たけもとのぶひろ(第22回)

関東軍の謀略、その2――柳条湖事件から満州事変へ

 林房雄『肯定論』は、張作霖爆殺事件のときと同じように、この事件の場合も、いつ・どこで・誰が・何をしたのかという、事件そのものの説明から始めています。ぼくとしても、やはりその引用から始めたいのですが、厄介なことに、同じ一つの地理上の位置に対して「柳条湖」または「柳条溝」という二つの地名が使われてきたのです。どうして、そういうヘンなことが起こってしまったのでしょうか。事件の説明に入る前に、二つの地名の存在について解説させてください。
 林房雄は「柳条溝事件」と書いております。「柳条湖」とは一度も書いていません。しかし、「柳条溝」という地理上の位置は「ない」そうです。実は、事件発生当時、主謀者の一人、板垣征四郎参謀が「意図的に創作」したものであると、ウィキペディアには書いてあるのですが。これだと、勘違いではない、とわざわざ断っているようなものでしょう? 
 しかし、柳も条も溝も、細長いというイメージですから、板垣はひょっとして、柳の葉のように細長い、溝みたいなところをイメージして、その湖の名前を「柳条溝」と思いこんだのかもしれません。まさか、一字違いの “ニセ情報” を流して敵軍を混乱させるつもりだったなんて、考えられませんし。もしそうだったとしたら、あまりにも子供じみているというか、姑息にすぎるというか、理解に苦しみます。
 当初、現地満州では「~溝」が流通していたけれど、1936年以降「~湖」と訂正された模様です。国内でも1940年以降は「~湖」が通り名となったとか。しかし敗戦後は、この修正の事実そのものが忘れられ、加えて極東国際軍事裁判が事件発生当時の「~溝」のほうを使用した事情もあったりして、本来の「柳条湖」に一元化できなかったらしいのです。――というわけで、ぼくは正しいほうの「柳条湖」を使います。林房雄『肯定論』の「柳条 “溝” 事件」も「柳条湖事件」と訂正して引用します。ご了解下さい。

 では、『肯定論』に拠って、事件の発端を見てみましょう。
 「満州事変の口火となった柳条湖事件もまた、関東軍の謀略であった。その直接の立案者、主謀者は石原莞爾、板垣征四郎の両参謀ということになっている。
 昭和6年(1931年)の秋9月18日の午後10時すぎ、関東軍柳条湖分遣隊の河本中尉(張作霖爆殺事件の河本大作とは別人)は板垣参謀の密命を受け、7,8名の部下をひきいて、張学良の本拠・北大営に近い柳条湖の線路に黄色方形爆薬を装置し、10時40分奉天着の急行列車通過の直前に爆破した。だが、爆破不完全で線路の1本だけが1メートル50センチほど吹っ飛んだだけであったので、急行列車は転覆せず、無事に通過してしまった。しかし、河本中尉は予定のごとく北大営に向って射撃を開始し、関東軍中隊に「北大営の支那兵が鉄道を爆破、目下対戦中」と報告させた。報告は特務機関、大隊本部、連隊本部に伝わり、非常呼集が行われ、北大営と奉天城への攻撃が開始された。(一部省略)
 「特務機関からの急報により板垣のところへ駆けつけた森島総領事代理は平和的手段により解決することを説得しようと試みたが、板垣は軍の指揮権に干渉しないようにと逆に森島を叱咤し、花谷特務機関補佐官は刀を抜いて「干渉する者は殺してしまう」とさえ脅迫した。」(『太平洋戦争への道』)
(中略)その翌日の午前1時すぎ、東京の参謀本部に到着した電文は次のようなものであった。「十八日夜十時ゴロ、奉天北方、北大営西側ニオイテ、暴虐ナル支那軍隊ハ満鉄線ヲ破壊シ、ワガ守備兵ヲ襲イ、駈ケツケタル我ガ守備隊ノ一部ト衝突セリ。報告ニヨリ、奉天独立守備第二大隊ハ現地ニ向イ出動中ナリ。」

 しかし柳条湖事件の場合もやはり、その謀議を立案させ実行させたのは、当時の政府でもなければ、陸軍中央部でもありませんでした。『肯定論』から引用します。
 「政府は元老西園寺公望、若槻首相、幣原外相をはじめ、満州における武力行使に絶対に反対であった。天皇御自身もただ隣邦シナとの平和を願っていた。内大臣牧野伸顕を中心とする宮中勢力もまた同様であった。
 陸軍中央部もまた武力解決策の即時実行には反対であった。「張学良政権の排日行動の緩和については、外務当局の交渉を主とする」と言い、排日行動の熾烈化によって軍事行動を必要とする場合も、国論の支持と列国の反対と圧迫を避けるための準備期間が必要であるとして、参謀本部の立案以外の軍事行動を認めず、関東軍の独断専行、特に謀略行為を禁じていた。政治的策動または支那浪人の陰謀に軍人が参加すべきでない」というのが軍中央部の意見であった。」
 関東軍を警戒していたのは、これら政府・天皇・陸軍中央部だけではありません。
 「三井三菱も諸政党もいわゆる幣原外交の対米英協調路線を支持していて、対支貿易による「平和な利得」を望んでいたし、その点では、財閥、資本家、政党、主要言論機関は共に関東軍の「暴発」を警戒し、これに反対していた。」

