たけもとのぶひろ(第10回)

「潔さの美学」なんて糞食らえ!

 松井秀喜選手の引退について星稜高校の元監督は、そういう場面になると誰もがそう言うだろうなと思うにちがいない、その種の決まり文句でコメントを述べた。「決断の潔さ」というのがそれだ。この種のもの言いは見ても聞いてもムカムカする。で、即、噛みついた。それが前回であった。
 ぼくはそもそも「潔さ」というものが苦手だし、嫌いだ。全国に指名手配された1972年1月9日から1982年の8月8日まで、官憲に追われて逃げていたのだから、潔くないこと極まりない。10年半も、なにをおめおめと、と思われるであろう。それよりなにも、逃げること、それ自体が男らしくない、潔くない、というのが一般の印象だと思う。

 とはいうものの、ぼくにはぼくの言い分があった。ぼくの関与したとされる事件は、報道の当初からフレームアップ(でっち上げ)の疑いが取り沙汰され、きな臭い雰囲気に包まれていた。早々とパクられたのでは何をされるかわからない。
 ぼくらの見るところ、官憲の狙いは、71年8月に起こった朝霞自衛隊員殺害事件(別件は米軍グランドハイツ強盗予備事件)を奇貨として、その主犯格の男と顔見知りの中に「滝田修」がいることをよいことに、「滝田修」を事件に巻き込み、爆弾闘争の時代の幕を引かせる点にあった。事実、パクられ留置されていた朝霞署の取調室で、刑事は “滝田よ、お前が時代の幕を引くんだ”と、ぼくを事件の首謀者と決めつけた上で脅したのだった。

 このように書くと、どこかから “要するに、潜行への決断を余儀なくされていたと言いたいのだろう”という声が聞こえてきそうだ。 “そういう言い訳がましいことを言うから、潔くないと言っているんだよ”と、さらに追っかけてきそうな気配だ。
 あるいは、もう少し趣向をこらして意地悪く言うと、こういう言い方もできる。
“清廉潔白で省みて疾しいところがないのであれば、出るところへ出て白黒をつければいいではないか”。逮捕状が出た以上、決着をつける場所は裁判以外にないことは、小学生でも知っている。しかし、もしも官憲が罠を仕掛けてそこへとぼくを陥れようとしているのであれば、目隠しされたも同然の状態でみずからその罠の中へはまりに行くわけにはいかないし、敵のたくらみをみんなの見ている目の前であからさまにするにはそれなりの時間が要るだろう、ということだった。

 あるいは、「滝田修」のカンバンに恥ずかしくないような舞台をつくるから、そこでかっこよくパクられたほうがよいのではないか、といった類いの、身も蓋もないはなしもあった。
 かっこよい、という。その手の話が虫酸が走るくらい嫌いなんや、と言うてるやないか。結局、これらの話はどれもこれも、格好がよいかわるいか、に尽きる。
 そして、かっこうよいのがええ、かっこうつけてなんぼ、やないか、みたいな話になる。男らしい、勇ましい、思い切りがいい、正々堂々としている、覚悟のほどを心に決めて動じない――つまり「潔い」という。
 しかし、この「潔い」の線でいくとすると、ぼくなんかの言い分は、いつ・どこで・だれが聞いてくれるのやろか。それとも、この種の言い分は弱虫とか卑怯者が愚痴をこぼしているみたいなもんやから、聞かなくてもよろしいとでも言うのやろか。
 違うやろう! むしろ逆とちがうのか。ええかっこしぃの話には実(じつ)がない、けれど、ええかっこできない奴の話には、その残念な思いというものがこもっているのやないか。その思いを聞く者は “ああ、ぼくもおんなじやなぁ”と思えてきて、そこがええとことちがうのやろか。

山本周五郎(1903~1967)

山本周五郎(1903~1967)

 これだけあからさまに書けば、身の上話が “恨み節”めいてきて、それこそ、あまり格好のよいものではないけれど、潜行中および獄中のぼくがどれだけ山本周五郎に惹かれてきたか、そのわけの一部でもわかってもらうのに少しは役立ったように思うのだが。
 今回は、その周五郎を引きながら、「潔さ」が必ずしも尊ぶべき人徳ではなくて、むしろ見かけだけの空威張りに過ぎない、という趣旨で書いていきたい。

