たけもとのぶひろ(第3回)

2012年10月11日(水曜日、曇り)

 歳をとるとはどういうことなのか――若いときのぼくなんか、極端に言うと死ぬ気がしなかったくらいですから、歳をとって老いるなんて、夢にも想ったことがありませんでした。が、今回は、その夢想だにしなかったことに思いをめぐらせてみたいと思うのです。
 社会では誰しも、各々が決まった位置を得て、果たすべき役割を引き受け、学校を出たら一定の職業に就いて生計を立てていくのが当たり前とされています。老人であろうが若者であろうが、要するに、なんらかの形で人の役に立っていないと白い目で見られます。役に立つどころか、反対に税金を使うなどして、社会のお世話になろうものなら、背負いたくない“お荷物”として嫌がられます。失業者とか身障者とか、生活保護を受けている人たちや母子家庭の人びとはもちろん、乳幼児や学童保育児ですら、いや小中学生なんかでも貧乏だとか勉強ができないくらいで、みんな邪魔者扱いの目に遭います。老人(高齢者とか後期高齢者)もまた、これらの人びとと同じ範疇に属する者として扱われていることは、周知の事実です。
 大昔の未開社会までさかのぼらなくても、ある程度の生産力があって安定した農耕社会なんかでは、老人であってもその人の記憶や知識が図書館や博物館並みの場合、あるいは医学や宗教上のことで昔から伝えられてきた技術や神秘的な知恵など、多くの人の知らないことを知っている人は、長老とか故老としてみんなから敬われていたらしいし、そこまでいかなくても足腰の立つふつうの老人であれば、草むしりや子どもの世話くらいはして人の役に立つし、だから、生きていても許されました。
 しかし、食べる物にも事欠くほど生産性が低く不安定な貧しい社会では、生まれたばかりの赤ん坊を間引いて殺す、口減らしと称して子どもを奉公や養子に出す、親であっても年老いてみんなの生存の邪魔になってくると始末してしまう、そういうのが、世界中どこへ行っても当たり前でした。深沢七郎の『楢山節考』のように老いた母親を山におんぶしていって餓死させたり、古代スキタイ人やエスキモーのある部族のように崖から海に突き落として父親を殺したり。とくに常時移動を生活とする狩猟採集民なんかは、老人を荒野に棄てていかざるをえないのでした。
 これが人類の先祖のやってきた嘘も隠しもないことです。ぼくらのDNAに刻印されている、きれいごとでは済まない人間性の一面です。そしてこれは、とても大事な事実だと思うのです。要はこういうことです。
 社会の中に自分の位置がなくなる、居場所がなくなる、仕事がなくなる、役割が奪われてしまう。ということは、歳をとると社会の員数から外されて、単なる厄介者として扱われかねないことを意味します。
 タテマエとしては確かに「お年寄りを大切に」ということが言われ、「敬老の日」という祝日も設けられています。しかし、特別にそういう趣旨の日を設けないといけないということ自体が、社会のどこを探しでも“敬老の精神”なんて見当たらない現実を物語っているのではないでしょうか。
 一人前の労働力として健康で健全な人のホンネを察するに、彼らにとって老人とは、良くて無視・憐憫の対象にすぎず、悪くすると迷惑・嫌悪・排除の対象なのだと思います。自分は担ぎたくない“お荷物”、だれかにどこかに早く持って行ってほしい“お荷物”――それが“社会のお荷物”としての老人ということなのでしょう。
 こうなると老人は、他者と関わり合うことさえできません。ましてや、他者と何かを分かち合うことなど、どうしてできるでしょうか。
 仕事・役割はおろか位置・居場所・関係まで、ないのも同然となってしまえば、残るのは「自分だけ」です。自分以外にはいない。誰もいません。ですから、ただもっぱら自分を居場所にして、自分との関わりを深めていくしかありません。
 と書くと多くの人は、どうしても老いとか老人とかを美しく思いたいのでしょう――悟りきって淡々とした“老境”などという、よそ行きのレトリックでもってイメージしたがる傾向があるようです。「悟りきる」って、一点の迷いもないほどに真理を会得することですよ、そんなことが凡人のわが身に起こるはずがないでしょう。
 そしてあなた、自分が老人だとイメージしてみてください。そのあなたが淡々となんて、できると思えますか? あなたは「しかと」【注】されているのですよ。かわいそうにと憐れみの目で見られているのですよ。ホンネをそのまま正直に言うと、みんな嫌がり嫌っているのですよ。であるからこそ、独りぼっちにならざるをえなくなったわけだし、「自分だけ」になってしまっている――腹立たしいことに、それか現実でしょうが。間違っても、自ら進んで孤独を選んだわけではないのですからね、自然で落ち着いた淡々とした生活とかは、アタマから無理なのですよね。
 【注】「しかと」(広辞苑) (花札の紅葉の札の鹿がうしろを向き知らん顔をしているように見えることからという)相手を無視すること。