 これらが事実であったとすれば、いったい、どうして? と思われるのではないでしょうか。前科(張作霖爆殺事件)があるだけに、より危険視されていた、その関東軍が、またまた、中央権力をつんぼ桟敷においたまま、同工異曲の謀略をやってのけることができたのは、いったい、どうしてなのか? と。

 柳条湖事件の直接の立案者・首謀者は石原莞爾、板垣征四郎の両参謀であると、すでに書きました。板垣征四郎も石原莞爾も、当時の革新軍人の研究団体(派閥)「一夕会」のメンバーです。ただ板垣は中堅陸軍幕僚グループ「二葉会」(1927~1929)の、そして石原は少壮陸軍幕僚グループ「木曜会」(1927~1929)の出身ですが、1929年5月、両会合は合流して「一夕会」を結成したとされています。板垣は石原よりも先輩でしたが、石原を思想家ないし理論家として評価していました。そして実際に、柳条湖事件から満州事変へ突出してゆくプロセスは石原理論そのものの展開であったと言えましょう。
 そこで石原莞爾について、最低限の履歴を示したあと、彼の理論のあらましを紹介します。
 石原莞爾は、1889年1月18日、山形県鶴岡にて、元庄内藩士の三男として生まれます。1918年、陸大を次席で卒業します。卒論の題名は「長岡藩士・河井継之助」というもので、北越戦争の作戦的研究がテーマだったといいます。
 戊辰戦争の中でも最も熾烈な戦いであったとされる北越戦争において、絶対的兵力で劣る長岡軍は、本居・長岡城をいったん奪われながらも、逆襲に転じて辛くも奪い返します。その逆襲を成功させた河井継之助の、敵の意表をついた「八丁沖渡沼作戦」は、その方面では「軍史に残る快挙」として歴史にその名を残しているそうです。
 結局は “敗軍の将” とならざるをえなかった「河井継之助」の、しかし「軍史に残る快挙・八丁沖渡沼作戦」を、陸大の卒業論文のテーマに選んだ「石原莞爾」という男に、ぼくはなにかしら運命的なものさえ感じてしまうのです。彼の内面的な好みというか、気風というか、流儀というか、その種のもののことを言っているのですが。

 それはともかく、柳条湖事件の計画立案者はわけても石原莞爾ですから、彼の考えのあらましを次に見ておきたいと思います。
 彼は陸大教官時代、1928年1月19日、上記「木曜会」(の全12回のうちの)第3回会合において、「我が国防方針」という題で話をしています。この話の中で、彼は戦争について独自の考えを述べています。
 一つは、現下の「戦争の本質」論です。我が国が直面している戦争は日米争覇戦であること。これは近い将来、航空戦で決着する世界最終戦争ヘと突入する。世界最終戦を戦い終えたとき、はじめて世界に平和が訪れる、というものです。
 いま一つは、「戦争の経済」という問題です。日本は貧乏であるから「一厘も金を出させない」方針でいかざるをえない。すなわち、通貨・税金も、軍事物資・生活物資も、武器・弾薬もすべてを占領地で調達する「現地自給」「戦争により戦争を養ふ」の方針でいけば、20年でも30年でも戦争は続けられる、というものです。

 このあと石原は現地(旅順・奉天)へ出て、戦争の計画立案や問題解決について、いくつもの献策をしています。たとえば「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決」「関東軍満蒙領有計画」「満蒙問題解決策」、そして事件とそのための謀議を目前にした1931年5月にも「満蒙問題私見」を書いています。
 これらの論文における彼の首尾一貫した主張は、以下の五点に要約することができます。
・ 満蒙問題の解決策は「満蒙を我が領土とする」ことに尽きる。
・ 日本による満蒙領有に関して米国は黙って見ていない。したがってこの戦争は、始める前から「対米戦争の覚悟を要す」。この場合は逆もまた真である。東洋を代表して米国と戦争する資格を得る(東洋の横綱として名乗りを上げる)には、満蒙領有が必要である。
・ 日米最終決戦に狙いを定めつつ満蒙領有に撃って出るには、「軍部主導となり国家を強引すること」が必要で、「国家を駆りて対外発展に突進せしめ」なければならない。この対外戦争を突破口にして「国家改造」を断行する。この、外から内への革新なくしては、戦争の貫徹も勝利もあり得ない。(この主張をもって彼らは「外政派」と呼ばれた。)
・ 究極するところ、対外戦争への突出策は「謀略による機会の作成」以外にはない。つまり、満蒙領有とは謀略による領有計画である。
・ 最後に重要なのは、戦争は満蒙だけでは終らないということである。対米世界最終戦を見据えた上で戦争計画を考えるならば、人口の点から見ても、資源の点から見ても、満蒙だけでは不十分なことは誰の目にも明らかであり、支那(中国)要都の領有、さらには東亜全体のスケールで自給する戦争経済を考えなければならない。

