たけもとのぶひろ(第14回)

硫黄島・栗林中将の戦い(4)

 戦争という名の殺し合い、その醜悪な事実を語るのに、「潔く散る」などと美化してはいけない。このことをかなりしつこく主張してきた。 “屋上、屋を架す” のおそれをなしとしないが、今一度、この問題を正面に置いて再論したい。
 というのも、潔く死ぬことのほんとうのところはどういうことなのか、必ずしもつきとめたわけではないし、その対極にあったとされる、栗林中将指揮下の将兵たちはどのような戦いのなかで、どのような死を遂げたのか、この点についてもいまだ紹介していないと思われるからである。

 「潔い立派な死」とは、思い切りがよくて立派である、そういう死を指すという。「思い切りがよい」とは、あきらめが早く、ためらいを振り切って直ちに決断することを意味する。
 また「立派」とは、どこへ出しても恥ずかしくない、だれが見ても疑う余地がないことを意味する。つまり、生への執着をさっさと断ち切って「男らしく」死んで「見せる」こと、それこそが「潔い立派な死」なのだ。死にたくないなどと往生際の悪いことを言うのは、男らしくない、立派でない、つまり潔くないのであった。
 また、死んで「見せる」のであって、ただ単に独り死ぬのではない。他者が見てくれないと、「潔い死」は成立しない。見てくれる第三者がいて、その人たちが “どこへ出しても恥ずかしくない、だれが見ても疑う余地がない“ とほめてくれる。そういうギャラリーの存在が、潔さの成立条件なのではないか。 ”見てもらって、ほめてもらって、なんぼ” の世界にすぎないものを、よくもそれだけ綺麗に飾り立てることよ、などと思う。
 だって、あきらめが早いとか、思い切りがよいとか、ためらわず直ちにとか、言っても、それらはただ単に、よく考えずにものごとをする「軽卒さ」を意味するに過ぎないこともあるだろう。それどころか「軽挙妄動」の類いかもしれない。
それを「潔い」とか「立派」とか「男らしい」「勇ましい」などと持ち上げてきた輩には、もともと胸中によからぬ魂胆があってのことではないのか。早い話が、嫌がる兵隊をむりやり戦場に引きずり出して、そこで死をも厭わず戦ってもらう必要があり、その必要を満たすために、なんのかんのと値打ちをつけてきただけではないのか。
 そもそも出どころ自体がこのように胡散臭い話なのに、その話にまんまとひっかけられて “勇敢に戦って潔く散る” などと自らをけしかけてきたのではないか。あたかも “死ぬ” ことを目指しているやに聞こえはしないか。死ぬのは敵であって、我がほうは生きて戦うのだろうが。敵の生命を否定するのが戦争であって、自らを「生の否定」の対象にしてどうするのだ。

  潔く死ぬのが武士の美学だなんて、冗談も休み休み言え。美学が聞いて呆れる。
 「自分たちが見捨てた島を、2万将兵の死をもって守り抜けと命じる大本営」である。その大本営が将兵たちに向かって、「文句も泣き言も言わず、すべてを飲み込んで黙ったまま散っていくのが軍人の美学である」ぞよ、などとほざいている。
 この言い草は、大本営は将兵の側に文句もあれば泣き言もあることを承知していることを意味する。そのすべてを飲み込んで死ね、黙って死ね、と言っている。それが美学だ、と。
 兵士たちの言いたいことの中にこそ、戦場の真実、現実の内容、物事の中身があるというものではないのか。それらのすべてを封印したまま死んでいくことの、いったいどこが軍人の美学に当たるのか。それを “軍人の美学“ と言うとはなぁ!

 ならば、”大本営の美学“ のほうはどうなるのか。梯さんは栗林中将になり代わって、彼らの美学の醜悪かつ卑劣な本質を次のように弾劾してやまない。曰く。
 「硫黄島は、軍中央部の度重なる戦略方針の変化に翻弄され、最終的に孤立無援の状態で敵を迎え撃たねばならなかった戦場である。
 当初、大本営は硫黄島の価値を重視し、それゆえに2万の兵力を投入したはずだった。それが、まさに米軍上陸近しという時期になって、一転『価値なし』と切り捨てられたのである。その結果、硫黄島の日本軍は航空・海上戦力の支援をほとんど得られぬまま戦わざるをえなかった。(中略)
 2万の生命を、戦争指導者たちは何と簡単に見限っていたことか。
 実質を伴わぬ弥縫策を繰り返し、行き詰まってにっちもさっちもいかなくなったら『見込みなし』として放棄する大本営。その結果、見捨てられた戦場では、効果が少ないと知りながらバンザイ突撃で兵士たちが死んでいく。将軍は腹を切る。アッツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。その死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を『美学』で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなかったのではないか。」