 最初に、『天地静大』(1959年)の中で周五郎が、主人公の郷臣をして語らしめているところをみていただきたい。
「『さくらの花か』郷臣は吐き出すように云った、『散り際をいさぎよくせよ、さくらの花の如く咲き、さくらの花のようにいさぎよく散れ、――いやな考えかただな』郷臣は歩きだしながら続けた、『この国の歴史には、桜のように華やかに咲き、たちまち散り去った英雄が多い、一般にも哀詩に謳われるような英雄や豪傑を好むふうが強い、どうしてだろう、この気候風土のためだろうか、それとも日本人という民族の血のためだろうか』/ 『こんなふうであってはならない』と郷臣はまた云った、『もっと人間らしく、生きることを大事にし、栄華や名声とはかかわりなく、30年、50年をかけて、こつこつと金石に彫るような、じみな努力をするようにならないものか。散り際をきれいに、などという考えを踵にくっつけている限り、決して仕事らしい仕事はできないんだがな』」

 たいていの花は、咲いたその同じ場所で枯れて老醜をさらし、しかるのちに土に還る。桜は違う。桜は、颯爽と咲いて、その華麗さを誇る。そしてその華麗な生の、生きたままの姿で散り、壮烈な最期を遂げる。周五郎の信条からすると、人たるもの、さくらの花のようであってはいけない、となる。
 人間だって同じことだ。陽のあたる場所に身を置いて、口で壮烈を謳い、颯爽ぶりをひけらかすことの、いったいどこが潔いのか。口を開けば、武士の誇り、志士の誉れ、藩士の面目、などと口癖のように耳障りのよい言葉で自分を飾り立てることの、いったいどこが美しいのか。
 栄誉に浴し、栄華を極め、名声をほしいままにしてきた英雄豪傑、とはいっても、彼らの本心は思いのほか次元が低くて、たとえば、自分が人の目にどう映り、人の耳にどう聞こえているか、その程度のはなしではないのか。

 以上のように書いてくると、人によっては “引かれ者の小唄”というか、人生負け組の負け惜しみのように聞こえるかもしれない。が、周五郎は、その感想を決して否定しないと思う。その通りだ、人間は弱い、弱いから負ける、そして負けるところから始まるのが人生だ、と言ってしまうのが周五郎ではないだろうか。
 『週刊朝日』のインタビュー記事のなかで、なぜ英雄豪傑を書かないのか、と問われた彼は、その答えの冒頭で「彼らはきわめて人間性にとぼしい」から、と答えている。英雄豪傑は強い。強いことになっている。そのこと自体が、人間的であることの定義に反している。弱いのが人間であり、その、弱いというところに人間の可能性があずけられている、とでも彼は思っていたのではないか。

 たとえば、かの名作『樅ノ木は残った』(1958年)の中で、周五郎は主人公の甲斐をして次のように語らせている。
「『人間とは弱いものだ』と甲斐は言葉を継いだ、『人間はかなしく、弱いものだ、恵林寺の僧がもし大悟徹底していたら、火中であんなことを云わず、黙って静かに死んだろう、おそらく従容として、黙って死んだのが事実だと思う。火中にあって、心頭を滅却すれば火もまた涼し、などというのは泣き言にすぎない、けれども、その泣き言を云うところに、いかにも人間らしい迷いや、みれんや、弱さがあらわれていて、好ましい、私には好ましく思われる』(中略)『人は壮烈であろうとするよりも、弱さを恥じないときのほうが強いものだ』」