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 悟りきって淡々とした老人とか、慌てず騒がず・余裕悼々の自然体で・心のままに生きてゆく――いわゆる悠々自適の老境とか、その種の嘘くさい話は、金輪際やめにしましょう。どうせ並みの老人になることが、ぼくら凡人の行く末と決まっているのであれば、もうええ加減、自分から逃げたりするのをやめて、自分のほうから進んで自分の「自分自身」を申し受ければよいだけの話ではないでしょうか。良くも悪くも正味の「自分」の境涯を引き取って、自身の中に沈潜し、集中し、没頭する、それだけの話なのではないでしょうか。
 いまぼくは「それだけの話」と書きましたけれど、これができたら大したものと違いますやろか。まさにここにこそ、今までの人生のマイナスを全部かき集めて倍返しでプラスに変えてしまう“逆転の原点”があるような気がするのですが。それに、このあたりで逆転してしまわないと、自分の人生はズルズルと後ずさりしていって“負け戦”のままで終わってしまいかねないし、もしそうなったら、むちゃくちゃ腹立つなあ、と思ったりもするのです。
 いかに頼りなく情けなくても、残されているのは自分だけ。その自分を相手に問う、そして自身の中に答えを探す。問い続けることができれば、答えはついて来てくれるにちがいない。そう信じていいのではないか。いつまでも、どこまでも、果てしなく自分を求め続ける。今日はだめでも明日がある。そういうあがき・もがきのなかで人は、自分以上の自分を見ないでおかないとの思いを抱くのではないか。まさに一人になってしまっている自分を超えて出てゆかずにはおかない。そう言わんばかりの challenging な struggle。
そこには、もはや年齢もなければゴールもないはずです。そこは Ageless & Endless の世界、無限の可能性の世界なのではないでしょうか。
 こういう生き方がありだとすると、「残された時間がない」とかいう観念、あるいはイメージは、まったく根拠がないことになります。たしかに時間はないと言えばないのだけれども、あると言えばいくらでもある、無限に出てくるのかもしれません。したがってまた、「悟りきって淡々とした」境地もヘチマもないということです。穏やかで静かで優しい、なんて、そう都合よく、おとなしくなってはたまりません。いくら“死に損ない”野郎と憎まれようと、あるいは“年寄りの冷や水”と揶揄されようと、世にはばかる憎まれもんよろしく、自分本位に、のびのびと行きたいものです。遠慮とか迷惑とか、この種の単語は辞書から除いたほうがよいのではないでしょうか。
 自分に少々の困難があってもかまうことはない。ワシはワシが生きたいように生きるだけのこと、と言いたげな見事な人生があります。
 稀代の名文家として知られるマルコム・カウリーが八十路を迎えて書いたエッセーから印象深い一文を引いておきます(『八十路から眺めれば』草思社)。

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 【私が心から羨む相手といえば、それは老いを連続的挑戦として受けて立つ一群の男女なのである。/この一群にとって、次々と襲ってくる新たな疾患は計略によって滅ぼすべき敵であり、意思の力で克服すべき障害である。この人たちは些細な克己的行為の一つ一つに喜び、時には大きな勝利を勝ち取ったりもする。ルノワールは確かにこの一群に属していた。この画家は関節炎で肢体不自由者になったあと、絵筆を腕に縛りつけて、何年もの間すばらしい絵を描きつづけた。ゴヤもまた不屈の人だった。この人は七十二歳でスペインの宮廷画家の地位を辞して、もっぱら自分のために絵を描こうと決心する。晩年は有名な「黒い絵」の時期で(また当時は新しい技術だったリトグラフの時期でもある)この画家の想像力はとどまる所を知らない。七十八歳の年にはスペインの恐怖政治から逃れて、ボルドーへ赴く。その頃はもう耳は聞こえず、目も衰えていたので、仕事のときはいくつもの眼鏡を重ねて掛け、拡大鏡まで使用した。だが生み出されたものは全く新しい画風による傑作のかずかずである。八十歳の年には、二本の杖をつき、白い髪と髭に顔を覆われた老人を描いて、その絵の片隅に「まだ勉強中』と書きこんだ。】
 エッセーの最後で著者の力ウリーは、世の老人に向かって自分の人生の回想記を書くように勧めて、次のように語りかけています。
 【回想はそれ自体が魅力的な営みであるし、私たちの努力は、ちょうど芸術家がその仕事を確実に把握しているように、私たちが己の自己同一性を確実に把握するための助けになるとすれば、決して無駄なことではないのだ。少なくとも私たちは未来の世界に向かって(だれも聴いてくれないのなら私たち自身に向かって) 「本当の私はこうだった」と言えるのである。あるいは、もう少し自信をこめた口調で、こう言うのも悪くない。「昔も今も、これこそが私なのだ」と。】
 自己同一性。私が私になるということ。すべては、そのための営みなのではないでしょうか。