たけもとのぶひろ(第19回)

(続)林房雄とはどういう人か?

三島由紀夫『林房雄論』

三島由紀夫『林房雄論』


 前回は、戦争へまっしぐら、までの林房雄を中心に紹介した。記述の情報を整理して年代順に並べると以下のとおりになる。
 昭和7年(1932年)  転向、豊多摩刑務所を出所
 昭和10年(1935年) 静岡刑務所を出所
 昭和11年(1936年) 二・二六事件
 昭和12年(1937年) 「新日本文化の会」結成に参加
 昭和14年(1939年) 『西郷隆盛』発表開始
 昭和15年(1940年) 「大東塾」の客員になる
 昭和16年(1941年) 論文「転向について」を発表 第二次世界大戦開戦
 昭和17年(1942年) 論文「勤皇の心」を発表
 昭和18年(1943年) 満州・中国を視察
 このあとは言わずと知れた「敗戦」を迎える。昭和20年(1945年)8月15日である。

 今回は、日本が戦争に敗れたその日その時の林房雄、GHQ支配下で「検閲と追放」を食らいながらも例によって何とかしのいでいた頃の林房雄、さらには追放から追放解除前後頃までの林房雄など、戦後しばらくの間の彼について、どんな様子であったか、書いてゆきたい。その際ぼくが依拠する文献は、二つ。一つは、彼が言うところの、「敗戦直後二年間にわずかに書き得た評論と随筆の類い」をまとめて『日本よ美しくあれ』とタイトリングした小冊子(この本はついに店頭には出なかったという。以下『日本よ』と略称)であり、いま一つは『肯定論』のなかの「第十九章 敗戦痴呆症と戦う――自分なりの抵抗」である。

 敗戦の年・1945年の冒頭に書いた文章がある。それに触れるかたちで、『肯定論』の林房雄はこう書いている。
 「この年の正月に、私は『神機到るの年』という随想を東京新聞に書いている。その切り抜きは持っていないが、敵の反攻が本格化した年であるから、これを敗北の兆しと見ず、最後の勝利に転ずる神機と見よ、という元気な文章であったにちがいない。これも空威張りだとは自分では思っていなかった。私は『アジア解放のための聖戦』を信じていたのだ」と。日本人が戦っているのは「アジア解放のための聖戦」である、と彼は書いている。
 そこで『新明解』を調べてみる。「聖戦」とは「神聖な目的のためにする(と称して戦う)戦争」とある。そうだとすると、日本および日本人は “アジアの解放という神聖な目的”のために、その“大義”のために戦い、喜んで死んできたのだし、これからもまだまだ喜んで死んでゆくのであり、ますます死んでゆかねばならない、ということになる。
 彼は、その “大義”を「信じていたのだ」と過去形で書いている。なぜ過去形で書いたのであろうか? ついつい筆がすべったのか。『肯定論』を書いている「いま」となっては「信じていない」。しかし、だからといって、いまは「信じていないのだ」と、あからさまに書くほどの度胸はない。そうだ! かつては「信じていたのだ」と書くことで暗に、いまは「信じていないのだ」ということを示唆したのではないだろうか。
 窮すれば通じるとはよく言ったものだ。彼にしてみれば、結果論ではあるが、たまたま、通り抜けることのできる恰好の道を見つけたようなものだと思われる。