 いまどき「弱者」と書いてしまうと、なにかしら手垢のついた言い回しに聞こえて、どうも言いたいことと違ってくるような気がする。弱いもの、と書く。
 山本周五郎は、生涯、弱いものの貧困、無智、苦労、不幸、悲惨、悔恨などを書いて飽くことがなかった。なぜか。その定義からしておのずと明らかであるが、彼らはもともと経済からは排除されているも同然の身であるし、政治が庇護してくれるわけでもない。でも、世の中がなんとかまわっているときは、自分本位の考えだけでもしのぎしのぎやっていける。しかし、「自分に不運がまわってきて、人にも世間にも捨てられ、その日その日の苦労をするようになると、はじめて他人のことも考え、見るもの聞くものが身にしみるようになる」(『柳橋物語』の源六)。
 そうなってはじめて、「自分の力だけで生きてゆく以外に道のない」人間が「自分だけの力だけでは生きてゆけない」ことを思い知る。
 そのとき「一番の頼りになるのは、互いの、お互い同士のまごころ、愛情、そういうもので支えあっていく……これがギリギリの、庶民全体のもっている財産だと私は思います。(中略)人間同士のまごころでつながっている、このつながりだ、と私は思います」(講演『小説の効用』)。
 同じことを周五郎は、『赤ひげ』の医者・去定にこう言わせている、「彼らも人間なのだ、いま富み栄えている者よりも、貧困な無智のために苦しんでいる者たちのほうにこそ、おれは却って人間のもっともらしさを感じ、未来の希望が持てるように思えるのだ」と。

 しかし、周五郎はほんとうに希望をもっていたのだろうか。弱いもの・貧しいものがつながっていく、わかりあっていく、と。彼らは孤独だし寡黙だ。だからこそ、その闇の中にあって灯を求めないではいられない。
 魯迅も言っている、絶望の中にあるからこそ希望を抱くのだ、と。周五郎とて、人間と人間との理解が容易でないことは、身にしみて承知している。多田道太郎は『樅ノ木は残った』を論じたなかで、それを追認するかのように次のように述べている。
 「人間と人間との理解。これは『名』をうるよりはるかにむつかしい。(中略)名はむなしい。それは権力機構の与えるものだから。理解はむつかしい。それは人間の忍耐の果てにあるものだから」と。

 そして周五郎自身、人生そのものが忍耐であり辛抱だ、これに尽きる、と書いている。
 たとえば『樅ノ木は残った』の主人公・甲斐はこう言っている。
 「意地や面目を立てとおすことはいさましい、人の眼にも壮烈にみえるだろう、しかし、侍の本分というものは堪忍や辛抱の中にある、生きられる限り生きて御奉公することだ、これは侍に限らない、およそ人間の生きかたとはそういうものだ、いつの世でも、しんじつ国家を支え護り立てているのは、こういう堪忍や辛抱――人の眼につかず名もあらわれないところに動いている力なのだ」と。
 また『ながい坂』の主人公も次のように語りかけている。
 「人間は生まれてきてなにごとかをし、そして死んでゆく、だがその人間のしたこと、しようと心がけたことは残る、いま眼に見えることだけで善悪の判断をしてはいけない、辛抱だ、辛抱することだ、人間のしなければならないことは辛抱だけだ、わかってくれるな」と。

 人間と人間との理解は、忍耐の果て、辛抱の極みを超えた、その向こうにある、という。理解。それを願わない人がどこにいるだろうか。しかし、理念として「そうあってほしい人間」を求めれば求めるほど、その「あるべき」姿は、現実に生きている個々の人間の有り様からはどんどん遠のいてゆくのではないだろうか。
 戸石泰一氏は周五郎を論じた文章の中で、「ドストエフスキーだったか誰だったかの言葉」として、「私は人類に対して限りない愛情を持つ。だが、個々の隣人を愛することはどうしてもできない」というのをあげ、「山本さんにも同じことがいえそうだ」と書いている。
 のちに、この戸石という人は周五郎と対談したそうだが、その席で、上述の指摘について周五郎が「じつにぴったりだ」と言った、との後日談がある。が、それはなにも不思議なことでもなんでもない、誰が考えても、まことに当たり前のことではないか。
 先にも指摘したように、あるべき「人間」という理念でもって、現実の人間を測れば、後者がはるかに及ばない。後者がはるかに及ばないからこそ、ぼくらは前者を導きの理念として大切にしたい、と思うのではないか。

