はカリブ海の支配権をにぎるとともに、一躍して太平洋の強国となり、中国市場に積極的に進出を企てるようになった。こうしてアメリカは、両洋にわたる権益を擁護するために海軍の大拡張を進めた。」
 同じ趣旨であるが、また自身の筆によっても、次のように述べている。
 「モンロー主義を放棄したアメリカは、米西戦争に勝って新大陸を制覇し、西インド諸島とメキシコを属領化し、日本を『開国』させ、フィリピンを奪い、ハワイを併せ、『白き太平洋(ホワイト・パシフィック)』を主張して、シナ大陸を狙い、日露戦争以後はシナに至る最も有害な障壁が日本列島であることを確認した。」
 ここに述べられているなかから、世紀転換期以降のアメリカの世界戦略を指し示す特徴として、次の4点に注目してほしい。4点とは、
① モンロー主義からいわゆる帝国主義への転換、
②「白き太平洋(ホワイト・パシフィック)」の主張(=太平洋を “白人の海”
 に!)、
③ ターゲットはシナ大陸・中国市場、
④ 日露戦争以後はシナに至る最も有害な障壁が日本列島となったことの確認、で
 ある。

 ④は、アメリカが「日露戦争以後」の世界戦略を描くうえで、その日本認識を大きく転換させたことを示唆している。この点については、先に引用した、朝日新聞社『太平洋戦争への道』第1巻が、ルーズベルト米国大統領の1905(明治38)年8月29日付書簡を挙げて、ほとんど “物証” に近い扱いで言及しているという。
 曰く。
 「日米関係は日露戦争をさかいに一変した。すでに1905年(明治38年)8月29日、ルーズベルトの書簡は、『余は従来日本びいきであったが、講和会議開催以来、日本びいきではなくなった』と書いている」と。
 年表によると、1905年6月9日、ルーズベルト大統領は日露講和を勧告。同年8月10日、ポーツマスにて日露講和会議開催。9月5日、日露講和条約ポーツマスにて調印。とある。したがって、8月29日付の問題の書簡は、ルーズベルト大統領の斡旋で・日本とロシア帝国の全権委員が・米国東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所に会して・講和会議を開いている間に、大統領自身が書いていたことになる。
 この点を取りあげて、わが林房雄は、『大東亜戦争肯定論』(前篇)の最終章において、こう述べている。
 「さて、この章で、私の『大東亜戦争肯定論』はその前篇を終り、次章からは『東亜百年戦争』の終曲としての『太平洋戦争』の研究にとりかかるつもりであるが、その前に、一言だけ申し上げておきたいことがある。 それは、日露戦争が日清戦争直後の『三国干渉』によって<事実上開始された>のと同じく、<太平洋戦争は日露戦争のポーツマス講和会議の直後に始まった>ということである。
これは多くの読者の耳には、時間と事件の順序を無視し、歴史の常識をはずれた独断または詭弁に聞こえるかもしれない。」(<>は傍点)

 この引用文の最後の二行について、どうして「日露戦争・ポーツマス講和会議」と「太平洋戦争」とが結びつくのか、にわかには納得してもらえないであろうことを承知している彼は、別のところで、さらに補って再論している。
 「日清・日露の両役が『一つの戦争』であったことを論証することは容易であるが、太平洋戦争がそれと直結することを証明するのはむずかしい」。しかし、「それは戦後の歴史家の多くが東京裁判の検察官にならって、満州事変あたりから筆を起こして、日韓併合と台湾領有を回顧し、やがて日支事変に至り、日本の『帝国主義的野望』と軍部の『暴走』と右翼の『陰謀』がついに『太平洋戦争』をひきおこしたという方式による書き方をした(からだ)。その方式が読者の頭にしみこんでいるので、歴史の断絶が生じ、当然結びつくべきものが結びつかなくなってしまったからである。朝日新聞社『太平洋戦争への道』全八巻の客観的記述は、この歴史の断絶または逆説を訂正してくれる点がはなはだ多い」と。

 当然結びつけて考えなければいけない因果関係が意図的に切り離されたのは、敗戦後の日本がGHQの支配下にあったからであろう。しかし、アメリカにおける戦争の因果関係は、事実あるがままに、嘘も隠しもなく、露になっている。

