「嫌儲≒ネトウヨ」と「文科省」と「超ワカリヤスイ講師」はお友達


仲正昌樹[第34回]
2016年7月3日


 前回、2ちゃんねるの嫌儲板の住民である「嫌儲民」たちに見られる“反知性”的な傾向を指摘した――この連載の第二十六回で述べたように、「反知性主義」という言葉の乱用は避けるべきだと考えているが、「嫌儲民」の一部については“反知性”という言葉がしっくりくるような気がする。自分たちが複雑な 文章を理解できず、学問的な議論についていけないことを、素直に認めようとせず、自分たちに理解できないものは“無意味”だと決め付け、“無意味なこと” を論じたり教えたりすることを仕事にする学者や教師を糾弾しようとする傾向だ。
 彼らは、「嫌儲」を標ぼうしているくせに、“金になる研究”をやっている理系の学問は何となくリスペクトしている風を装いたがる。中には、理系の学生・研究者を装って知ったかぶりをする者もいる。そして、(彼らの妄想の中の)“理系”との対比で、文系の学問は役立たずだと罵る――理系の研究が文系よりはるかに多くの予算を必要とするのは確かだが、費用をかけたからといって、その支出に見合う成果が出るとは限らない。文系の学問の中でも、難しさの象徴と思われている「哲学」や「思想史」を専門にしている学者は、特にひどく罵られる。
 マスコミや野党の自民党・財界批判にしばしば便乗し、日本人をJap、日本をJaplandと呼んで蔑む「嫌儲民」は左翼と見なされることが多いが、上で述べたような“反知性”的な傾向は、むしろ「ネトウヨ」に近い。ネトウヨは自分たちの脳内で、[人文系の学者=日本を害するサヨク=国家予算の無駄遣い]という雑な等式を作り上げ、人文系の学者を罵倒したがる。この連載の十七回で言及した、 新潟の自称保守思想家は、よく分かっていないのにハンナ・アーレントの名前を持ち出して、全体主義を産みだしたのは、反国家的な思想を持つ学者などの知識人であることをアーレントは喝破していたと主張し、有名な大学教授を下品に罵る文章を書き続けている。
 最近、私がその手のネトウヨから受けた新たな被害を紹介しておこう。十年前に出した拙著『集中講義!日本の現代思想』に対して、「みっちゃん」というふざけたハンドルネームの人物が、アマゾン・レビューに、「下品で浅はか…」というタイトルのレビューもどきを掲載した。何が「下品で浅はか」なのかと思って読んでみると、何ということはない。私が「あとがき」の最後に書いた、「(「神の国」の大先生の御膝元にある)金沢大学角間キャンパスにて」という フレーズが気に入らないだけのことだったようである。「これは明らかに森元総理に対する揶揄だ。一国の総理大臣を務めた人に対しては敬意の表し方というものがあるだろう。それを理解していない著者は下品で浅はかだ。自分を何様と思っているのか、駅弁大学の教授の分際で」、というわけだ。この最後のフレーズ以外は読んだ痕跡がない――全然理解できなかったのかもしれない。
 「『神の国』の大先生」程度の皮肉にひっかかって著者をこれだけ侮辱し、総理大臣という地位を神聖視する「みっちゃん」が、ウヨク的な思想傾向を持っているのは間違いないが、この人間は、自分に日本の「古き良き伝統」を語る資格があると思っているのだろうか。自分は匿名のまま、他人を「駅弁大学の教授の分際で」と罵ることが「古き良き伝統」に適った行為だと信じているとしたら、狂人である。
 「みっちゃん」のバカな言動はこれだけに留まらない。「今どき、『哲学』や『思想』とかやっていて、恥ずかしくないのですか。悔しかったら、もっと社会の役に立つ学問をやってみなさい。」と、恥ずかしげもなく言ってのける。たまに、こいつのように、「今の時代に哲学をやるなんて…」式のことを言う人間 を見かけるが、一体どういうつもりなのか? 「哲学」が直接金銭的利益に繋がらないというのは、哲学が始まった時からずっと言われていることだし、哲学を教えている大学の教師以外で、「哲学」を学んで何か現実的な利益があると思っている人はほぼいない――大学の哲学教師もそれほど稼げる商売ではない。知的好奇心があるから、「哲学」を学んでいるのである。「みっちゃん」や嫌儲民のような輩には、まともな職業に就いたことがないうえ、知的好奇心も皆無なので、見当外れなことを言ってしまうのだろう。
 「みっちゃん」はレビューもどきの最後に、「読んでみたが実にくだらなかった。『思想』とはしょせんこんなものかと思った」と書いているが、何がどうくだらなかったのか全く書いていない。やはり、何がテーマなのかさえ理解できなかったのだろう。自分が理解できないのを強引に著者のせいにしようとする 安直な発想が、嫌儲民と同じである。
 「みっちゃん」の文章は明らかに、レビューではなく、私に対する誹謗なので、本人に抗議したが返答がなかった。それでアマゾンのカスタマー・サービスに連絡して、削除してもらった。アマゾンはひどいレビューでも削除を渋ることが多いが、「みっちゃん」の場合、書評でないのが一目瞭然なので、結構速やかに削除された。それで私に対するレビューもどきは現時点では閲覧できないが、哲学系の本に対する「みっちゃん」の執念深い言いがかりは、ウヨクの“反知性”的態度の典型であり、その意味で興味深い。他の人の本に対する、「みっちゃん」による“レビュー”をいくつかを紹介しておこう。
 「みっちゃん」は、2012年8月から、アマゾン・レビューを書き始めている。最初の内は、自分の頭が悪いので難しい議論は分からない、と認める素直そうな態度も示していたが、次第に開き直って、自分に理解できない、関心を持てない本を書く著者が悪いと責任転嫁するようになっていく。『現代思想』の 2015年2月号(特集=反知性主義と向き合う)に対して、「みっちゃん」は「はっはっは」というタイトルで、以下のように書いている。