 では、周五郎は現実の弱きものをどのように見ていたのであろうか。彼の講演記録『小説の効用』(新潮社版全集)の中から、以下に紹介する。この種の話はほかの人もよく指摘しており、目新しさには欠けるところがあるけれど、にもかかわらず、長い文章をあえて引用して示すのは、これを “ほかならぬ周五郎”が話しているということ、そのことに注目してほしいからだ。彼は言う。
 「話は飛躍しますが、アメリカの西部劇映画をみますと、あるナラズ者が西部の町にのりこんでくる。そうすると、その町の人全部が結束して、その悪徳に対して抵抗するというシチュエーションの設定が非常に多い。
 これが日本の活動写真になりますと、突如として、剣術使いのスーパーマンが、覆面をしたりしなかったりして出現し、一人で、悪人をバッタバッタと斬り捨てて事件を解決してしまう。個人的なスーパーマンによってことが処理されるという例がまことに多い。」
 「そこで、また飛躍しますけれども、これは日本の国家の形が、ひとつの原因をなしていると私は思うんです。
中華民国でもそうですし、日本以外の大きな国では、だいたい城というものは、それ自身シティ(市)だ。パリ市、ロンドン市、中国大陸でも済南市、南京城……これらはみなキャッスル・シティであります。もしも外敵から攻められる場合には、その城の中にある者は、子供でも女の人でも、みんな武器をとって戦うという形になっている。
 日本の場合ですと、城というものはありますが、その城下町に住んでいる領民は、城主に対して武力の面でも協力するという関係はぜんぜんございません。
 ここに城があって、片方が攻めてきますと、戦うのは城主と城主に付属する侍だけであって、城下の民たちは、すっかり立ちのいてしまう。あとは侍同士がチャンバラをやって、進攻してきた武将が城を乗っ取って落ちつくとしますと、立ちのいた城下の人たちが帰ってくる。
 こんどの大将は、租税が安いとか、高いそうであるとか、いうことぐらいには関心はもちましたろうが、領民は政治なるものに根本的に参加はしない。つまり、城内と城外とは画然とわかれているわけですね。
 こういうことが、日本の庶民の慣性のようなものになっていて、歴史的事件に対しても、普遍的な一つの関心にまでたかまることがない。『どこかで、何かが行われている。しかし、おれたちの知ったことではない』
 これが、歴史、政治に対する日本の庶民の、大まかな態度ではなかったかと、私は思うのであります。」

 小説の中では、どうなっているだろうか。たとえば『ながい坂』の主人公・主水正は、それに当たると思われることを呟いている。
 「そうだ、かれらは政治の善悪や、経済的変動の外にいるのだ」
 「(彼らにとって)政治の善し悪しや経済的な遇不遇は問題ではない、常に、こんにち生きている、という事実だけで充分なのだ」
 彼ら、貧しく弱きもの、庶民はつねに、政治や経済の外にいる。政治や経済の外にいる者を、政治や経済は救うことができない。彼らは、問題の外にいる。文字どおり、問題外の存在なのだ。あるいは、こうも言えるかもしれない。彼らは政治や経済の向こう側にいるのだ。逆に言うと政治や経済は、彼らのところから見ると向こう側にあるのだ。いずれにせよ、彼らは社会に参加していないし、全体を構成する員数として数えられてはいないのだ。

 周五郎は、貧しく弱きものの現実をこのようなものとして受けとめていた。このことは、ほぼ間違いないと思う。つまり、絶望的である、と。であるからこそ、であればあるほど、あるべき「人間」の理念の実現へと情熱を燃やしたのが、周五郎の文学だったのではないか。そして彼の思いは、美しくも結実した。だが、周五郎本人の心の在り処は奈辺にあったのだろうか。ある本の口絵でぼくが見た晩年の彼の写真は、風蕭々たるなかに立つ冬木立の如き風情であった。

 壮烈な言辞、颯爽ぶり、潔さの美学――これらに対する否定・嘲笑は、いいと思う。ただ、たとえそれが真実であるとしても、人生は忍耐の二字に尽きる、とだけ言われてもなぁ、
 困るんだよなぁ。と思うでしょ? そういうことを、潔さではなくて、ねちこくというか、ねばり強く考えていければな、と思いつつ、今回はこれで終わります。