たけもとのぶひろ(第15回)

硫黄島・栗林中将の戦い(5)

 前回の終りで触れたように、米国海兵隊の指揮官スミス中将は硫黄島の日本軍陣地とそれの構築を指導した敵将栗林に対して、賞賛の言葉を惜しまなかった。別のところでも、栗林の地上配備は著者(筆者注 スミス中将)が第一次大戦中にフランスで見たいずれの配備よりも遥かに優れていた。また観戦者の話によれば、第二次世界大戦におけるドイツ軍の配備を凌いでいた。(「米国海兵隊と太平洋進撃戦」)とまで激賛している。彼は栗林中将に対して、「敵ながら天晴れ」と言っているにひとしい。誰に遠慮することもなく、何のはばかりもなく、そう言ってのけることができる。その、実にフェアーな処し方が気持ちがいい。
 正直言って、羨ましい。ひるがえって我が方を省みるに、軍事のみならず政治や報道も、その他ありとあらゆる当事者たちは、こぞって誰も彼もが、人目をはばかるような、人聞きの悪いことをしてきたのではないか。自らの良心が恥じ入るような、そのような下劣なことまでして、互いに互いを騙してきたのではないか。

 こういうことをしつこく書くのは、梯さんがいくつもの数字を挙げて、その数字をして事実を語らしめ、そのようにして自己の言説を展開しているからである。また、これから挙げる数字の出どころは、おそらく米軍側だと思う。日本軍のほうは、むしろ数字を抹殺し、事実を隠蔽してきたのであろうから。
 彼女の著書における数字の使い方は、実に説得力があると思う。実際に見てもらうために、幾つかの例を紹介しておく。

 •米海兵隊が強いられた史上最大の苦戦について。
 ★ まず数字である。「米軍側の死傷者数2万8686名に対し、日本軍側は2万1152名。戦死者だけを見れば、米軍側6821名、日本軍2万129名と日本側が多いが、圧倒的な戦闘能力の差からすれば驚くべきことである。」
 ★ それは何を意味するか。「硫黄島は、太平洋戦争においてアメリカが攻勢に転じた後、米軍の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦場である。最終的には敗北する防御側が、攻撃側にここまで大きなダメージを与えたのは稀有なことであり、米海兵隊は史上最大の苦戦を強いられた。(中略)日本軍が各地で敗退を続ける中、乏しい装備と寄せ集めともいえる兵隊たちを率い、これだけの戦いができたのは、栗林の断固たる統率があったからである。」

 •米軍人間でいまも ”General KURIBAYASHI” の評価が非常に高いのはなぜか?
 ★ 数字。「確かに当時の米国では、硫黄島の戦況を国民が固唾を呑んで見守っていた。その報道の量とスピードは、当時の日本からは想像もつかないものだった。
 上陸作戦が始まった2月から翌3月にかけて、ニューヨーク・タイムズ紙は硫黄島に関する記事を60回以上掲載している。(中略)米国民は、こうしたニュースの洪水の中、硫黄島上陸から4日間の戦闘が、ガダルカナルでの5か月間にわたるジャングル戦を上回る死傷者を出したと知って茫然とする。」
 ★ それで何がどうなったか。「あまりにも大きな犠牲に世論が沸騰した」。栗林の狙い通りだった。世論の沸騰による厭戦気分の醸成、それこそが、彼の持久戦の狙いだった。硫黄島摺鉢山に初めて星条旗を立てた6人のうち生還した3人の英雄の1人、ジョン・ブラッドリーの息子、ジェイムズ・ブラッドリー(『硫黄島の星条旗』の著者)は、はるばる日本から訪ねていった梯さんに、こう言ったという。
 「アメリカ人は何より人的な被害を重く見る。だから、死傷者の数が多ければ、たとえ戦況が有利でも、その作戦は失敗ではないかという世論がわきあがる。アメリカで暮らし、その国民性についてよく知っていた栗林は、そこまで計算して敵の死傷者をじわじわ増やしていく戦い方を選んだ。アメリカの世論が、日本との戦争を早く終わらせようという方向に向うことを期待したのだろう」と。
 息子のブラッドリーの栗林評は敵国人の評価としては出来過ぎだと思うけれど、このように言ってのけることができるところに、また事実としても間違いなくこの通りであろうと思わせるところに、アメリカのアメリカたる所以があるのであろう。
 彼は栗林のことを、こう言ったのだ。「アメリカをもっとも苦しめ、それゆえにアメリカからもっとも尊敬された男」だと。

