何でも多数決で決まると思っている人々
「ネ申」様と「偉そうなエリート」

仲正昌樹
[第8回]
2014年5月3日
今月のラッキー

今月のラッキー

 五月に入っても、世の中ではSTAP騒動が続いている。この件に関するニュース、特に、テレビのコメンテーターや“ネット論客”たちの、小保方支持発言を聞いているとイライラする。典型的なおバカ発言の三パターンをあげておく。
 一番単純素朴で論外なのは、小保方さんの会見を見て、「あれは本当のことを言っている人の話し方だ。むしろ理研の方が嘘を言っている。私には分かる」、とか言っている連中だ。こういう連中に付ける薬はない。小保方さんの容貌とかキャラについて趣味的判断をするのは勝手だが、STAP細胞の実在の有無とか、論文にねつ造があったかといった科学もしくは研究倫理の問題について、語り手に対して自分が抱く印象で判断してしまう感覚は、バカを通り越して、病である。小保方さんの会見直後のネット上のアンケートで、七割くらいの人が「納得した」と答えているのには唖然とした。そもそも、こういう問題で科学者あるいは法律家、研究倫理専門家で「納得した/しない」という設問のアンケートを行うこと自体が常軌を逸しているが、そのアンケートでイエスと答えたがるアホが、この日本にかなり多数いるかと思うと、イヤになる。この手のアホがのさばっている日本で、裁判員制度を続けて大丈夫なのか、と本気で心配になる。
 私は数年前まで左翼の人たちと結構親しくしていたが、おじさん左翼連中には、女の人が一生懸命そうに訴えているのを見ると、「嘘を言っているはずがない」、と簡単に信じてしまうアホが少なくない。大学の教師をやっている人にも、そういうことを言って恥じない輩がいる。そういうのこそ、女の敵のはずだが、頭の程度の低いフェミニストは、その手のおっさんを頼りにする。
 十数年前に私がある場所で英語で発言したことを、全然英語を理解していないくせに、何となくの雰囲気で曲解し、仲正=差別主義だとする文書を左翼系の団体のニュースレターに掲載した、どうしようもなくバカな似非フェミニストがいた。抗議したところ、その団体のおじさんたちは、「彼女は真剣だった」、と言って強引に擁護しようとした――詳しくは、拙著『なぜ話は通じないのか』(晶文社)を参照。小保方支持のおじさんたちの言動を見ていると、その時のことを思い出してしまう。
 第二におかしいのは、「小保方さんがもし本当にSTAP細胞を発見していたらどうする。日本の発明が、中韓に奪われる恐れがある。小保方批判は国益を損なう」、という言い分である。これを本気で言っているとしたら、かなりのバカである。どんな妄想めいた主張でも、ほんの少しくらいは真実である可能性がある。例えば、「私は三年間で、再生可能エネルギーで日本の電力全てを供給できるようにする方法を知っている。そうすれば原発問題も温暖化対策も一挙に解決する。しかしその方法を今ここで公表すれば、官僚や御用学者につぶされる恐れがある。だから、私にそれなりの安定した地位と、具体的な計画を実行するための予算とスタッフを与えるべきである」、というような主張でも、一〇〇パーセント嘘だと断言することはできない。では、少しの可能性があるからといって、このような人物に予算と権限を与えるべきだろうか?