 これも朝日新聞社『太平洋戦争への道』に拠るのだが、新帝国主義政策の理論的指導者・マハン提督は、カリブ海およびアジアの未開拓の市場が提供する果実をかりとるためには、“海洋を支配するに足る強力な艦隊” が必要であると論じているという(マハン『海上権力史論』1890年)。また、くだんのルーズベルトも “いかなる平和も戦争の至高の勝利ほどには偉大でない”と吠えていたという。
 新世紀を跨ぐあたりからのアメリカは、新参の帝国主義国として世界に覇を唱えんと野望をむき出しにし、戦争を渇望し、生贄の血に飢えていたのだ。ここにこそ太平洋戦争の原因がある。太平洋戦争へ至る過程では様々な政治的駆け引きがあったし、多くの軍事的衝突があった。しかし、それらはすでに始まっていた太平洋戦争という原因があったからこそ、その、言わば “歴史の底流” から産み落とされた結果であらねばならない。様々な政治的駆け引きや軍事的衝突があって、その結果、なりゆきで太平洋戦争になだれ込んだのではない。太平洋戦争はアメリカの世界戦略として、目的意識的に、断固たる政治的軍事的意図のもとに、開始されているのであって、そこにこそ太平洋戦争の主たる原因があると考えなければなるまい。

 以上に述べたのは、林房雄の主張である。ぼくなりの言葉で咀嚼しただけだ。彼自身の文章で、彼の言説を再確認してほしい。
 彼はこう書いている。
 「これ(=マハンやルーズベルトのアメリカ帝国主義の “雄叫び”)は19世紀末から20世紀初頭にかけてのアメリカの<精神状態>であり、日清戦争も日露戦争も、このような『国際環境』の中で戦われたことを見落としてはならない。
 先に引用したルーズベルト大統領の書簡はこのような精神状態と国際環境の中で書かれたものである。日米冷戦は明治38年8月29日にはじまった。その後の米国の対日政策、中国門戸開放要求、度重なる軍縮会議、日本陸海軍力の強制的制限、幣原外交の苦悶と混迷、軍部の抵抗、右翼の活動、日本防衛の方法としての『自衛線』『生命線』の強引外な設定としての満州事変と日支事変――すべてこれらは太平洋戦争の<原因>ではなく、日露戦争の終結と同時に<事実上>開始された日米戦争の<結果>であったのだ。日本の「帝国主義的侵略説」を強調するマルクス主義者と進歩人学者諸氏の所論には、この<原因と結果>の明らかな転倒がある。」(<>は傍点)

 林は「日露戦争の終結と同時に<事実上>開始された日米戦争」と書いている。これは、ルーズベルト大統領の例の書簡の内容とも一致する。その書簡で彼は、自分が日本びいきから日本びいきで<なくなった>のは、ポーツマス講和会議開催以来だともらしている。しかし彼のこの言は、にわかには信じがたい。
なぜなら、彼こそが、講和会議を取り仕切り、日露の間を仲介し、両国の利害を調整し、講和条約をその成立にまで持ちこんだ “立役者” であるばかりか、翌06年にはその功績が認められ、ノーベル平和賞を授与されているからである。大統領としても個人としても、ルーズベルトにとって講和会議は善き思い出として、プラスのイメージで彩られているはずである。
 日本びいきでなくなる? あの、親日家として知られるルーズベルトが? 講和のテーブルを挟んで日本と露国が対峙したとき、彼の本心はどちらの方を向いていたのか? 親日家のルーズベルトは、戦争突入以来、公式の対日外交ルートを通して、「いつでも日本のために仲介の労をとる」と言明していたというし、ロシアに対しては開戦当初から「日本はアメリカのために戦っている」とまで言い切って日本の肩を持ち、ロシアに警告を発していたというのだが。
 しかし、彼のこのスタンスがそのまま会議に反映されたわけではなかった。どの国にとっても外交とは国益の最大化を追求する場である以上、アメリカの大統領はアメリカの利益を最大化させるチャンス、そのタイミングを見計らって、講和会議を呼びかける必要があった。アメリカにとって絶好のタイミングとは、とりも直さず日露両国がともに必ずしも有利でない状況に逢着しているときのはずだ。そのタイミングを狙うことができればアメリカは、日本とロシアの両国に損害だけを与えて、勝利は与えず、両国を痛み分けに処することができるはずであった。つまり、アメリカ一国が「漁父の利」を手中にすることができるのであった。にもかかわらず、ルーズベルトはそれを狙わなかったのだろうか。ありえない。彼が狙っていたのは、まさしくその「漁父の利」だったのだから。