 このように石原莞爾は一貫して対米戦争戦略を構想し、何がなんでも戦争を始めなければならず、始めたその戦争は拡大し続けなければならない、と確信していました。
 その石原莞爾は、1928年10月、かの張作霖爆殺事件(28年6月)の首謀者・河本大作の退いた後を埋めるかたちで、関東軍に赴任してきました。階級は中佐、所属と地位は参謀作戦主任でした。また、その翌29年5月、板垣征四郎が関東軍大佐の身分で、高級参謀の任に就きました。すなわち、柳条湖謀略事件の主役として出てくるべき人が出てきたということです。ただ、戦争の主体的理論が現実に迫るだけでは十分ではありません。現実の方から戦争主体の側へと迫ってくるものがなければ、なにかの動きとなるとか、新しい事態なり局面が生まれるとか、そういうところまでは行かないものではないでしょうか。ここで、迫り来る現実の方を見ておきましょう。

 注目すべきは、国際的な経済と政治(軍事)の動きです。一つは、1929年10月の「ウォール街の株式大暴落」がキッカケで始まる「世界恐慌」です。いま一つは、1930年の1~4月にロンドンで開かれた軍縮会議における、米国の日本に対する圧迫です。
 世界恐慌は日本に波及し、企業が倒産し、大量の失業者が巷に溢れ、農村は農産物価格の下落、豊作飢饉で、その疲弊は極に達します。国全体を覆う不況の暗雲は32年頃まで晴れることはなく、いまもって昭和恐慌の名で呼ばれています。そこへもってきて――すでに紹介したように――ロンドンの海軍(補助艦艇に関する)軍縮会議では、米国が「ワシントン体制」の “網の目を詰める” ようなやり口でもって、日本を追い込んできたのでした。日本はまるで “追い込み漁でもって追いつめられる魚” 同然だったのではないでしょうか。はたして活路が満蒙以外にあったのかどうか、疑問です。
 その満蒙はどうなっていたか。
 1930年4月、張学良が満鉄並行線の建設を始めるかと思うと、同年の翌5月には、蒋介石も新鉱業法を制定しました。いずれも日本企業の経営を圧迫します。満鉄付属地在住の日本人百余万の生活は危機にさらされます。夢を描いて乗り込んだ満州だけに、その忿懣はもっていくところがありません。

 明けて1931年を迎えても、暗雲は厚くなるばかりで、いっこうに晴れ間が見えません。その1月23日、ついに前満鉄副総裁の松岡洋右(立憲政友会選出の衆議院議員)は「満蒙は日本の生命線なり」とぶちあげました。民政党内閣(幣原外相)の軟弱外交を批判し、満蒙問題の武力解決を主張するのが、その内容でした。
 満州は物情騒然たる様相を呈してきました。林房雄は書いています、「父張作霖を爆殺された張学良は蒋介石の国民党に入党して、満州に青天白日旗をひるがえして、隠然または公然と「反日侮日政策」を継続し、日本側の被害は百件を超え」るに及んでは、在満日本人の多くは「関東軍の奮起の一日も早からんことを待望」せずにはいられなかったであろう、と。
 とりわけ、同じ31年の7月2日、満州万宝山で水田開発をめぐり朝鮮人農民と中国人農民・官憲が衝突し、それがさらに朝鮮各地に飛び火し、中国人への報復暴動と化し、各々百人近い死者・重傷者を出しました。それだけではありません。この事件のおよそ1か月前の、5月27日、北満州興安嶺方面を密偵中の参謀本部の中村震太郎大尉ほか1名が中国兵に逮捕、射殺されていたのでした。ただ、関東軍としては自軍の情報将校が射殺されているのですから、できれば公にはしたくなかったのかもしれません。事件が公表されたのは、3か月近くも遅れた8月17日のことだったそうです。
 満蒙がいきおいキナ臭くり、事態がどのように動くか予断を許さない展開となってきました。年表を開いて1931年の8月のあたりを見てみると、たとえば、次のような記事が目に入ってきます。
 8月4日 南次郎陸相が軍司令官・師団長会議で満蒙問題の積極的解決を訓示。軍の外交関与として問題になる。
 8月5日 上野と日比谷で「対満蒙」強硬策を主張する国民大会開催。全国運動へ口火を切る。