 小保方さんの件は、STAP論文が『ネイチャー』に掲載され、理研の分子生物学や再生医学の権威たちが一時は彼女を支持したわけだから、ただの妄想人間のうわごととは異なるが、その前提が崩れてしまったから、問題になっているのである。「国益を損なう恐れがあるので、この人の言うことに耳を傾け、チャンスを与えるべきだ」と言う場合、どの程度の根拠があれば、耳を傾ける必要があるのか明示すべきである。そうでなかったら、全ての妄想に耳を傾けざるを得なくなる。どういう基準で耳を傾けるべきか、自分で考えようとしない人間は、思考停止している。論客ぶって発言すべきではない。
 小保方=国益発言を聞いていると、2010年の民主党の代表選を思い出す。あの時、小沢一郎は、「沖縄の基地問題を解決できる策がある」と示唆したが、選挙期間中具体的にどうすればいいのか、全然語らなかった。にもかかわらず、ネットの小沢支持派は、「小沢さんを党首=首相にしないと、基地問題がこじれて、日本の国益が大きく損なわれる」、と豪語し続けた。小沢氏が選挙に敗れると、民主党の政治が低迷し続けたのは、小沢さんを選ばなかったせいだということにする。二〇一二年の総選挙でも、同じようなことを言い続けた。
 本当に「国益」のことを考えているのであれば、その人の提案がどういう道筋を経て国益に資することになるのかちゃんと考えてから、支持/不支持を判断すべきである。マイナスの国益になる可能性も考えるべきだ。小保方さんの“ミス”を簡単に許容してしまったら、日本の自然科学の研究倫理の水準が疑われ、国際的な信用を大きく損なう恐れがある。なんでもかんでも「国益のため」と強弁するのは、小沢支持グループと、小保方支持グループに共通している。同じような人たちがやっているのではないか、という気がする。
 第三に、「若い人の芽を摘むな」、と言いたがる連中がいる。これについても、基本的に、先ほどの似非国益論と同じことが言える。未経験な若い研究者であっても、意欲があり、いろいろ斬新なアイデアを持っている人はたくさんいる。しかし、一人前の研究者として成功を収めるには金がかかる。特に実験系の研究には、本人の収入の何倍もの額の研究費が必要になる。みんなにチャンスを与えるわけにはいかない。何等かのハードルをもうけざるを得ない。『ネイチャー』に論文が掲載された時点の小保方さんには、同年代の同じ分野のどの研究者よりも多くのチャンスを与えられてしかるべき資格があると思われたが、その根拠が揺らいでいる。博論のコピペ問題で、研究者としての資格さえ危なくなっている。STAP細胞の再現・検証実験に何らかの形で加わるとしても、以前と全く同じ立場で研究を続けることは、研究倫理的にも組織管理的な見地からも無理だろう。かなりのペナルティを課された立場からの再スタートにならざるを得ない。
 どの程度のペナルティが妥当かを論じないで、「若い人の芽を摘むな」と言うのは、無責任発言である。また、再現実験に本人を参加させて決着をつけることと、チャンスを与え続けることはきっちり区別すべきである。両者をごっちゃにした発言をする人間は、筋道立てて物事を考えられない人間である。
 こういうことを書くと、「仲正は大学教授なので、理系のお偉方の教授の味方をしてしまうのだろう」、と早合点して騒ぐバカがいるかもしれないが、私は少なくとも、自分の大学の理系の教員たちにはかなり腹を立てている。以前、内の大学の付属病院の無断臨床試験問題の件で、医学部(現医学類)の関係する教授、助教授、助手たちと話をしたことがあったが、医学部内のヒエラルキーのことしか眼中にない、彼らの傍若無人さには辟易した。彼らにとって、法学や文学の教員は、たとえ教授であっても、ただの一般庶民である。
 全学の委員会の席でも、医学部の教授は、自分たちが一番理性的で、冷静に判断できるかのような物言いをしたがる傾向がある。恐らく、各教授の下に部下が何十人もいるので、気付かない内に他人を目下扱いするようになるのだろう――無論、謙虚な態度の人がいないわけではない。工学系や理学系の教授にも、若干これと似た傾向がある。
 理系が大きな比重を占めている国立大学のほとんどでそうであるように、金沢大学でも理系出身の学長や理事たちの主導によって、文系いじめの強引な“改革”が行われている。簡単に言うと、理系と“同じこと”をするよう強制し、できないとなると、おまえら無能だとばかりに責め立てる、ということである。
 理系では、一般会計予算から毎年各大学・部門に配分されている予算(運営交付金)だけでは足りないので、文科省の外郭団体である日本学術振興会から交付される、「科研費(科学研究費)」と呼ばれる資金に応募して、それに採択されようとする。巨額な科研費を取ってくることのできる研究者・部門は優遇され、あまり取れない研究者・部門は、厳しい立場に立たされ、場合によってはポストや学内の予算配分を削減される。国立大学の法人化以降、運営交付金は毎年削減されており、予算獲得競争が激化している。最近、研究不正問題があちこちで表面化している背景には、そうしたことがあると考えられる。理研は大学ではないが、独立行政法人なので、同じようなプレッシャーを受けているはずだ。