 上記の引用文は、昭和20年正月の随想(東京新聞)に言及した文章である。この文章の8ヵ月あとに日本は敗戦を迎える。それからさらに2年ほど経った頃、林房雄は敗戦の日の天皇の言葉を取り上げ、それについて感想を述べている。『日本よ』の中から『肯定論』に再録したという “感想文“ をいくつか紹介する。
 その前にやはり、かの有名な「堪ヘガタキヲ堪ヘ」のフレーズを含む天皇の言葉そのものを紹介しておかねばなるまい。
 先ずは天皇の言葉である。
「尚交戦ヲ継続センカ、終ニ我ガ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラズ、延テ人類ノ文明ヲモ破却スベシ、カクノ如クンバ、朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ、皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ。……堪ヘガタキヲ堪ヘ、忍ビガタキヲ忍ビ、以テ万世ノタメニ太平ヲ開カント欲ス」
 この三行をしげしげと見入るようにして読んだのは、恥ずかしながら、実は今回がはじめてである。そして、なるほどなぁと得心がいった。今までずーっと不審に思っていた。戦争に敗けたのだから敗戦というべきところを、どうして戦争が終わった、終戦だと、まるで他人事のように言うのか、と。
 天皇の「御詔勅」「玉音」は、「戦争が始まった(開戦)→互いに戦いを交えた(交戦)→そしていま交戦の継続を停止して戦いを終える(終戦)」という、事柄の顛末、成り行きを述べているだけであって、それ以上でも以下でもない。どこの国が勝って、どこの国が敗れた、というような話は関知しない、という立場である。
 敗戦という事実、敗北という事実については、公式の文言をもって認めることはしない。本当は認めたくないから、認めようとしないだけなのだろうが、とにかく認めない。したがって、8月15日は終戦記念日であって、敗戦記念日ではない。
 敵国に敗れたから戦いをやめると言うのなら、ごくごくわかりやすいのだが、敗れていないというのなら、どうして戦争をやめるのか、その理由(わけ)を説明する必要がでてくる。どのように説明しているのであろうか? 「朕」としては、これ以上交戦を継続すると、「我が民族」「億兆の赤子」「皇祖皇宗の神霊」「人類の文明」「万世(よろずよ)」のためにならない、それらの名分を立て、そのために戦争を終りにして、太平の世にするのだ、という具合のようだ。
 まぁ、しかし、いさぎよくないなぁ! 往生際が悪いというか、見苦しいというか、こういうのって恰好悪いだろうが! ほんまに、もうちょっとなんとかならないのか!

 上記の天皇の言葉を玉音放送で聞いたときの林房雄の感想は、どういうものであったのか。いろいろある中で三つを挙げておく。
①「御詔勅によって、私共は助けられたのである。陛下は「億兆ノ赤子ヲ保シ」 と
 仰せられた。私共は陛下の赤子の一人として、死すべき命を助けていただいた
 ばかりでなく、これから生きて行く上の魂の拠りどころを示していただいたの
 である。」
 よくもまぁ、こんなことが書けるなぁ! 節操を疑うなぁ、もう! 大義のために「喜んで死ぬ」ことになっていたのではないのか? それなのに、「私共は助けられた」「死すべき命を助けていただいた」「これから生きて行く」だって? ただ、彼の場合、そもそものはじめから死ぬ気などなかったのだろうから、「助けられた」も「助けていただいた」もないはずなのだが。それなのに、ついついこんなふうな言葉が出てきてしまうところが、彼の悲しいところではないだろうか。
②「陛下の御口を通して承ると、あのむずかしい文字と語法にみちた詔勅文章が、
 あたかも日常会話のように平易に明瞭に、まっすぐに、何の注釈の必要もなく、
 私の胸をたたき、心にしみこんだ。拝聴している間に、私の心の雲は晴れ、絶
 望の底から新しい力の泉が湧き、今日この瞬間から、いかなる苦難にも堪えて
 生きぬいてみせるぞという自信がみなぎって来た。/ 陛下がお示し下さった我
 が日本民族の進むべき道は、苦難にみちているが、公明であり、正大である。
 俯仰して天地に恥じるところなき、美と愛と平和への大道である。」
 生きぬいてみせるぞ、かぁ? このフレーズの前後左右にあふれているのは、美辞麗句の山だからなぁ! 俯しても仰いでも天地に恥じることがないのかぁ! 美と愛と平和への大道かぁ! 言葉だけだから、何とでも言えるわなぁ!
③「(陛下の御詔勅は)凡俗の意地と体面にとらえられた人間にはできない、無私
 以上の無私、勇気以上の勇気の持ち主にして始めてできる至難の業である。天
 皇の大御位・大御心の中に結晶した我が民族の理性と英知の発露である。ここ
 にはいかなる哲学にもまさる哲学がある。洞見と諦観がある。我が民族が絶対
 に誤りなき道を歩いたとは言わぬ。だが、その過誤の道を破滅まで歩き通させ
 なかった英知の実在を喜ばねばならぬ。日本は戦いに破れたが、大御心の広大
 さによって、今再び世界に伍することができるのである。」
 このように彼は、天皇について、これ以上は誉められないというほど誉めちぎった文章をこれでもかこれでもかと言わんばかりに書き連ねているものだから、読む方はどうしてもそれに気を取られてしまう。その間に彼は、巧妙にも、決して見逃すわけにはいかないセンテンスを二つまぎれ込ませているのである。一つは「我が民族が絶対に誤りなき道を歩いたとは言わぬ」である。いま一つは「その過誤の道を破滅まで歩き通させなかった英知の実在を喜ばねばならぬ」である。