 柳条湖謀略の首謀者たちは、ひしひしと迫り来る現実を身体で感じていました。いよいよ決断しなければならない、その時が来た、と。

 これからあと、謀議から決行に至るまでの紆余曲折、謀略決行、そして直後の混乱、その収拾、などについて順を追って見ていきたいと思います。
 事の始まりは、1931年5月31日の謀議でした。板垣、石原のほか、花谷と今田の4名で「満鉄攻撃の謀略」を決意し、6月8日には「奉天謀略に主力を尽くす」点で合意し、決行は9月下旬――27日か28日か――と決しました。
ところが、9月に入ってから、その初め頃に、誤算が生じました。東京の外務省に、ある情報がもたらされたのです。 “関東軍の少壮士官のあいだに、満州で事を起こす計画あり” というのがその情報です。幣原外相は、9月5日、現地・奉天領事館の林久治郎総領事に注意喚起をうながします。元老の西園寺公望も情報を得たのでしょう、陸軍の動きを危惧して昭和天皇に上奏します。昭和天皇は、11日、陸相南次郎に軍紀に関する下問を行ったと記録されています。14日、陸軍中央の首脳たちはというと、部長クラスの人間を現地に派遣して、現場の動きを牽制するなり自重させるなりすれば、なんとか抑えこむことができるのではないか、と “事勿れ主義” を決め込んでいたかに察せられます。
 ところが、石原・板垣らも、東京の陸軍中央の動向を察知します。そして、計画の中断を恐れて決行を10日くり上げます。柳条湖謀略の決行は9月18日夜と決します。決した以上は、直ちに準備行動です。行動開始は15日だったらしい。根拠は、この日に林総領事が幣原外相へ宛てて緊急情報を打電しているからです。その電文は、たとえば、以下のようなものだったと思われます。「関東軍、集結ヲ開始セリ、武器弾薬資材ヲ搬出中、近ク軍事行動ヲ起コス形勢ナリ」。

 そして事件は起こりました。その概要は冒頭に紹介した通りです。なるほど、爆破した線路の長さそのものはごく小規模でしたが、首謀者にすれば、破壊は、それ自体が目的なのではなく、単なるキッカケ作りという位置づけでしたから、別言すると、武力でもって満州へと突出する際の入り口を開けてしまえばそれで十分なのですから、謀略は成功したと言ってよいと思います。それなりの爆薬を仕掛ければ日本人乗客を巻き添えにしたかもしれず、それを避けることができたのですから。
 板垣参謀(軍司令官代行)の命令によって出動した関東軍は、18日午後11時15分、北大営(奉天市北郊外、中国兵7000人駐屯)を包囲攻撃しました。張学良は絶対無抵抗主義でもって応じ、全軍が撤退したので、北大営は難なく日本軍の制圧下に入ったとのことです。東京の陸軍中央ヘ向けて第1報――もちろん事後報告です――を発したのは、日にちを跨いだ翌19日の午前1時7分、発電者は奉天特務機関の花谷少佐(柳条湖謀議首謀者4名の中の1人)です。
19日午前1時半頃、事前の計画通り石原命令案が出ます。
① 関東軍各部隊は攻撃対象・占領地を拡大せよ
②朝鮮軍(林銑十郎司令官)に来援を要請する(この場合は越境出兵ですから、もちろん天皇の統帥権にふれますが、端から無視してかかっています)。緒戦も緒戦、この19日いち日で関東軍は、満鉄沿線および満州南部における主要都市のほとんどを占領したのでした。

 では、東京の日本国政府はどうなっていたのでしょうか。
19日午前7時、各首脳が参集してきて閣議が開かれます。若槻礼次郎首相は南陸相に質します。関東軍の行動は「自衛」の行動なのか、それとも「陰謀」なのか、と。それについて幣原外相からは、「陰謀」の疑いが濃厚であるとの情報がもたらされ、閣議は「事変不拡大」の方針を決めて散開します。閣議決定が出た以上、陸軍中央としては「旧態に復する必要あり」と訓電するしかありません。
 しかし、「作戦部」の若手は首脳部の言うことを聞きません。 “矢は既に放たれたり” として、「旧態復帰反対=現状維持」を主張します。陸軍の中は紛糾をきわめます。その混乱の中、同じ19日の夕刻6時頃、関東軍から陸軍中央へ宛てた電報が届きます。関東軍は帝国陸軍に対して、全満州への軍事展開を主張し、かつ3個師団の増援を要請しているのです。20日の朝10時、陸軍首脳は三者会談を開いて、「旧態復帰断乎阻止=現状維持」の方向で内部結束をはかり、政府への対決姿勢を鮮明にします。一方、内閣を構成する大臣の多くは「旧態復帰=不拡大方針」の立場をとっていたわけですから、混乱は収まるはずがありません。陸軍と内閣との間のやりとりは膠着し、内閣は窮地に陥ります。

