仲正昌樹(第6回)

「哲学を学んだ」と称するクズども

 ネット上で哲学・思想書の著者を――その本自体をよく読まないまま――バカ呼ばわりしたり、思想関係の講演会・トークセッションに出かけていって質問タイムに、「あなたは肝心なことが分かっていない!」と叫んで、一人で悦に入っているようなバカの多くは、「私は哲学を学んだ」と主張する。「ちゃんとした哲学」を学んだので、似非哲学研究者、似非思想史家を見抜けるという前提に立っているのだろう。こういう輩は、そういう見苦しい振る舞いをすることで、自分自身が何重もの意味で“非哲学的”な人間であることを実証していることに気付いていないのだろうか?
 先ず、どうして哲学書を読んだり、講演やトークセッションを聴きに行くのだろうか? 無礼なクズ連中が、自分自身の中で、「哲学するとはどういうことか」について明確な基準を持っているとしたら、“哲学”に関して他人から教えてもらうことなどないはずだ。
 最も本来の意味での「哲学」は、自分にとって本質的な問いであることをとことん追求することである。自分でそういう問いを見つけて、既に探求しているのであれば、他人から何かを教えてもらう必要などないはずである。「私は哲学を学んだ」と称する人間が、他人の見解を気にすること自体がそもそもおかしいし、その見解が気に入らないからといって、不特定多数の第三者に宣伝して回るのは、尚更おかしい。自分自身の「哲学」にとって時間の無駄であるうえ、他人が「哲学する」のを妨害し、不快感を与えている。そんなことが分からないバカには、「哲学を学んだ」と称する資格はない。
 他人の考え方を参照することが必要になるのは、①自分に取っての本質的な問いが何となくあるのだが、うまく言葉にできない場合、②どのように自分の考えを進めていったらいいのか、うまく論理的に整理できない場合――のいずれかである。世の中で“専門的な哲学者”として通っているのは、この二つの側面において、的確に言葉を操ることができる(と多くの人から認められている)達人である。
 大学で学科として教えられ、研究されている学問としての「哲学」、狭義の「哲学」は、その人たちが“達人”であるように見えるのは何故か、どうやったら、その“達人たちの言葉”を更に完成度の高いものにすることができるのかを探求する営みである。当然、そういう学問的探求は、既に成されている研究(先行研究)を下敷きにして、特定の方向へと専門化していくものなので、各人の哲学的関心とはズレる可能性が高い。哲学書を読んだり、大学等での哲学に関する講義を聴いたりする際には、その当然のことを心得ておくべきである。それを心得ないまま、「本質を外している!哲学ではない!」、とわめくのは、ただの駄々っ子である。自分が見たいTV番組がないといって泣きわめているのと、同じレベルである。
 無論、学問としての哲学を研究している学者も、基本的に普通の人間なので、職業としてやっている部分、名誉のためにやっている部分はある。しかし、それは読者、観衆の側が明確な問題意識を持っていさえすれば、どうでもいいことのはずである。作家や芸術家が俗物であることと、作品の善し悪しが関係ないのと同じことである。要は、学問としての哲学の成果を、正確に紹介しているか否かであって、哲学する“動機”ではない。そもそも他人の動機がどうして分かるのか?自分が買った哲学書の著者が、自分の関心と違ったことを書いているからといって、「この著者は、本当の哲学が分かっていない。金儲けのために書いている!」、「哲学学しかやっていない。お仲間サークルでやっている哲学学を哲学と勘違いするな!」、などと決め付けるのは、哲学的真理を探究しようとしている人間の態度ではない。自分自身がどうしようもない俗物で、知的ルサンチマンの塊だから、そういう、どうでもいいはずのことが気になってしまうのである。
 哲学に限らず、知的刺激を求めて、本を読んだり、講演会に出かける人であれば、どんなつまらない本や講義・講演でも、某か発見があるはずである。どこかで聴いたような話でも、細部までよく観察すれば、その人の独自性を発見できるはずである。仮に論者が学問的に全く見当外れのことを言ったとしても、その意見がどうして見当を「外れ」たのか――安易に「見当外れ」と決め付けるのは、ただの傲慢である――考えようとするはずである。