 •硫黄島米兵の勇気
 ★ まず数字。「戦場でのたぐいまれな勇気を讃える名誉勲章は、第二次世界大戦の4年間を通して、海兵隊員に合計84個与えられている。そのうち、硫黄島の戦闘で授与されたものは27個。わずか36日間の戦いだったにもかかわらず、4年間に与えられた名誉勲章の3分の1近くを占めている。硫黄島が歴史に残る戦場だったことがわかる数字である。」
 ★ 硫黄島米兵は後続の米兵および米国人に何をもたらしたか。「現在、硫黄島に訓練にやって来る海兵隊員の多くが、その帰り際、記念に自分の認識票(=戦死したとき身元がわかるよう身分や氏名を記した金属札のこと)を残していくのだという。60年前にこの地で戦った先輩たちに連なる存在であることは、すべての海兵隊員にとって誇りであり、硫黄島は今も彼らの「聖地」なのである。(中略)
おびただしい数の認識票に埋もれた戦勝記念碑には、ニミッツ大将のこんな言葉が刻まれている。
 Among the Americans who served on IWO JIMA, uncommon valor was a common
virtue.( 硫黄島で戦ったアメリカ兵の間では、並はずれた勇気がごく普通の美徳であった)」

 •アメリカ国民の「勇気と勝利の象徴」・硫黄島
 ★ 幾つかの数字。
 a 生還した3名の英雄による戦時国債キャンペーン・全国ツアー、ひと夏で総
  額263億ドルもの国債(1946年政府予算総額の約半分に当たる額)を売りきっ
  た。
 b 星条旗を立てる兵士たちの写真を使った記念の3セント切手を1億5000万枚
  売った。
 c 硫黄島星条旗の写真はブロンズ像として、ワシントンのアーリントン国立共
  同墓地に建立された。費用の85万ドルは全額、一般からの寄付でまかなわれ
  た。
 ★ これらの、いわば国民的熱狂が然らしむるところ、硫黄島はアメリカ国民にとって「勇気と勝利の象徴」となり、今なお象徴たりえており、そのかぎりにおいて敵将栗林の名が忘れられることはない、と梯さんは次のように述べている。
 「大きな犠牲で全米を騒然とさせ、それを乗り越えての勝利によって狂喜させた硫黄島は、今もアメリカ国民の記憶の中に深く刻まれている。だからこそ栗林は、「アメリカをもっとも苦しめた男」として、日本よりもむしろアメリカで有名なのである。
 2003年5月、ブッシュ米大統領はイラク戦争終結を宣言した演説の中で「(イラクでは)ノルマンディ作戦の大胆さと、硫黄島での高い勇気が示された」と兵士たちを讃えた。半世紀以上の歳月を経てなお、アメリカにとって硫黄島は、戦場における勇気と勝利の象徴であり続けている。」

 栗林忠道という軍人は、このようにアメリカ人の間では今なお畏敬の念をもって記憶されているというのに、彼が命を捧げた祖国日本ではその存在すら知る人が少ない。
 これからあとは、彼がどういう人であったのか、その足跡をたどるところから考えていきたいと思う。やはり梯さんに拠りながら進めていくのは、これまで同様である。

 軍人・栗林忠道を考えるうえで、最初にとりあげずにはおれないものがあるとしたら、それは彼のアメリカ体験ではないか。いちいち断らないけれど、梯さんの書物から文章を飛び飛びに引用し、それらをつなげて以下に紹介しようと思う。
 「栗林は米国通の軍人だった。まず昭和3年から5年まで軍事研究のため留学。30代後半の、まだ陸軍大尉だった頃である。その後、昭和6年から8年まで駐在武官としてカナダに滞在している。
 妻と長男を残しての単身赴任だった。米国騎兵第1師団付として軍事研究のかたわら(ハーバード大学などの聴講生となり)、語学やアメリカ史、また当時のアメリカの国情などを学んだ。
 (また)アメリカ留学中は、ワシントン、ボストンなどの大都市や、米陸軍の騎兵連隊があったテキサス州フォートブリス、同じく歩兵師団のあったカンザス州フォートライリーなどに暮らした。ニューヨークやサンフランシスコ、ロサンゼルスなども訪れ、アメリカの軍事力、経済力を自分の目で見て把握していたのである。
 アメリカのモータリゼーションの隆盛に大いに興味を引かれた栗林は、当時最新だったシボレーK型を入手して運転を練習、昭和4年12月にはカンザス州から首都ワシントンまでの1300マイルを単身で走破するという “冒険” をやってのけている。
 長兄への手紙では、この旅行のとき砂漠で車が故障して困っていたら、17~18歳の娘が自分で運転して通りかかり、修理してくれたことに驚いたというエピソードが記されている。アメリカでは16歳以上なら届け出をすれば誰でも運転ができ、簡単な修理はみな自分でやることにいたく感心したという。
 机上の学習だけではなく、こうした日常的な経験からも栗林は日本との国力の違いを実感したようだ。」

