たけもとのぶひろ(第12回)

硫黄島・栗林中将の戦い(2)

 太平洋戦争の末期、硫黄島の栗林麾下2万余の将兵は、6万の米軍海兵隊を相手に、初めから勝ち目がないことがわかっていた戦いを、なぜ戦わざるをえなかったのか。またどのように戦ったのであろうか。今回は、その経緯を見てゆきたい。

 日米開戦以来、日本の快進撃が一転して劣勢に転じた、そのきっかけがミッドウエー海戦にあったことは広く知られている。昭和17年6月5日から7日までの3日間にわたる激戦を制した米軍の主導権のもとで、日本の敗色は日に日に色濃くなっていった。その足跡は、日米激突の日々を年代順・日付順に並べただけで一目瞭然である。
 17年6月のミッドウエー海戦から1年後の18年5月、アッツ島玉砕、日本軍兵士全滅。
 さらにその1年後の昭和19年6月、米軍はサイパン・硫黄島を同時攻撃。
 ①15日 米軍、サイパン上陸開始、日本軍戦力を凌駕か。
 ②15日 硫黄島空襲
 ③16日 硫黄島空襲
 ④19日 (サイパン近海)マリアナ沖大海戦開始、日本軍惨敗(日本海軍聯合艦隊の終焉)
 ⑤24日 硫黄島空襲
 ⑥25日 大本営、サイパン放棄を決定(兵士はいまだ戦闘中なのに大本営は見捨てる)
 ⑦7月7日 サイパン陥落(訣別電報「我等玉砕ヲ以テ太平洋ノ防波堤タラントス」)

 米軍は、太平洋の島づたいに攻めのぼり、日本本土(東京)を襲う。それが目論みであった。その米軍がマリアナ諸島、なかでもサイパンを陥れたとなると、なんとしても硫黄島を我がものとしなければ、意味がない。サイパン攻撃と硫黄島空爆とは別々の作戦ではなかった。両者は、日本本土爆撃という一つの大きな作戦の全体を準備し完結させる上で、なくてはならない二つの戦場として設定されていたのである。だから上記のように、同時攻撃が敢行されたのだった。
 その硫黄島であるが、著者の記述から拾って紹介すると、面積は僅か22平方km、世田谷区の半分にも満たないほどの、ちっぽけな島ながら、日本国の領土(東京都)だという。日本軍はその島を、太平洋航空戦の勝敗を決する重要基地――洋上の “不沈空母” ――として位置づけ、すでに三つの飛行場を建設していた。米軍が日本本土攻撃の最大の足がかりとして狙っていた島は、逆に言えば、我が日本軍にとって本土防衛の最前線であったことを意味する。早い話、米軍による硫黄島の占領は、すなわち東京への大がかりな空襲の開始と同義であったのだ。

 なぜ米軍は硫黄島を最大の足がかりと位置づけたのか。それは、その島の位置そのものが然らしむるところであった。「東京から1250km、サイパンから1400km。両者を直線で結んだ、まさにちょうど中間に島はある。」この位置が島の運命を決した。
 著者の次の指摘を読めば、海兵隊が史上最大の苦戦を強いられるなか、米軍がなぜ硫黄島の占拠に固執したのか、その事情が具体的によく理解できる。

「米軍は「超空の要塞」と呼ばれた新鋭爆撃機B-29をサイパンに配備しようとしていた。しかしこの巨大な爆撃機で日本本土を空襲しようとする場合、4つの大きな問題点があった。
 第1に、サイパンを飛び発ったB-29は、東京までの2600kmの長い距離を、戦闘機の護衛なしに飛び続けなければならない。
 第2に、それだけの距離を飛ぶ燃料のために、搭載する爆薬の量を減らさなければならない。
 第3に、故障や被弾の際、不時着する場所がない。
 第4に、硫黄島のレーダーが米軍機の接近を感知して本土に警報を発令、さらに硫黄島から飛び発った日本の戦闘機がB-29を攻撃してくる危険性がある。硫黄島さえ手に入れれば、これらは一挙に解決する」

 このように見てくると、日本軍にとっても米軍にとっても、あるいは、地理上の位置から言っても作戦上位置づけから言っても、硫黄島は太平洋戦争の帰趨を決する戦場にならざるをえなかったと言えよう。
 その硫黄島へ向けて、わが陸軍中将・栗林忠道が出発したのは、昭和19年6月8日であったという。出発に当たって、彼を硫黄島総指揮官に任命した東条英機首相は、手向けの言葉として、「どうかアッツ島のようにやってくれ」と言ったそうだ。アッツ島は、玉砕という美名に飾られているが、無惨にも全軍全滅した戦場として知られる。東条首相は自分が新たに任命した栗林総指揮官に向って、硫黄島においても、ものの見事に玉砕してくれ、全滅せよ、と命じたのであった。
 東条にとって栗林は、将棋の “捨て駒” 以上のものではなかったということか。栗林中将は、この冷酷無残な手向けの言葉でもって本土東京を追われるがごとく後にして、その日のうちに島に着任しているはずである。そして、その1週間後には、上記年表でいう①②の硫黄島空爆に見舞われているのだった。島に赴任したばかりのところへ米軍の空爆である。危機感で身の引き締まる思いがしたに違いない。