 これこそが、我が日本軍指導部の、嘘も隠しもない真実であった。彼らはたんなる空威張り、空虚、空疎、空っぽなのであって、「形」はあっても中身は何もなかったのだ。しかし、それにしても、彼らのその「形」は、いったい何によってその正統性を担保されていたのであろうか。彼らが身を守る “盾” としていたものといえば、見てもらい聞いてもらってなんぼの、 “外から見た形だけの美学” 以外に何があっただろうか。それ以外に何もない、この惨憺たる有り様を目の前にするときの、ぼくらの気持ちは、いったいどういう言葉をもって表現すればよいのであろうか。
 「怒り」というのが、ぼくの場合、感情としていちばん近い気がする。しかし、怒りにもいろいろある。たとえば、「怒り心頭に発する」というのとはちょっと違うと気がする。
 安いアタマの中を隅々まで探しまくって、ようやくコレかな? というのを見つけた。それは、瞋恚(しんいorしんに)。 辞書には、「自分の気持ちに反するものに対して激しく怒ること」(新明解)「自分の心に逆らうものをいかりうらむこと」(広辞苑)とある。後者には、仏教がこの怒りをどう見ているかの指摘があって、善根を毒する三種の煩悩の一つだという。ちなみに「三毒」とは、貪欲、瞋恚、愚痴を指すとある。仏教が何と言おうと、ぼくの感情としてはコレがいちばん近い。これで尽くせるわけではないのだが。

 「大本営の美学」批判をもう一歩先に進めるかのように、梯さんは、上記の引用文のすぐあとで次のように述べている。
 「栗林は、美学ではなく戦いの実質に殉じる軍人であった。硫黄島という極限の戦場で栗林がとった行動、そして死に方の選択は、日本の軍部が標榜していた美学の空疎さを期せずしてあぶり出したといえる」と。
 ぼくが注目したのは、「栗林は戦いの実質に殉じる軍人であった」という、この一文である。
 「殉じる」とは、「ある物事のために自分の生命を投げ出す」(広辞苑)ことを意味する。
 人の命を取るほどの「ある物事」とは、たとえば武士道の美学や天皇制の大義であったり、卑近な例では、共産主義革命とかキリスト教(十字軍)とかイスラム教などの正義であったりする。ところが、わが栗林中将は、これらの――司馬遼太郎的に言うと――揮発性の高い観念には見向きもしない。

 彼が自分の生命を投げ出す対象は、「戦いの実質」だという。
 戦いのなかから燃え上がってくる観念とか、戦いにまとわりついて人の目を眩ませる教義とか、その種のものではなくて、「戦いそのものの実質」。別の言い方をすれば、「戦闘の内実」あるいは「戦場の現実」と言ってもよいのではないか。要するに、戦争現場の実際の内容を、敵軍に不利にし、自軍に有利にする、そのために自己の生命を投げ出す。自軍を守り敵を斃す戦いに殉じる。栗林指揮官の信念は、単純に言えば、これだけのことだったのではないか。
 これだけのこと、と言っても、それは容易に為せる業ではなかった。自分はもちろん、自分の指揮下にある2万余の将兵をして、「戦いの実質」に殉じさせなければ戦いにはならない、そう栗林は確信していたに違いない。かく戦うために栗林指揮官は、二つのことをした。一つは、「敢闘の誓」の作成と全軍への配布である。いま一つは、「膽兵の戦闘心得」による具体的な実践指導である。以下において、それぞれを見ておこう。

 「敢闘の誓」は次の6項目を誓っている。
 一 我等は全力を振って守り抜かん。
 二 我等は爆薬を抱いて敵の戦車にぶつかり之を粉砕せん。
 三 我等は挺身敵中に斬込み敵を鏖し(みなごろし)せん。
 四 我等は一発必中の射撃に依って敵を撃ち仆(たお)さん。
 五 我等は敵十人を斃(たお)さざれば死すとも死せず。
 六 我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん。 

 朝礼のときなどに全員で、一つ何々、一つ何々、などと唱和していた風景が目に浮かぶ。最初配布したのはガリ版刷りの文書であったようだが、兵士たちのなかにはのちに自分の手帳に書き写した者もいたのであろう、「文字づかいや表現が微妙に異なる」文書が発見されているという。米軍上陸を迎え撃つまでの8か月、兵士たちはこの誓いの6項目を繰り返し読み、心に刻み込んだ。これらの言葉が、いかに兵士たちを鼓舞し支えたことか、二つの証言を紹介する。
① まず日本側。遺骨・遺品の収集に尽力した安藤富治の手記は、兵士たちが「この誓いを信条として、身の朽ち果てる後までも離さなかった」のであろう、と述べている。
② 次に米軍側。海兵師団報道班員として参戦した「ビル・D・ロスは、著書『硫
 黄島 勝者なき死闘』の中で、栗林のこのスローガンがいかに日本兵たちに浸
 透していたかに触れ、海兵隊は「敢闘の誓」の紙片を、硫黄島のどこででも
 ――まず海岸沿いの塹壕で見つけたのを皮切りに、洞窟でも、トンネルでも、
 トーチかでも、死んだ敵兵の遺体の上でも――発見できた。と書いている。」