 軍事力、経済力における彼我の違いは、それらが基本的には物的生産力に依拠するかぎり、見れば誰だって一目で分かる。比較にならない。しかし、目に見えない違いもある。国民一人ひとりの力の違い、それらの総体としての国力の違い、というようなものは、必ずしも目には見えないけれど、むしろ彼我の隔たりを決定づけるほどの重要性を帯びているのではないか。
 すでに言及したところに重なるが、国民が自国の兵士をどのような目で見ているか、というようなことに関係している。米国の人々は、自国の兵士たちが国を発つときも、戦地で戦っているときも、不幸にして戦死するにせよ、幸運にも生還できたにせよ、いついかなる時も無条件で兵士たちを応援する。万が一、米兵が予想を超えて大量に戦死したとする。それを、彼らは黙って見てはいない。作戦上の理由の如何は問うところではない。米国の人々は、即、声をあげる。新聞へと投書が殺到する。 “アメリカの若者をこれ以上殺させるな!” “最高指揮官を更迭せよ!“ と。もちろん、新聞はそれをそのまま掲載する。米兵は国民に支えられている。つねにそう感じながら戦うことができる。
 ひるがえって我が日本の兵士はどうか。日本国民とて、自分たちのために戦ってくれている兵士たちのことを思わないわけがない。自分のために、自分に代わって、死ぬようなものだから、どうか死なないでほしい、生きて帰ってきてほしい、不幸にしてもしも死なれたら、どれだけ悲しいだろうか。みんなそう思っている。しかし、この国では、兵士の死は “名誉の死“ であり、国民はその死を ”ああ、よくぞやった” と誉めなければならない。おおやけの場、つまり、社会で、世間で、新聞で、兵士の死を悲しむことはご法度であった。国民の熱い思い、悲しい思いが届かない。兵士は国民から切り離されたまま、戦地におもむくしかない。こんなことで国民の総力、国力を結集して戦うことができるのか。
 サムライの国・ニッポンだとか、大和魂だとか、そういう勇ましいだけの空虚な言葉を好んで言いたがること、そのこと自体が、日本軍の非力を物語っていたのではないか。
 国の力は民の力であり、民の力は国の力ではないのか。だとしたら、民を死地に追いやっても屁とも思わない国が、あるいは民の悲しみを自分たち全体の悲しみとすることのできない国が、いったいぜんたい、どうやって戦争に勝つことができるのだ。

 これらのすべてを栗林は、前々から見通していたのであろう。あるいは、こう言った方がよいのかもしれない。アメリカを体験することによって、今まで見ていなかった日本がもっと見えてきたのかもしれない、と。
 であるからこそ彼は言ったのではないか。
 「アメリカは、日本がもっとも戦ってはいけない国だ」と。
 「この戦争はどんな慾目で見ても勝ち目は絶対にない」と。
 しかし、栗林忠道は軍人である。「勝ち目は絶対にない」戦争であっても、戦わないということはありえない。あってはならない。それどころか、「力のあるかぎり戦わなくてはならない。血の一滴まで戦わなくてはならない」のであった。
 なぜか? この問いについても、栗林の答えは単純明快だ。「普通の人々が普通の生活を送れるようにするために」存在するのが軍人だからであり、そうである以上、「前線におもむき敵弾に身をさらすことこそが軍人の本分である」からだ。
 栗林の軍人本分論を読んでいると、思わず「言うは易く行うは難し」というふうな決まり文句が浮かんでくる。しかし、栗林はそれについて「愚直なまでの信念を持っていた」というのが、梯さんの洞察である。
 栗林中将はにおける「軍人の本分」とは、どのような日々の実践の中に具現されていたのであろうか。この点についての考察は回を改めたいと思う。