 そうした対立状態の中で開かれた21日の閣議では、南陸相から問題提起がありました。その一つは、関東軍を吉林省へ派兵することの可否を問う問題です。これには、ほとんどの閣僚が、「吉林」派兵に限るとの条件付きで、不本意ながらの承認を与えざるをえなかったようです。陸相が提起した問題は、もう一つありました。関東軍への援軍として朝鮮軍を派兵することの可否、がそれです。派兵すべしとの立場は若槻首相のみで、あとの閣僚は全員が派兵の必要なしとの立場でした。この議論の最中の午後3時半ごろ、まるで仕組んだように、朝鮮軍から参謀総長宛の電報が届き、陸相より閣議のその場で報告されました。電文は、林銑十郎朝鮮軍司令官の命令による独断越境の開始を伝えていました。すでに部隊は鴨緑江を越えて関東軍の指揮下に入った、とのことです。これはもう完全に天皇の統帥権を侵しており、陸軍刑法では死刑に相当する重大な軍令違反です。若槻首相としては、天皇への奏上などもってのほかです。できるはずがありません。

 翌22日、奏上の決心ができないまま参内した若槻に対して、昭和天皇は、元老の西園寺あたりから非公式に伝えられていたのかどうか、「政府の事変不拡大方針は至極妥当である。その趣旨を徹底するよう努力せよ」と、お言葉をかけられたとのことです。
 いったい何がどうしてどうなったのか、ぼくなんかには、まったくわかりません。昨日からすったもんだしていた、例の問題はそもそもあったのかなかったのか、もしかしてなかったのではないか、のごとき扱いです。
 案の定、この日の閣議では、くだんの朝鮮軍独断出兵について、賛成であるとか異論があるとかの意見はなに一つ出ず、朝鮮軍の出動という既成事実を事後承諾し、そのための戦費支出も承認し、朝鮮軍の独断越境も正式派兵と認めて辻褄を合わせたのでした。

 要するに、「うやむや」が一番、ということなのでしょう。事の成り行きをはっきりさせないままにしておく。責任の在り処をあいまいにしてしまう。事の真相をあえて究明しないことにする。したがって責任の所在というものは初めから「ない」ことにしてしまう。
 真相とか責任とか、そういうのは苦手で、可能なかぎり逃げるか、すり替えるか、ごまかすかして、事実に直面しないように知恵を働かせる。そういう残念な――こうは書きたくないけれど「卑怯な」身の処し方は、ぼくを含む日本人によく見られる傾向なのではないでしょうか。

上記に見たように、東京の権力中枢は、内閣も陸軍中央も、ただおろおろと現地・関東軍のあとを追いかけているだけでしたが、関東軍の方は事を仕掛けた側ですから、計画通りに謀略を成功させ、満州全土へと事変を拡大させていくことができました。関東軍のこの緒戦における成功の裏には、東京の「桜会」(「内先外後」主義・いわゆる内政派・陸軍少壮将校の革新団体) の尽力があった、とされています。
 尽力とは、「桜会」が東京における関東軍の “秘密参謀本部” として機能したことを指します。 “秘密参謀本部” とは、参謀本部第二部に属するロシア班で、班長は橋本欣五郎中佐(当時43歳)、班員は小原重孝大尉、田中弥大尉、天野勇中尉らから構成されていたと言われています。彼らの活躍について林房雄は、中野雅夫氏の編著に拠りながら、現地関東軍と東京陸軍中央との間のやりとり(電報)を中心に、解説しています。長文になりますが、そのまま引用して示します。