 前者は、なんとか具合の悪いことを隠して言い繕っているのが見え見えだ。 “我が民族が歩いてきた道が絶対に誤りがなかったとは言わない”と書いているのは、もっと分かりいいように、はっきりと書けば、 “自分たちがすべて正しかったとは言わない” “正しくないこともしてきた” ということだ。
 しかし、戦争に敗れるまでは、「アジア解放のための聖戦」であるとか、「そのために喜んで死ぬことのできる大義」があるのだ、などと大見栄を切って、絶対の正しさをうたいあげていたではないか。しかし事態がここに至ったのでは致し方ない。本当は正しくないこともしてきた、誤りも犯してきた、と認めざるをえないということだ。極めて歯切れが悪い。
 後者は、誤った道をとことんまで歩いていかず、途中で思いとどまったのはよかった、正しかった、まさに英知だ、と言っている。これはおそらく、「本土決戦」か「無条件降伏」かを決断すべき御前会議の評決が最終的に3対3と割れ、決着がつかなかったとき、天皇が「無条件降伏」を決断したと聞く、そのことを指しているのではないか。
 敗戦前夜の状況はたしかに最悪だった。米軍が沖縄本島に上陸し19万人の死者を出した(1945.4.1)。にもかかわらず、それでもなお最高戦争指導者会議は「本土決戦」の方針を変えなかった(同年6.6)。
 一方、米軍は8月に入って、広島、長崎と、続けて原子爆弾を投下した。その、たった二発の爆弾が、一瞬のうちに、何十万もの無辜の人民の命を奪った。その後である、日本(天皇)がようやく肚を括ることができたのは。それをしも「英知の実在」と言ってよいのかどうか。

 玉音放送のあと半年近いあいだを、林房雄はどのように生きていたのであろうか。その頃の自分を振り返って書いているのが、以下の文章である。
 「私は大詔に従って生きようと決心したが、すでに気力はつきはてていた。ずっと病床にあって防空壕に入ることもきらった母は、敗戦のちょうど一ヵ月目に死んだ。霊前にそなえることのできたのは、妻がどこかからやっと手に入れてきた卵二個と畑のカボチャだけであった。
 「おまえの人生もこれで終わった!」と私は何度も自分に言いきかせた。なぜだかわからない。ただ生きているということが不思議であり、「<人生>は終わったぞ」という内心の声から耳をふさぐことができなかった。
 それは自分なりの抵抗の萌芽であったかもしれぬ。八月の末に「尊攘義軍」の人々が愛宕山上で自決し、私が戦争中客員として関係をもっていた大東塾の諸君も代々木原頭で割腹した。その後も、民間人と軍人の自決の報が数多く私の耳に入って来たが、私には自決する気力もなかった。そのような立場にもおかれていなかった。「大詔に従うのだ」という自己弁明もあった。
 私にできたことは、ただ意地をはることだけであった。この谷の隠者になろう、最後まで占領軍の姿を見ず、隠遁者として死のう――それだけが私の意地であり、対策であった。つまり何も対策がなかったのだとも言える。
 【八月三十日にマッカーサー元帥が厚木に進駐、九月二日、ミズリー艦上で降伏文書調印、<GHQ設置>、十月十日、<日本共産党員の釈放>。翌年正月元旦、天皇の「人間宣言」。】――占領後の日本は次第に物情騒然となって来たが、私は茫然と谷間の奥でその騒音と雑音を聞き流していた形であった。」(<>は傍点)