 とはいえ栗林の方も、すでに総指揮官として為すべき仕事に着手しており、抜かりなかった。自分が着任するまでに進められていた作戦をそのまま続けていってよいのかどうか、既存の作戦をいったん白紙に戻して新たに別の作戦を立ち上げる必要があるのかないのか、――その、原点とでも言うべきところで、基本に立ち返って、思いを巡らし、知恵をしぼる必要があった。
 そして、そのために何よりもまず最初にしなければならないことは、戦場そのものを知るという作業であったろう。彼は着任するとすぐ、島の隅々まで自分の足で歩き、自分の目で注意深く見て回り、地形や地質など基本の中の基本と言うべきところを、微細な点に至るまで具体的に調べたという。
 その上で決断を下したのが6月20日。着任後2週間になっていない。上記年表で言うと②の後、③の米軍襲撃を待たずして、彼は作戦を決断していたのだった。

 栗林中将の決断は、既存の水際作戦の放棄、後方配備作戦への転換であった。栗林の後方配備作戦とは、次の三点にまとめることができよう。
 •主陣地を海岸から後方の地下に構築する。
 •敵の攻撃に対しては水際では行なわず、そのまま上陸させておいて然る   後に攻撃する。
 •複線化した地下陣地から、長期にわたる徹底抗戦・持久戦を戦う。

 栗林中将が赴任したときすでに、硫黄島では水際作戦にもとづいた海岸の陣地構築が進められていた。それを覆す作戦を命ずるのだから、反発も軋轢も予想された。しかし、いかなる抵抗があろうとも栗林は、水際作戦を破棄する決意だった。なぜか?
 梯さんの文章から、栗林の水際作戦の定義とその批判の部分を引用する。
 ①定義「栗林が「効果なし」として採用しなかった “水際作戦” とは、上陸してくる敵を水際で撃破するという戦法である。これは帝国陸軍70年の、まさに伝統的戦法だった。
 船艇に乗って近づいてきた敵は、水上から陸上へと移る地点において、一時的に攻撃力が弱まる。このチャンスを狙って集中的に攻撃するのが水際作戦である。」
 ②批判「しかしこの水際作戦は、装備の劣る中国戦線の敵には通用しても、タラワ、マキン、そしてサイパンといった太平洋の島嶼作戦においてはことごとく失敗していた。
 なぜなら高いレベルの航空戦力を有する米軍は、上陸前に徹底的な爆撃を行い、陣地を破壊してしまうのである。水際の陣地は遮蔽物がないため発見されやすいという欠点があった。 / もうひとつ、米軍は上陸作戦の間じゅう、艦砲射撃や空爆によって徹底的な支援を行う。そのため、米軍の総体的な攻撃力は、水際においてもそれほど弱まることはない。
 これに対し、硫黄島の日本軍は、海と空からの支援をほとんど期待できなかった。
 制空権と制海権が米軍の手にあるかぎり、日本陸軍伝統の水際作戦は意味をなさない。このことを見抜き、ごく早い時期に水際作戦を捨て去る決断をしたのが栗林だった。
 水際の陣地に人員と資材を注ぎ込み、武器も集中させたとすれば、そこで敵に甚大な被害を与えられなかった場合、日本軍はすぐに総崩れになってしまう。
しかし水際で華々しく戦い、負けてそれで終わりというわけには絶対にいかない。自分たちの任務は、この島に米軍を1日でも長く引き留め、最大の損害を与えることなのだから。
 そう考えた栗林は、軍の上陸をいったん許し、地下に作った陣地にモグラのように潜んで徹底抗戦に持ち込むことを決めたのである。」