 ――板垣征四郎大佐は陸軍大臣の制止に対して、
「いたずらに消極的宣伝戦に没頭することなく、千載一遇の好機に乗じ、敢然として満蒙問題の解決に邁進するを要す………区々たる悪宣伝のごとき毫末も恐るるにたらず。」
 という反抗的電報を打ちかえし、ついには「軍は一定の任務に基づき行動せるものなり、一々参謀本部の指令を受くるに及ばず」という反乱に等しい電報まで打ってきた。
 何が一参謀にすぎない板垣にこのような自信を持たせ、政府と軍中央を無視して事変を拡大させたのか?
 これについては、最近発表された『橋本欣五郎の手記』の編者・中野雅夫氏がはなはだ興味ある説明を加えている。(以下は『~手記』から)
「陸相も参謀総長も当時はうかつにして知らなかったが、このとき参謀本部内に<別箇の秘密参謀本部>ができていたのである。別箇の参謀本部は板垣征四郎との間に独自の暗号を持っていて、金谷総長が『事変不拡大』を関東軍に打電すると、『参謀本部軍事行動停止命令は閣議に対する体面上の事にして、その意志は軍事行動を停止せしめんとするものにあらず』と打電していた。
 総長が朝鮮軍の越境を阻止すると、『総長の命令に従う必要なし、直ちに越境して関東軍を増援せよ』という別命令を出していた。
 この暗号電報は露見を警戒して軍の通信を用いず、東京、品川、浅草などいちいち発信局を変えて郵便局から打電していた」
「しかも<別箇の参謀本部>は、軍首脳部や政府がことごとに関東軍の行動を制止妨害する態度にでるので業をにやし、在京の青年将校三百名を結集してクーデターによる政府転覆を試みるに至った。そのため兵力二十三箇聯隊を動員、機関銃六十丁、飛行機、爆弾、毒ガスまで準備して軍首脳、政府、重臣、財閥、官僚の殺戮監禁を計画した。いわゆる錦旗革命と称される十月事件クーデターである。事件は決行寸前に露見して関係者は逮捕されたが、これを知った関東軍は陸相と総長に対し、
『吾人は君国のため、満州において粉骨砕身活動しつつあるも、日本政府は事ごとに吾人を掣肘し大業を完成するを得ず、ここに関東軍は光輝ある皇軍の歴史を破り、帝国より分離独立するに至る』
と独立宣言を発して、関係者の処分を牽制した。政府も軍首脳も驚愕戦慄して、対策を失った。」
 解説のこの部分だけを読めば、これは完全な反乱であり、未発に終わった軍部革命計画である。」

 林はこの引用文のあとで、東京「桜会」の首領・橋本欣五郎中佐の、危機感あふれる憂国のアジテーションを長く引用しています。が、ぼくはそれをここに示すことをしません。彼ら、いわゆる「内政派」の革新軍人が、「柔弱なる政党者流の政権」に「外部処理能力なし」として、「先ず強力な政府を建設」し、然る後に「外政に及ぶべし」とするのは、理屈としてはわからないわけではありませんし、1930年の9月、「桜会」を結成して、国家改造のため武力行使を辞せずと決議するのも、それはそれでよいと思うのですが、なにしろ実行が伴わなかったからです。
先ず最初の、1931年3月20日に企てた「三月事件」において、橋本欣五郎ら桜会の一部将校と大川周明らは、軍部クーデターによる宇垣内閣樹立を目指しましたが、事前に情報が漏れ、上層部に説得慰撫されて未遂に終った、とされています。
 また、いま引用したばかりですが、1931年10月17日の「十月事件」においても、橋本欣五郎、大川周明らは、軍部内閣樹立を目指しますが、計画が発覚、首謀者は憲兵隊に軟禁されて未遂に終っています。
 こんな調子では、口が達者なだけの “口舌の徒” 呼ばわりされても抗弁できないのではないでしょうか。「やれもしないことを」と冷笑されても、事実そうなのですから。他人事でなくぼく自身も、こんなふうに書くこと自体、ためらわれるのですが。

 林房雄『肯定論』の、彼らに対する評価は、ぼくみたいに冷淡ではありません。林房雄という人はやはり、既成の権力に弓を引く反逆者の側に味方しないでおれないタチなのでしょう。彼自身の文章を読んでください。まず「昭和維新」について、次に「明治維新」についての彼の評価は以下の通りです。
①「当時の革新派の少壮軍人と浪人学者たちは、「昭和維新」の名において、これら(軍部中央、政府、政党、官僚、財閥、資本家、主要言論機関など)の諸勢力を一括して「幕府的存在」と見なして敵視し、その打倒を企てていたのである。」
「「錦旗革命」と「昭和維新」の計画も、明治維新と同じく武士団(軍人)の内憂外患意識から生まれ、民間学者(例えば北一輝、大川周明など)と浪人団(例えば岩田愛之助の一党、井上日召の血盟団、前田虎雄の神兵隊など)と結び、相呼応して国内体制の改革を企てた。その目的は米英を敵とする決戦体制を確立することであった」と。
②「明治維新における主導力は尊皇派の学者と武士団(必ずしも下士階級だけとはかぎらない)と浪人であったが、薩摩の森山棠園(とうえん)父子、長州の白石正一郎のような商人も動き、武州の渋沢栄一一族や福島の河野広中兄弟のような富農も動き、医者も僧侶も神官も動いた。そればかりか、島津斉彬をはじめ松平慶永、伊達宗城その他多数の藩主、諸藩家老級の上司たちも志士の国内改革を援助し、幕府方にさえ、勝海舟に代表される革新派は少なくなかったのである。」