 理系の研究室同士で争ってくれている分にはまだいいのだが、彼らは、それほど研究費がかからない文系もそれに巻き込もうとする。文系、特にテクストを読むのが仕事である文学、哲学、法学などは、それほど大きな予算は必要ない。海外に出張する場合は、それなりに金がかかるが、それでも長期滞在でなければ精々数十万円単位で収まる。一人の教授が、数千万単位の研究費を必要とすることは極めて稀である。一研究室あたり数千万単位の予算を獲得してこないと、研究が滞る理系とは全く状況が異なる。それに、文系の教員のほとんどは一人で研究していて、部下はいない。社会学とか心理学のように調査・実験をやるところでは、助教に仕事を手伝わせることもあるが、一人二人の話である。
 にもかかわらず、金沢を含む多くの国立大学は、最近、文系を含む全ての教員に科研費に応募することを義務付けるという政策を取り始めている。どうして、文系まで巻き込むのか。理由として考えられることは、三つくらいある。一つは、文科省が、「●●拠点大学」などと呼ばれるものを指定して、関連予算を重点配分するに際して、大学全体の科研費の採択率を基準にするらしいので、文系にも突き合わせて採択率を挙げる必要があること。第二に、科研費採択率を挙げるように文科省から圧力がかかっている、あるいは、そういう圧力がかかっていると大学の首脳部が思いこんでいること。第三に、多くの研究費を必要としない文系が遊んでいるように見えて憎たらしいので、いびってやりたいという気持ちが理系の教授たちの間にあること。
 当然、文系の教員たちの中には、それほどの予算がいるわけでもないのに、「私には予算が必要です」ということを証明するための書類を、長い時間かけて書かされることに反発する者は少なくない。私もそうである。しかし、科研費に応募しない教員がいたら、その学部全体の予算を削減されるなどの、組織的ペナルティを課される。金沢大学の場合、始末書を書かされる。始末書で示した理由が悪いと、たっぷり絞られ、他の教員にも迷惑が及ぶと脅かされる。今年からは、科研費を獲得することを教授昇任の条件にする、という全国的にも“画期的”な制度が導入された――さすがに、降格処分にしろとまでは言っていない。教授昇任だけでなく、専任講師から准教授に昇任するに際しても、外部資金獲得――准教授になる場合は、科研費でなくてもいい――が条件にされている。外部資金が取れない人は、ずっと専任講師に留まることになる。その内、金をもってこれない奴は、助教にもなれないということになるかもしれない。
 文科省がこれを“いい先例”と見なしたら、全国化することになるかもしれない。当然のことながら、そうなると、文系の学生も院生になった瞬間から、金をどうやって取って来るかを考え始めざるを得なくなる。
 また、理系の人たちは、英語での授業を増やしたがっており、文系にもそうするように迫ってくる。英語の授業を増やして、留学生を多く受け入れると、国際化が進んでいるということで、文科省の覚えがめでたくなるからだ。理系の場合、英語で論文を書くことが多い――ただし、実験の内容を説明するための英語なので定型表現を覚えていればなんとかなるという面が大きいし、細かい表現は業者に依頼して直してもらっている教授、准教授も少なくない――ので、英語でやりとりした方が便利だということがあるようだ。お互いにあまり会話がうまくなくても、実験の基本的なやり方さえ分かっていれば、適当な英語でどうにかなるようである。加えて、留学生を一人受け入れるごとに研究室の予算が増える。
 それに対して文系、特にテクストを読む研究をしているところでは、日本語を読めない留学生を受け入れても、どうしようもない。日本語を読めない留学生が、英語などで書かれた文献に基づいて論文を書こうとしても、大したことは書けない。日本史とか日本の法律を勉強したいというくせに、ろくに日本語ができず、英語で授業をやってほしいと望む留学生はろくなものではない。そういう学生に対して、嬉々として英語で授業をしてやろうとする文系の教員がいるとしたら、相当なお人よしか、英語を話したいだけの田舎者である。英語で授業をやってもいいような科目はごく限られている。また、自分の研究室に院生を受け入れたからといって、別に何か恩恵を受けるわけでもない。
 そういうわけで、文系教員は英語の授業を増やすことに慎重なのだが、理系教員はそういう状況の違いを理解しようとしない。「おまえたちは文系のくせに英語もできないのか。無能だな」、と言わんばかりの態度を取る。そういう無茶な攻撃に対して、文系学部(学類)の責任者で、英会話が苦手な人たちが、気おくれした態度を取ったりする。それで向こうは余計にいい気になる。腹が立つ。
 そういうことを考えると、小保方さんを厳しく批判している理系の先生たちに対してもあまり共感できない。この人たちも、自分の大学では見当外れな調子で威張りくさっているんだろうな、とか想像してしまう。だからひどく憂鬱である。