 栗林が作戦の見直しを急ぎ、20日には早々と徹底抗戦・持久戦の決意を固めた背景には、19日にサイパンの近海であるマリアナ沖で、日本艦隊と米軍機動部隊とが激突した一大海戦――日本軍は「あ」号作戦と呼んでいたが、のちに「マリアナ沖海戦」の名で広く知られるところとなった――の帰趨ということがあった。
 昭和17年6月のミッドウエー海戦の敗北以来、まる2年、日本海軍は起死回生の望みのもと、聯合艦隊のすべてをかけて、この海戦(「あ」号作戦)を準備してきた。しかし、わが海軍を迎え撃つ米軍の兵力は、「艦船、航空機ともに日本の約2倍」の編成であったという。惨敗の結果、日本は航空機の大半を失ったのに対し、米軍は「マリアナ諸島・小笠原諸島を含む中部太平洋の制空権・制海権を手中に収めた。」
 すでに触れたように米軍は、ここまで勝ってきた以上、あとはサイパンから硫黄島へ、さらに本土東京へと、もっぱら攻め上ることを考えるだけでよかったのだ。
 それこそが、栗林中将をして硫黄島持久戦作戦を決意させた最大の要因であった。

 年表には「⑤24日 硫黄島空襲」「⑥25日 大本営、サイパン放棄を決定(兵士はいまだ戦闘中なのに大本営は見捨てる)」とある。
 硫黄島が最前線となる。風雲急を告げる情勢である。
当然大本営の決定を知ったに違いない栗林中将は、同じ25日、書き遺すべきことをいま書いておかねばと思ったのであろう、妻の義井へ宛てて手紙を書いている。400字原稿用紙に換算すると7枚以上になるというその手紙が遺書であったことは、文中に「私からの手紙はこれからはもう来ないものと思って下さい」とあるところからも察せられよう。
著者が紹介してくれているなかから、ほんの一部だけでも読んでいただきたく、以下に引用する。

 運命を受容する心境
 「夫して父として、御身達にこれから段々幸福を与えうるだろうと思った矢先この大戦争で、しかも日本として今最も大切な要点の守備を命ぜられたからには、任務上やむをえないことです。」
 家族への別れの言葉
 著者によると、「当時の栗林家は、妻・義井(40歳)、長男・太郎(19歳)、長女・洋子(15歳)、次女・たか子(9歳)の5人家族」であった。
 その1人ひとりに、あたかも向かい合っているかのような雰囲気で、彼は最後の言葉をかけているのだった。
 「最後に子供達に申しますが、よく母の言いつけを守り、父なき後、母を中心によく母を助け、相はげまして元気に暮して行くように。特に太郎は生まれかわったように強い逞しい青年となって母や妹達から信頼されるようになることを、ひとえに祈ります。洋子は割合しっかりしているから安心しています。お母ちゃんは気が弱い所があるから可哀相に思います。たこちゃんは可愛がってあげる年月が短かった事が残念です。どうか身体を丈夫にして大きくなって下さい。   妻へ 子供達へ ではさようなら 夫 父」
 三つある「追伸」のうちの「一」
 「持って来たものの中、当座いらないものをこの便で送り返します。記念(カタミ)の品となるとも思います(遺品、遺骨の届かない事もあります)。軍用行李が届いたらあるいはまた送り返すものがあるかもしれません。ウィスキーその他の追送は一切不要です。届くか届かないかも不明だし、届いてもその時はもう生きていないかも分かりません。」

 栗林忠道という人間が、これほどまでに愛情が深くて大きく細やかなお人であったかと、またこれほどまでに自分の感情のありのままを正直に言葉にして伝えることのできるお人であったかと、ぼくなんかは驚嘆のあまり言葉がない。日本の軍人たるものは、胸中にどれだけのあふれる思いがあろうとも、それを押し殺して、あえて言葉にせず、平気な振りをして死地につく、そういうふうにイメージしてきたのだから。それが、栗林の場合はまったく違う。驚きである。それはしかも、家族に対してだけでなく、2万余の将兵に対しても同様であったらしい。

 それに関する考察は、もう少しあとに再論することにして、硫黄島の現実に帰ろう。上記年表⑥⑦にあるように、サイパンの日本兵は、聯合艦隊がマリアナ沖海戦で敗北した後もなお戦いを止めなかったが、本土の大本営は、6月25日、早々とサイパンの放棄を決定。見捨てられたサイパンが陥落したのは7月7日。こうして中部太平洋が米軍の支配下に入ったことは、すでに述べた。
 こうしたなか1か月余りが経過した同19年8月中旬、大本営は陸海軍部作戦部長2名および第3航空艦隊参謀1名を硫黄島に派遣し、栗林中将の説得にあたらせた。「硫黄島の陸上航空基地は不沈空母として絶対に確保しなければならない。そのためには、敵が水際に達する前に撃滅するべきである」と。
 しかし梯さんによると、「不沈空母として確保すると言っても、硫黄島の航空機の実働機数は、8月10日の段階で、零式戦闘機11機、艦上攻撃機2機、夜間戦闘機2機しかなかった」。「また武器も、小隊に軽機関銃が2挺ずつしかない」ほどで、「兵器や弾薬も不足したままだった」し、「船も食料もすべてが不足していたのである。」
 大本営からの派遣軍人3名が東京へと帰って、水際陣地構築のための兵器資材として送って来たのは、「わずかセメント3000トンと25ミリ機銃75丁のみだった」という。日本および日本軍がいかにモノがなく困窮していたか――無言のうちに物語るエピソードがある。硫黄島への物資輸送船に「しばしば大量の青竹が積まれていた」というのが、それである。小銃の代わりに竹槍を使え、との主旨であった!