 結局の話、内憂外患の危機意識に燃える人びとが、武士であれ・軍人であれ・学者であれ・浪人であれ・商人であれ・農民であれ、在朝在野の別なく “オール・ジャパン” で起ちあがり、時代を革新する__まさに、それこそが「維新」の戦いだと、林房雄はそう言いたいのだと思います。しかし、こういう感じ方はキレイ事に過ぎるのではないでしょうか。人びとの戦いを「外から傍観する」とか・「上から俯瞰する」とか・「後から整理する」とか、そういう目で見ると、たしかにそういうふうにも見えもするのでしょうが。
 歴史の事実は、そんな甘っちょろい総括になじまないと思います。今回の柳条湖謀略事件で見てきたように、人びとの戦いは、もっと生々しく、苛烈かつ醜悪で、耳目を覆いたくなる__そういうことのほうが本当の姿に近いのではないでしょうか。
上述の部分を読み返してみてください。とてもじゃないが、正気の沙汰では言えないようなことを言っていますし、やってきたのです。
 柳条湖謀略事件の場合で言うと、関東軍の板垣・石原は公然と、橋本欣五郎らは隠然と、陸軍中央・政府内閣など既存の組織(権力・秩序)の中に、それとは別に独自の組織(権力・秩序)を作って二重権力状態に持ち込み “旧権力を利用しながら” あるいは ”旧権力を当てにしながら” 、まさかそんなことはないと思うけれど、ひょっとして ”旧権力の温存・延命を願いながら” 自己権力を形成し行使する___そもそも、そういうやり方だったのではないでしょうか。

 「小が大を呑みこんで・呑みくだしてしまう」「ヒエラルキーの下位の者が上位者をおしのけて・かつての上位者にとって代わる」というのなら、それこそ、まさしく「下剋上」です。この国の歴史でも、かの戦国時代にはこの種の権力闘争が普通に戦われていたのだと思います。これこそ、まさに権力奪取そのものであり、誰だって史実を見ればわかる話だと思うのです。
 しかし、革新軍人の昭和維新だとか謀略事件とかいうのは、たしかに下剋上に似てはいるけれども、どうもそうとまでは言いきれないのではないか、 ”擬似” 下剋上と言うか、そういう感じがしてならないのです。だって、旧秩序・旧組織の頂点にあった権力者たちを皆殺しにするとか、そういうことはしていません。旧権力の在り処を襲って残らず破壊してしまうとか、そういうこともしていません。「あいつらを排除して、わしらがやる」と口では唱えても、ストレートにはなかなかそういう話にはなっていません。
 自分らが権力を奪取して、自分らが権力そのものになって、その責任をとる、統治する、という話にはなかなかなりそうもない――その、なりそうもないやり方で、ぼくらの国はやってきたのではないでしょうか。この国の人間はみんな誰しも、正直に言うと、「権力なんてとんでもない、責任なんてご免こうむる」というふうに思ってきたのではないでしょうか。
 権力の根拠とか、最終責任の所在とか、そういうのがあるのかないのか。あることにはなっているけれど、実はないのかもしれません。 あるいは、有るにしろ無いにしろ、究極のところはわからないような ”仕掛け“ になっているのではないでしょうか。

 ヒエラルキーの下位にある反逆者たちの、権力に対する感覚が、この程度のものであるとすれば、権力者たちも、逆らう反乱分子を徹底的に弾圧し、粉砕してしまうなんて、そんな度胸が生まれるわけがありません。それどころか、今現に天皇の統帥権を侵した軍人がいるというのに、その軍人を処罰することができない。国家権力が自らを維持するために最低限しなければいけないことさえできないのですから! 
 このことひとつをとっても、それだけで、権力の体をなしていないと言わざるをえません。組織としてすでに解体してしまっています。話にも何にもなるものではありません。だから、慰撫するとか、説得するとか、そういう情にからんだ話になるほかはなく、 “うちの奴らはやんちゃが過ぎる、持て余すわなぁ” などと言ってお茶を濁し、後はうやむやにしてしまう。そういう流れが、わが国では左右の別なく、一般だったのではないでしょうか。というか、これが “日本式の権力闘争” というものなのなのかもしれません。

 こういう自虐的な――逆説めいていて恐縮ですが、石原慎太郎自身の性癖でもある――愚痴を書いていても詮ないことです。最後に、年表を見ながら満州事変のその後をたどっておきたいと思います。