 これら誓いの言葉は、なぜ日本軍将兵の一人ひとりの心に届いたのか、どうして届けることができたのか。
 梯さんは、この誓いの各文章が、軍指導部の命令や指示ではなく、兵士自らがする誓いの言葉として提起されたからだとして、次のように述べている。
 「これは命令や指示ではなく『誓い』である。
 栗林はここで、”兵は~すべし“ ではなく “我等は~せん” という表現を使っている。自分たちは強いられてではなく、みずからの意志で戦い死んでいくのだ――そんな覚悟と誇りを植えつけることで、陣地構築作業に疲れ切った兵士たちの士気を保とうとしたのである。
 結果を言えば、2万余の将兵はまさにこの「敢闘の誓」通りに戦った。見事とも、無惨極まりないともいえる戦い方である。それは米兵たちを震撼させた」と。
自らを恃む、その自分の内面なくしては生まれえない「覚悟と誇り」。それこそが、日本軍兵士の、自らが拠って立つべき心の支柱だったのではないか。
 そこのところ以外は、すべての逃げ場がふさがれている状況なのである。活路は自分の中にしかない。そのことに気づかせてくれたのが、栗林指揮官の「敢闘の誓」だったのではないか。 “我等は~せん” と自らに言い聞かせて戦いに立つ、それ以外にないというのが彼らの覚悟であったし、死ぬしかない、その過酷な戦いを自らに課することができる、それが彼らの誇りだったのではないだろうか。

 しかし、「覚悟と誇り」だけでは戦えない。2万余の将兵をして「戦いの実質」に殉じさせるには、戦いの現場において、どのように戦えばよいのか、どのように戦ってはいけないのか、具体的な実践指導がなされなければならない。それが、いま一つの、「膽兵の戦闘心得」による具体的な実践指導である。梯さんの引用とそれに関する若干のコメントを以下に示す。
 「訓練において、栗林はきわめて実践的な指導を行なった。栗林が作成・配布した「膽兵の戦闘心得」(膽は師団につけられた文字符で一種の暗号名)を全文引用してみる。
 <戦闘準備>
 一 十倍の敵打ちのめす堅陣とせよ 一刻惜しんで空襲中も戦闘中も
 二 八方より襲ふも撃てる砦とせよ 火網に隙間を作らずに 戦友斃れても
 三 陣地には糧と水とを蓄えよ 烈しき砲撃、補給は絶える それも覚悟で準
   備を急げ
 <防御戦闘>
 一 猛射で米鬼を滅すぞ 腕を磨けよ一発必中近づけて
 二 演習の様に無暗に突込むな 打ちのめした隙に乗ぜよ 他の敵弾に気をつ
   けて
 三 一人死すとも陣地に穴があく 身守る工事と地物を生せ 偽装遮蔽にぬり 
   なく
 四 爆薬で敵の戦車を打ち壊せ 敵数人を戦車と共に これぞ殊勲の最なるぞ
 五 轟々と戦車が来ても驚くな 速射や戦車で打ちまくれ
 六 陣内に敵が入っても驚くな 陣地死守して打ち殺せ
 七 広くまばらに疎開して 指揮掌握は難かしい 進んで幹部に握られよ
 八 長斃れても一人で陣地を守り抜け 任務第一 勲を立てよ
 九 喰わず飲まずで敵撃滅ぞ 頑張れ武夫 休めず眠れぬとも
 十 一人の強さが勝の因 苦戦に砕けて死を急ぐなよ膽の兵
 十一 一人でも多くを斃せば遂に勝つ 名誉の戦死は十人斃して死ぬるのだ
 十二 負傷しても頑張り戦へ虜となるな 最後は敵と刺し違へ

 この徹底した具体性こそが栗林の真骨頂といえよう。
 ここには空疎な理念もなければ形式的な美辞麗句もない。兵士たちがどんなときに動揺し、どういうミスをしがちであるかを考え、実際に戦場に立ったときに心がけるべきことを分かりやすく教えている。」