 国内に革命運動を抱えた状態のロシアは、それを抑圧して帝政ロシアを死守しなければならなかった。そのために、アジア東方における戦争の継続が日に日に困難になっていた。情勢は有利でなく、講和の呼びかけは “渡りに船” であったにちがいない。
 またわが日本は、と言うと、1904年の2月10日に宣戦を布告したものの、それは、すべての戦力において敵国ロシアよりも劣勢であることは百も承知の上での宣戦布告であった。戦争指導者たちはだれしも、自分たちの戦力が1年以上もつとは考えていなかった。したがって、そもそもの初めから、ロシア相手の戦争というものについての考え方が、先制攻撃をしかけ、一気呵成に攻めあげて戦況を有利に展開し、その優勢をなんとか持ち堪えているあいだに、仲介国(アメリカ)に割って入ってもらって勝ちを拾う、という程度のものであったのかもしれない。こう書くと情けないが、どこかそういう他力本願的な甘さがあったのではないか(注2)。
 たまたま緒戦の連戦連勝が幸いして優勢に立てたけれども、1年半もすると、日本軍はやはり武器弾薬の補給が途絶えて、先の見通しが立たなくなった。それまでに日本は180万人の将兵を投入して、うち20万人の死傷者を出し、しかも戦費として投じた20億円も外国から金を借りてようやく賄ったという。これでは、いくらなんでももたない。そこへ05年6月9日、タオルが投げこまれた。ルーズベルトの日露講和勧告である。その後は、既述のように、講和会議、講和条約調印と続いたのであった。

 さて、アメリカである。彼らは「漁父の利」を手中にしたであろうか。既に述べたようにアメリカは、独自の世界戦略「ホワイト・パシフィック」をかかげて、シナ大陸への権益介入を狙っていたのであって、この国益追求のためには、日本にせよロシアにせよ、どちらかが圧倒的に勝利することは大いに迷惑であり、それの回避は、是が非でも成し遂げなければならない至上の命令であった。そこで、まずは日本に恩を売ることによって、日本を手駒として手元に引き寄せ、日本をアメリカのために戦わせ(ルーズベルトは口に出して事実そう言っている)、ロシアが満州・蒙古・シベリア・沿海州・朝鮮をうかがう、その出端を挫いておきたい、そう思ったにちがいない。ルーズベルトの “日本びいき“ は、そのときに使った ”策” というか、 “言葉のあや”以上のものではなかったのではないか。おそらくルーズベルトとしては、日本が“使える”あいだは、別に本心を明かさず “日本びいき”を売りこんでいたが、日本が役目を果たしてくれた今となっては、もはやお役御免にしてよい、いつまでも “日本びいき”などと心にもないことを言って、サービスする必要はない。それが本当のところだったと思われる。

 日露戦争に勝利したのは、戦争当事国の日本でもロシアでもなく、実は仲介国のアメリカだったのだ。実際、ポーツマス日露講和会議のあと、アメリカは極東・シナ大陸への発言権を高め、関与を強めていったのであり、かくしてアメリカは「アメリカの世紀」への歴史的第一歩を踏み出すことに成功したのであった。