 それでも大本営は、この19年の夏の段階ではまだしも、硫黄島の防備に関して「本土防衛の一環として優先的に強化を図る」としていたらしい。しかし、武器弾薬も基地構築物資も食糧も、水すらも届けることができないというのに、いったいどのようにすれば、わが硫黄島の防備を強化することができるのであろうか。万が一、硫黄島へ向けて輸送船を出したとしても、米軍支配下の太平洋をどのようにして越えて行くことができようか。
 このように太平洋の戦局が日に日に切迫の度を強めていくなか、大本営は、本土防衛の前線どころか、本土防衛そのもの、本土決戦をも覚悟して、それに備えなければならなくなっているのだった。硫黄島の防備はおのずと軽視せざるをえない。というより、硫黄島は見殺しにせざるをえない。それが戦局の然らしむるところであり、その流れに身をまかすほかないというのが、大本営の選択であった。

 こうしたなか硫黄島は、昭和19年の12月8日を迎えた。真珠湾攻撃からちょうど3年目のこの日は、米軍にとって忘れることのできない「屈辱の記念日」以外のなにものでもない。この日の米軍の攻撃は、太平洋戦争始まって以来最大の規模であったとされている。梯さんによって、その中身を次に示す。
 •戦闘機・爆撃機のべ192機、投下爆弾量800トン
 •重巡洋艦3隻・駆逐艦6隻、艦砲射撃6800発
 これだけの攻撃を受けたにもかかわらず、日本軍の被害は飛行機10機とわずかの死傷者にとどまったという。地下陣地こそが、圧倒的な砲爆撃から将兵たちを守ったのであった。

 米軍は、あり余る物量にものを言わせた攻撃によって、硫黄島の日本軍に致命的な打撃を与えることができると確信していたに違いない。ところが、島はびくともしない。
 “総身に知恵が回りかねる大男” としては、しかし、攻撃の量的増大を図るしかなかった。
 にもかかわらず、栗林麾下2万余の将兵と彼らの陣地は、びくともしなかった。米軍のニミッツ大将や第一線指揮官たちにとって、これはもう “驚天動地の大事件” だったのではないか。いったい、どういうことが起こったのか、著者の叙述によって知ってほしい。だいぶ長い引用になるが、もったいないので削らない。

 「それまで間歇的に行われてきた砲爆撃は、この日から上陸まで1日も休まず、実に74日間連続で行われた。スミス中将ら米軍の指揮官を驚かせたのは、この間、太平洋のどの戦場をも上回る量と密度を撃ち込んだにもかかわらず、陣地は着々と増え、堅固になっていったことである。
 空襲や艦砲射撃が始まると、兵士たちは全員、地下に潜る。終わればまた地上に出て作業を続ける。しらみつぶしの砲爆撃に、地上では一木一草にいたるまで死に絶えたが、地下は無傷であった。
 米海兵隊公刊戦史『硫黄島』によれば、74日間に投下された爆弾は計6800トン。12月から1月にかけて5回にわたって行われた艦砲射撃の砲弾数は、16インチ砲203発、8インチ砲6472発、5インチ砲1万5251発におよぶ。米軍にしてみれば、島そのものが消えてなくなってもおかしくないほどの砲爆撃だった。しかし、偵察機が撮影した航空写真によれば、爆撃を開始した時点で450だった主要陣地が、上陸直前には750に増えていたのである。
 ニミッツ大将は戦後、次のように述べている。
 「マリアナから行動した第7航空軍のB24編隊が、来るべき強襲の準備として実に74日間の連続空襲を行なった。しかしながら、この空中攻撃も日本軍の地下要塞の完成に懸命の努力を注ぎこませるのに役立っただけであった。(著者中略)
 歴戦剛強をもって鳴る海兵隊の指揮官たちでさえ、空中偵察写真に現われた栗林部隊の周到な準備を一見して舌を捲いた。」(『ニミッツの太平洋海戦史』より)
 資材が足りず飲み水も満足にない中、硫黄島の兵士たちは、米軍の第一線指揮官たちをうならせる陣地を作り上げていたのである。
 それでも米軍は、5日間あれば硫黄島の攻略作戦は完了すると考えていた。」

 はたして米軍は栗林中将の指揮する日本軍を5日間で攻め落とすことができたであろうか。次回は、やはり梯さんに拠りながら、その戦いを書く。