 いくつか感想めいたことを述べる。
①ひとめ見て分かるように「戦闘心得」は、「戦闘準備」と「防御戦闘」から成っている。「攻撃戦闘」という項目はない。攻撃して勝つことは、端から考えていない。守り抜いて敗けない戦闘を、どこまで戦えるか、どこまで持ちこたえることができるか。それがわが硫黄島の戦闘目的であった。
 この、硫黄島の日本軍の本質にかかわることを、「戦闘心得」の構成が図らずも語っているのではないか。
②「実際の戦場」に立って戦う兵士の身になって、具体的に役立つ注意を促している。特に注意を喚起されるのは、一人の強調である。「一人死すとも陣地に穴があく」「一人で陣地を守り抜け」「一人の強さが勝の因」など。そして「戦車が来ても驚くな 陣内に敵が入っても驚くな」と、動揺を戒めている。さらに最後の三項では、「死に急ぐなよ」「最後は敵と刺し違え」「十人斃して死ぬるのだ」と、どこまでも守り抜かねば、死さえも許されないのだ、と説いている。
③全部で15項目から成る「心得」の各項は、まず最初に主題が示してあり、その後に短く補う文章がつけ加えられている。あたかも、主文だけでは言い足りないというか、意を尽くせていないというか、細かいところにまで注意が行き届くようにしなければ、との気持ちなのであろう。実意丁寧なその心遣いに、彼のあたたかさが偲ばれる。
④栗林指揮官には、勇ましいアジテーションはない。観念的な美辞麗句もない。彼が発する言葉は、「実際の戦場」に役立てるため、それのみに限られていたのではないか。栗林は、字を書くときも、人に対するときも、つねに「実際の戦場」に立っていたのだ。

 この回をしめくくるにあたって引用しておきたい文章がある。一つは、栗林中将についてのプロの米国軍人の評価である。もう一つは、それに関係させながら述べている梯さんの総括的な栗林像である。
 •米国軍人の評価
 「硫黄島上陸作戦の指揮官である米海兵隊のホーランド・M・スミス中将は、栗林が作り上げた硫黄島の陣地を “ウジ虫“ に例えた。それは、40年間ひたすら第一線の戦場に立ち続けてきた闘将が人生の中で口にしたうちでも最大級の誉め言葉であった。切り刻まれるほどに強くなるウジ虫のように、わが軍に爆撃されるほどに、硫黄島は生気を取り戻した。わが軍の砲爆撃で硫黄島の日本軍飛行場は使用できなくなったし、陣地の一部は破壊された。しかし日本軍の主力には影響がなかったばかりか、彼らはさらに強くなっていったのである。(「スミス中将回想録」より)

 (スミス中将は)栗林について賞賛を惜しんでいない。
 太平洋で相手とした敵指揮官中、栗林は最も勇敢であった。島嶼の指導者の中には単に名目だけの者もあり、敵戦死者の中に名も知られずに消え失せる者もあった。
 栗林の性格は彼が残した地下防備に深く記録されていた。(「米国海兵隊と太平洋進撃戦」より)」
• 梯さんの栗林像
「将軍に対する評価は、敵将によるものがもっとも信用がおける。顔を合わせることはなくとも、極限の戦場において相手がどう戦うかを見れば、その力量だけでなく、性格や人間性までが知れるのである。
スミス中将が、その不気味なまでのしたたかさをウジ虫に例えた硫黄島の地下陣地。それは、名誉に逃げず、美学を生きず、最後まで現実の中に踏みとどまって戦った栗林の強烈な意志を確かに具現していた。」

今回の最後にひと言を付け加えないではいられない。
硫黄島2万余兵を率いた栗林総指揮官にとって、敵は米軍だけではなかった。日本軍指導部・大本営官僚、さらには政治や報道さえも、必ずしも真実の味方ではなかったということだ。大本営のことはもういい。ここであえて政治や報道について言及したいのは、硫黄島の最後について、彼らがいつ、どのように言ったか、という点で納得がいかないからである。
すでに前回みたように、栗林は最後の総攻撃を決意して、3月16日16時過ぎに、訣別電報を打電している。しかし、その夜は敵の激しい圧迫によって出撃を断念せざるをえなかった。翌17日、今夜こそはと、兵士全員が別れの盃を交わした。が、にもかかわらず、この夜も断念のやむなきに至った。それからの8日間、彼らがどれだけじりじりとその時を待ったことか。辛抱の極地でじっと待ち続けていた、そのさなかの21日夜、日本本土では「硫黄島玉砕」報道が為されていた。小磯国昭首相のラジオ演説は、栗林以下硫黄島守備隊を「日本精神の極地」「英雄的抗戦」と讃えた。そして翌22日の朝日新聞は、「硫黄島遂に敵手へ 最高指揮官陣頭に壮烈・全員総攻撃」と伝えた。これらお決まりの美辞麗句とともに、訣別電報の改ざん文章もこのとき報道したのだった。
まだ400名の将兵が生きて最後の戦いを挑まんとしていたというのに、その最後の最後に至るまでに、結果的にはまだ4日も待機を余儀なくさせられたというのに、なぜ、どうして、全員が総攻撃で、壮烈な、玉砕を遂げていなければならないのか。
この国のやり口は、いつもこの調子だ。かくのごとく美しくないし、美しくやれない。それはどうしてであろうか。