(但し)【】内の<>の部分について、林は勘違いしている。急いでこの場で訂正し、関連事項を加えて以下に示す。
 8月28日 占領軍第1陣上陸、連合国総司令部(GHQ)を横浜に設置
 8月30日 マッカーサー元帥が厚木に進駐
 9月2日 ミズリー号艦上で降伏文書調印
 9月15日 GHQ、日比谷第一生命相互ビルを本部として使用開始
 10月10日 政治犯3000人釈放、徳田球一・志賀義雄 “人民に訴う” を声明
 翌年正月元旦 天皇の「人間宣言」

 玉音放送(御詔勅)のすぐあとの自分について、あまり飾ることも隠すこともなく、あるがままを叙述しているのだな、というのが率直な感想だ。例えば、こんなところか。
 戦争には負けるし、母親には死なれるし、ええことない。玉音放送を聞いたばかりのときは、前にも書いたように、「いかなる苦難にも堪えて生きぬいてみせるぞ」と自信満々だったが、今はなんとか生きてはいるのがやっとかもしれない。人として生きるに値する生を生きているとは、とてもやないが思えない。だいいち、「生きる気力」が湧いてこない。生きる気力がないくらいだから、ましてや「死ぬ気力」などあるわけがない。大義に殉じて自決・割腹した右翼の「諸君」の報は耳に入るが、自分は死ねない。天皇陛下も「生きよ」と言ってくれているし。生きのびても許してもらえるのではないか。 等々。
 ここまでは彼の心の軌跡をたどることができる。
 しかし、「<人生>は終わったぞ」という内心の声」が、どうして、「自分なりの抵抗の萌芽」などという、かっこ良いものになるのか理解に苦しむ。
 また彼は、自決するような「立場にもおかれていなかった」と書いているが、これも違うと思う。彼は自他に向って、大義のために喜んで死ぬのだ、と説いていたのだから。
 しかし、いざとなったらそれができない。尊攘義軍や大東塾など右翼の「諸君」は死んでいっているのに、自称「文壇右翼」・大東塾客員の自分にはそれができない。「私にできたことは、ただ意地をはることだけであった。」意地とは何か。「最後まで占領軍の姿を見ず、隠遁者として死ぬ」ことだという。これではもう、世の中の「騒音と雑音を聞き流し」、文字どおり流れに身をまかせて流されていくしかないかったのではないか、と察せられる。

 つまらない意地だなぁ、と思う。もうちょっと、何とかならんのか、と思う。が、それでもまだしも、その妙な意地を貫いてくれば、ヘンな意地を張りやがって、と笑うこともできる。ところが、上記の文章のすぐあとをつづけて読むと、余りのいい加減さに、なんだこれは! となってしまう。ただただ、開いた口がふさがらない。「意地」だの何だのと言った、その舌の根も渇かないうちに、以下のごとく書いている。
 「ただ、すこし予想にたがったのは『一生占領軍の顔は見ない』という意地が簡単にくずれ去ったことだ。私の方からは近づかなかったが、アメリカ兵が私に近づいて来た。私の谷間に百五十人の海軍部隊がいたことを知ったアメリカ軍は、この谷を軍事的重要地点と誤解し、十個以上もある石切場あとの洞窟にまだ武器がかくされているという誰かの『密告』を信じたらしく、私の家のすぐ下の崖のかげにバラックを建て、MPを常駐させた。
 ピストルをさげた中尉がいきなり私の家におしかけて来て、私の職業と居住経歴をたずね、この谷には十五年近く住んでいると答えたら、山の洞窟を全部案内しろと言った。武器は何も残っていないはずだと答えたが、承知しなかった。私は二日がかりで谷間の洞窟を全部案内した。果して何も出て来なかったが、中尉は『御苦労であった。二日分の日当はいくら要求するか』とたずねた。『そんなものはいらぬ』と答えたら、しばらくふしぎそうな顔をしていたが、『おまえは正直で誇りをもった日本人らしい』と言い、握手をして帰って行った。」