 他方、痛み分けを甘受せざるをえなかったロシアと日本のその後は、どうなったか。
 前者を襲ったのは、帝国ロシアそのものの崩壊であり、ロシア革命の激震であった。また後者は、条約調印直後、「日比谷焼打事件」に襲われ、政府は「東京戒厳令」を敷いて事態の沈静化にあたらざるをえなかった。これはまさに、「国民統合の破綻」を白日の下にさらけだしたことを意味した。
 アメリカは、ロシアと日本を戦わせただけでなく、ロシアの中に、日本の中に、裂け目を入れ、争いの種をまいた。そのようにしてまかれた種が芽を出し、実を実らせる。が、その種の実が宿すのは、またしても争いの種なのではないか。分ければ、争う。分けて、争わせる。争いが生まれるところには、その争いを治める必要が生まれる。
 大昔から支配者が使ってきた知恵というのは、分けて、争わせて、治めること。結局は、「分割して統治せよ」の一点に尽きるのではないだろうか。そういう思いがしきりとするのであった。
 Divide & Rule――その術を熟知した奴、戦争を仕掛ける奴、そういう奴が、ノーベル平和賞を受賞し、世界の絶賛を浴びる。こういう逆説が罷り通るのが、世界政治の現実なのであろう。

(注1)歴史認識の方法論について
 結果から逆算して過去にその原因・原点・起点を求め、そこから、つまりその原因・原点・起点から、諸事実をつなぎ、あるいは並べていって、現在の結果・結論・帰結へと帰ってくる、その全体を歴史として受けとめる――ということで、よいのだろうか。
 林房雄は次のように述べている。
 「歴史を結果から逆算してはいけないというが、私は歴史はすべて結果からの逆算であると思っている。『歴史家は後向きの予言者だ』と言われている。過ぎ去ったことしかわからぬ。進行中のこともわからぬ。わかったような顔をすれば、『未来図』または『ヴィジョン』という形而上学になってしまう。形而上学には形而上学のおもしろさがあり、価値と効用があることを私も知っているつもりだが、歴史を考える時は、『前向きの予言者』になりたがることは、できるだけつつしんだ方がいい。」

(注2)ぼくら日本人の、というふうに一般化して書いてよいのかどうか、半ば躊躇いを覚えながら書くのだが、ぼくらの余り好ましくない傾向として、十分に備えがないのに、そのまま突出してしまって、その後のことはやってみないとわからない、それでええやないか、みたいなところがあるのではないか。あるいは、状況に迫られると、自分たちがその状況に応えられるか否かの吟味もそこそこにして、すぐに見切り発車してしまうから、自分をふりかえることが得意でない、そういう向きがありはしないか。それは、単に流されているだけかもしれないし、単なる無責任に過ぎないのかもしれないし、単なる他力本願の甘さから来ているだけかもしれないというのに。
 かの戦争の敗北、これは過去。先の原発事故の悲惨、これは現在。過去と現在の、この二つの悲劇に対して、ぼくらはどのように向かっていけばよいのであろうか。現在から出発して過去を問う営みの中に、きっと現在を解く鍵が隠されているにちがいない。それを信じて進んでいきたい。

(注3)林房雄は、ぼくが(注2)の第2パラグラフに記したのと同様の思いを吐露している。こういうふうに思いのままに自分を開示できるところは、彼の性格の美質だと思う。一見 “無茶苦茶な無頼の徒” と思われかねないように自分を演出しておきながら、本当はいつまで経っても純なところがあるのだから、憎めない。そういう文章を二つ、挙げておきたい。
①「あの『不可解で不条理な戦争』を自己自身の歴史としてとらえ、自身の目で
 再照明したい。(中略)『大東亜戦争』の再考察、日本人自身の目による再照明
 は、日本人の一人一人がこれを行なわなければならぬ時が来ていると、私は考
 える。結論は人によって異なるであろうが、考えはじめることが肝要なのだ。」
②「私は歴史家を名乗る資格はなく、その他あらゆる意味で学者でないことを知っている。が、日本国民の一人として言いたいことを持っている。ただの<もやもや>にすぎないかもしれぬが、吐き出したいものが胸にたまっている。それで歴史家のまねをさせていただいているわけであるが、すでに『大東亜戦争』は歴史としてふりかえることのできる時が来ていると思う。」(<>は傍点)

 それにしても、「歴史家のまねをさせていただいている」とは、畏れ入るなぁ。この伝でいけば、ぼくなんぞは、まねのまねをさせていただけるかどうか、それさえもあやしいのであります。