 私自身、感触的にはあまり印象を持てない本を読んだり、他人の学会・研究会報告を聴いたりしていて、いろいろ発見するところがある。むしろ、ヘンテコな意見、下手なプレゼンから刺激を受けることの方が多いくらいである――無論、私はその時の直観で、「君は学問的になっていない」などと決め付けたりしない。ちゃんとした本であれば、新たな知識を得られ、頭の整理をする助けになるし、そうでない本からも、刺激を受けられる、と思って、じっくり読もうとする姿勢がない人間は、人文系の学問には向いてない――これは断言してよいだろう。
 自分が興味を持てないからといって、すぐに集中力をなくして、読み飛ばしたり、居眠りしたりしておきながら、「退屈だった。金(あるいは、時間)返せって感じ!」、などとわめくのは、ゲスの極みとしか言いようがない。この手の人間は、本当の意味での知的好奇心とそれに裏打ちされた知的集中力を持っておらず、単に、自分が「物知り」であることを確認したいだけである。あるいは、速攻で“物知り”になって、誰かに自慢したいだけである。そんなクズは、何を読んでも、何を聴いても同じである。自分にとっての、“明日からでも利用できるトリビア知識”が手軽に得られれば、「感動した!」と言い、そうでなかったら、「こいつは似非知識人だ!時間の無駄だ!」、と吠えるだけである。脊髄反射人間である。ご当人たちは、そのことに気付いていない。あるいは、内心分かっていても、全て、著者、講演者のせいにする。
 Amazonの「レビュー」もどきで、やたらと私の本をけなし、アンチ仲正連中――対して有名人でもない私のアンチになるような連中は、知的ルサンチマンが充満した相当のひま人なのだろう――から、「賛成」ポイントを稼ごうとする、「モワノンプリュ」「古本屋A」「建具屋の半公」「ゆみこ」「アレルゲン」などは、まさに、「物知り」ぶりたいだけのどうしようもない連中である。
 「アレルゲン」は、あろうことか、「仲正氏は、アーレントについての望ましくない解釈を日本に広めようとしている…」と、読者に警鐘(?)を鳴らしているが、何様のつもりか?「正しい思想の検閲官」にでもなったつもりか?そもそもアレルゲンが、仲正のアーレント解釈だとしているものは、私が説明に使っている言葉を、彼なりの日本語感覚で曲解して、ねつ造したものにすぎない。
 それで、「あなたのアーレント解釈を世に示したいのなら、勝手にやればいい。しかし、強引に私を曲解し、引用もどきをしないでもらいたい。私を引き合いに出したいのなら、どこでどういう風に私が間違っているのか、ちゃんとした引用をしなさい」、と抗議のメールを送った。そうしたら、「そんな学問的な厳密さを要求されたら、一般読者は論評できなくなる。それは検閲です」、などというふざけた返答を寄越してきた。「検閲官」を演じているのはそっちだろう!「望ましくない解釈を日本に広めようとしている」、とまで言い切って、人を害虫扱いするのなら、学問的にもきちんと論証するのが、最低限の礼儀であろう。
 アレルゲンは、「私は、自分が正しいアーレント解釈をしているという深い確信があります」、とも言っていたが、だったらどうして、きちんと論証もできないのに、他人に警鐘を鳴らしたりするのだろうか?
 こうした、自称「哲学好き」がどんどん増えていて、そういうのを想定読者として本を作ろうとする、あさましい人文系出版社・編集者も増えているので、本当にうんざりする。

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哲学塾

■ちくま学芸文庫 ハンナ・アレント『人間の条件』
2013/02/09(土) 第1章
2013/03/09(土) 第2章
2013/04/13(土) 第3章
2013/05/11(土) 第4章
2013/06/08(土) 第5章
2013/07/13(土) 第6章
講 師:仲正昌樹 →amazonで著書をみる

主 催:rengoDMS - 連合設計社市谷建築事務所

協 賛:作品社
受講料:各回 500円

時 間 : 開場17:45 講義18:00-20:00

ところ : rengoDMSホール / 〒102-0071 東京都千代田区富士見2-13-7 (googleマップ)

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