 ほどなくして米軍は彼の家の崖下にMPポースト(屯所)を作り、米兵が昼夜三交代で二人ずつつめるようになった。米兵たちは退屈すると用もないのに彼をよび出しに来る。林はポーストまでのこのこ追いていって、缶ビールとレーション(軍用携帯食)にありつき、ポーカーの相手をし、「フジサワのオジョロ」のエロ話で盛りあがっている。
 よくもまぁ、こういう恥知らずなことができるものよ! 「アジア解放のための聖戦」が聞いて呆れる。「俯仰して天地に恥じるところなき、美と愛と平和への大道」なんて、いったいどこにあるのか?
 無茶苦茶な振る舞いは、まだまだ続く。敗戦から二、三年たった、おそらく1947年か48年ごろの、ぼくがまだ小学校にあがったばかりで、みんな食うや食わずだったころに、彼はだれにはばかるところもなく人生を謳歌し、全開させていたのであった。曰く。
 「私は江戸っ子でもないくせに宵越しの金というやつが肌に合わぬ。年も四十になったばかりだし、何とかして残金を一晩でぱっと消してしまう方法はないものかなどと相談しているうちにクリスマスが近づいて来た。そこで思いついて、わが谷間のMP屯所の「トモダチ」諸君に緊急動員令を発することとした」(抜き書き)。「私のアメリカ軍に対する秘密動員令はきわめて有効に作用した。たちまち砂糖、肉類、カンヅメ、コーヒー、紅茶、メリケン粉、軍用レーション、バーボン・ウィスキー、缶ビールその他の当時としては大貴重品が小型トラック一台分ほど集まった。私は植木屋を呼んで、庭のまん中に五月の鯉のぼり用の大柱を立てさせ、タンスの底にしまっておいた大日章旗を竿頭高くひるがえし、鎌倉の友人たちと特にその家族と子供たちを招待して、キリストのいない大クリスマス・パーティを開いた。(中略)私は酔って、『クリスマスはアメリカ人だけのものじゃない。アメリカに負けるな!』と演説した」。

 この馬鹿騒ぎの前後、おそらくは1948年のことだと思うが、林はGHQの追放令にひっかかる。たちまち食うに困ってカネを借りにいく。戦前の獄中時代から、この手の話はまずは宇都宮徳馬氏から、と判で押したように決めてあるのか、徳ちゃんとか何とか言って、気安くカネを借りてくる。GHQ追放の時も、こんな調子だ。
 「ちょうど貯金もなくなったころで、これで糧道も絶たれた形になってしまった。せっぱつまって、当時小田急の中央林間駅の近所に閑居していた宇都宮徳馬(現代議士)をたずねて借金を申し込んだ。宇都宮は笑って、『もう来るころだと思っていたよ』と言い、金三千円を貸してくれた。当時としては一家五人が半年間は食いつなげる金額であった。どんなに助かったことか!」
 しかし、「宵越しの金は持たない」などとうそぶく御仁である。自分でも稼がないと追いつかない。彼は字を書く以外に能がない。売れさえすればよいとばかりに、がんがん書きまくったらしい。林房雄自身が筆名だけど、それ用のペンネームも作った。白井明というのだそうだ。追放で糧道を絶たれたことから始めたつもりの “荒稼ぎ” が、売れすぎて儲かりすぎて、やめられなくなった。バックがきかない。その結果が、いかに苛酷かつ悲惨であったか、彼はあからさまに述べている。
 「追放は解除されたが(注1)、私の文学への復帰は困難であった。いちばんいけなかったのは、追放の末期にやっつけ仕事の小説が売れすぎ、当時続出したいわゆる「カストリ雑誌」(注2)の流行作家になり、まともな小説が書けなくなったことであった。追放末期と解除後の三年間ほど、合わせて五年ほどのあいだに私は二百篇近い興味本位の小説を書きとばしている。新聞、婦人雑誌の連載を一時に四篇も引き受けるというようなばかなまねもした。一家の栄養失調は救えたが、何ものこらなかった。私の生活は乱れに乱れ、妻を狂死させるというような許すベからざる過失もおかし、そして最後に残ったものは、こわれた健康、仕事への自信喪失、五十代後半の救いがたい虚無感だけであった。
 二人の息子は成長してそれぞれ世に巣立ったし、私は一切の団体との関係を絶ち、第二の妻を迎えて、生活の外見だけは整理されていた。売れる小説は惰性的に、書けばまだ書ける。だが、こんな生活がいったい文学者の生活と言えるのかという、後悔と自責にせめられはじめた」と。
(注1)1948年、文筆家の公職追放。1951年5月1日、公職追放解除。1952年、妻が自宅で自殺。この間五・六年(実際には六・七年?)が「カストリ雑誌」時代か。
(注2)「カストリ雑誌」とは、仙花紙(屑紙を漉き返した質の悪い紙)で作られた雑誌。
カストリ酒(粗悪な酒)のカストリにかけた名称。