 若槻礼次郎内閣の不拡大方針にもかかわらず、関東軍は戦線を拡大します。
 1931年11月には黒竜江省チチハルを占領、翌32年1月には錦州(張学良仮政府所在地)を占領、さらに同年翌2月にはハルピンを占領し、その勢いのまま同年翌3月に満州国の建国を宣言します(日本の満州国承認は同年9月)。この頃の世論は、関東軍を熱狂に支持し沸騰したと記録にあります。
 では、敵・米国は関東軍の戦線拡大をどのように見ていたでしょうか。また、米国主導の国際社会(国際連盟)はどのように動いたでしょうか。
 上記のように、1932年1月、関東軍が張学良の本拠・錦州を占領するや否や、米国は即座に日本を非難して主張します。「日本の行動は自衛権の範囲を超えている。パリ不戦条約・ワシントン九か国条約に違反した既成事実は認められない」と。
 米国のこの対日非難を受けて国際連盟は、同年翌々月の3月__同じ3月の満州国建国宣言よりも前に__満州問題調査のためと称して、英国のリットン卿を団長とする調査団を現地に派遣します。そのリットン調査団が日本政府に調査報告書を通達したのは、同32年の10月のことでした。報告書はもちろん、「満州事変を日本の侵略行動」と断定しています。
 1933年2月24日、国際連盟はさらに日本追撃の手をゆるめず、日本軍の満州撤退勧告案を42対1で採択します。松岡洋右日本代表は退場せざるをえませんでした。この松岡洋右こそ、2年前の1931年1月23日、議会において「満蒙生命線」論をぶちあげ、満蒙問題の武力解決を主張した、当の人でありました。
 この後の日本の選択肢は、国際連盟の脱退以外にはありません。脱退の詔書が発せられたのは、同33年3月27日のことでした。

 石原莞爾は、柳条湖謀略事件を計画する以前から米国を狙っており、近い将来における米国との争覇戦に勝利することこそが軍人・石原莞爾の使命なり、と意を決していました。戦略のターゲットは、つねに米国だったのです。
 他方、新世紀を迎え日露戦争を解決した米国も、太平洋戦略のもと、つねに日本に照準を合わせていました。満蒙であろうが、支那であろうが、東亜の国々、南洋の島々であろうが、どこまでも日本を追尾し、殲滅せずにはおかない、と決意していました。
 結果は、米国の勝ちでした。原因は、戦争を見る目の高さの違いだと思います。世界戦略を争う際のコントロール・タワーの高さが、日本よりも米国のほうが、残念ながら高かった、それも比べものにならないくらい高かった。それだけの話です。
 「それだけの話」と書くと “引かれ者の小唄” めいて、これはこれで腹立つわけです。
 また、ぼくらは常日頃から、物事を戦略的に考えるのが余り得意でないし、そういう癖が身についていないしなぁ、と思ったりもし、それはそれで腹立たしいわけです。

 さらに、それだけではないだろう、と突っ込まれると、自信がありません。ほかにも弱点はありそうな気がします。例えば、先にも書いたことですが、満蒙問題の強硬解決の立場から軍国熱を煽る、軍国の空気を入れてバンバンに気圧を高めると、どうなるか。なにしろ、空気を読むことが推奨される社会ですから、その軍国の風に圧され、巻き込まれてしまうのがオチではないでしょうか。
 しかし、こういうときに求められるのは、逆に、その場の空気・風圧を避けて、距離をとり “自分自身の目” で物事を見ることだと思うのです。ところが、ぼくらはこれがあまり得意でないと思うのです。そのこと自体は仕方がないとしても、そういうふうな目を養う、あるいはそういう目の貴重さを認める、そしてその方向へ持って行く必要があるのではないでしょうか。

 こう書くと、ぼくら日本人のメンタリティがいかにもネガティブに見えてしまうかもしれません。しかし、そうではないと思うのです。よくないところがあって残念だからこそ、このように書くのですが、それは、よいところが一杯あるからこその話です。
 たとえば、ということで、最後に、ぼくらが誇りとする人物の話を紹介して終りたいと思います。その人とは、ほかでもありません、石橋湛山です。
 当時、新聞に煽られた国民が関東軍の満蒙進撃に熱狂しているさなか、石橋湛山は冷めた目で歴史の真実を見抜いていました。彼はその頃の「東洋経済新報」に書いているそうです。「中国国民の覚醒と統一国家建設の要求はやみがたきものであり、力でそれを屈服させることは不可能だ」と。
 これだけの見識と勇気の持ち主を、ぼくらは先輩にもっているのです。これから、まだまだやれると思います。