 進むことも退くこともできない窮地に立たされたとき、どうするか。後先のことを考えずに、とにかく行動する、行動してからのことは後で考える。それが林房雄という人ではないか。転機となった1958年(昭和33年)の事柄を、彼は次のように書いている。
 「そのころ読売新聞がインカ探検隊の計画を発表した。私は頼んで自費参加を許してもらった。考古学については何も知らない。ただ、この現在の生活から、砂漠とジャングルの中の『古代』への脱出を企てたのだ。そこに何かの救いがありそうな気がした」と。
 はい、いいですよ、すぐに救ってあげますよというほど、世の中は甘くない。
 「中南米の旅で私が見たものは、マヤ帝国とインカ帝国の遺跡だけではなかった。スペインの植民主義が、インディオという原住民に与えた傷の大きさであった」。「だが、私が中南米から持ってかえったのはその憤りだけではなかった。わが身の老齢と衰弱の自覚であった」。「とにかく生きて日本に帰って来たが、肉体のおとろえはそのまま精神のおとろえとして現れ、これまでの一切の仕事がむなしく見え、ただ隠遁の思いのみがはげしく心中を去来した。 / それから約三年間、私は一滴の酒ものまず、のめず、仕事はできるだけ切りつめ、釣りのみを遊びとし、残った時間はただ本を読むことだけに費やした。精神の回復は静養よりも読書によって早められたようである。(中略)隠者気取りと気分が次第に消えはじめた。」

 生きるか死ぬかの思いはした。が、結果は吉と出たらしい。立ち直ることができたのは、読書、「特にトインビーの『歴史の研究』(要約版)にめぐりあったこと」のおかげだったと書いている。要約本を再読三読した後、原書12巻を取りよせて読みはじめ、いまも読んでいるというのだから、立派だなぁ、と感心する。いい加減な男だとのお思いはなくならないが、と同時に、幾つになっても一生懸命さというものを失わない、真摯なところのある人なのだな、との思いを新たにした。
 では、彼はトインビーの『歴史の研究』の、いったい何に心を惹かれたのであろうか?
 答えは『肯定論』第五章の最後の部分にある。歴史を巨視的に眺める場合、拠るべき方法論は、日本マルクス主義者の「内在史観」ではない。トインビーの「外在史観」こそが、求める歴史観でなければならない。前者のあやまりを超え、後者に依拠して、歴史をもっと広く大きく見てゆく必要がある。これが林房雄の、トインビーへの傾倒の中身である。
 ところで、「内在史観」「外在史観」とは、どのような歴史観なのだろう? 林が説明しているところを、以下に引用する。
①「内在史観」について。
 「マルクスの唯物史観も一つの有力な仮説である。それは在来の史観では発見できなかった多くの歴史的真実を発見させてくれた。しかし、マルクスの天才をもたぬ日本の『マルクス主義者』諸氏は日本歴史に対するその適用を誤ったようだ。彼らの適用方法は唯物史観をただの『内在史観』(一つの民族と国家の発展と崩壊の原因をその内部にのみ求めようとする史観)に終わらせてしまった。」
②「外在史観」について。
 「『内在史観』に対して(私の立場)はむしろ『外在史観』(民族、国家の発展の動機をそれ自身の内部だけではなく、外部からの圧力に対する抵抗に求める。例えばトインビーの『挑戦と応戦の理論』)だが、必ずしも民族のみを重んじて階級を無視しているわけではない。左翼も右翼もない。真実だけが真実なのだ。」

 感想を二つ。彼は、マルクス主義のものの考え方をすっかり投げ捨てたわけではなく、むしろずっと引きずっていたのではないか、というのが一つ。しかし、それでは説明ができない歴史の現実に直面してトインビーへと軸足を移したのではないか、という点が一つ。とまれ、このような問題意識でもって林房雄は、日本の近代百年を眺め、『大東亜戦争肯定論』を立ち上げていくのであった。