読んでもないのに批評するが、安倍政権を反知性主義だと言いたいんだろ?
安倍政権の実力者たちは、首相が成蹊、副首相が学習院、官房長官にいたっては高卒の集団就職で上京し、法政大学で学んだ人物だ。新聞記者やマスコミ関係には東大をはじめとする高学歴者が多い。その連中と話していると政府首脳に高学歴者がいないことに侮蔑感を持っているのに、驚きながら、さもありなんと思う。彼らは悔しいのだ。そこで「反知性主義」ときたのだ。
自分たちに知性があるとでも思っているのかい。何千人も合格する日本の「一流大学」を卒業したから知性的だと思っているのかい。笑止千万だよ。東大卒の鳩山、東工大卒の菅、彼らの無能力さを見れば、「知性」に対してうんざりするのが当たり前だろう。新聞、出版関係者たちよ、批評ばかりしていないで、何でもいいから「実業」に携わってみろよ。さて、悪口書いた後で、購入して読んでみるかな。多分、的外れの悪口ではないだろう。

 読まないで妄想で書いている時点で、まともな論評に価しないのだが、文章がひどすぎて何を言いたいかはっきり分からない。新聞記者やマスコミ関係者が 「悔しい」というのは、どういう意味だろうか? 自分たちこそ、首相や閣僚になってしかるべき、と思って悔しがっている、ということなのだろうか? それとも、自分たちと同じ東大OBが首相や主要閣僚になるべきだと思って悔しがっている、という意味か? 東工大は一流大学で、法政や学習院は二流以下と言っているように見えるが、何を基準に線引きしているのか? いずれにしても、かなり不自然である。「その連中と話していると…」と言っているが、「みっちゃん」のような、意味不明のおかしな日本語を書く人間に、一流大学のエリートの友人がたくさんいるのだろうか? ――具体的にどこに務めるどういう立場の人なのか書いていないので、妄想の友人ではないかという気がする。仮に、そういう奇妙な嫉妬心を抱く一流大学OBのマスコミ関係者が多数いたとしても、それと、『現代思想』の特集の間にどういう関係があるのか?「みっちゃん」は、“一流大学のOBたち”が、自分たちのエリート意識を保つために何かの巨大ネットワークのようなものを作っているとでも思い込んでいるのだろうか?
 法哲学者の井上達夫氏の『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版)に対しては、「哲学」という言葉に脊髄反射しているだけとしか思えない、言いがかりを書き連ねている。タイトルは、「『哲学者』よ、責任を取れ」である。

117pで著者は「(マルクス主義の搾取という概念の)前提となっているのは労働価値説。(中略)その基底にある労働価値説がめちゃくちゃだから、ぜんぜん説得力がない」と簡単に切り捨てている。おいおい、そんなことでいいのか。あんたは簡単に切り捨てるが、当時、多くの人たちが、それもインテリと称し、称された人たちが資本とか、労働とか、搾取とか偉そうに振り回していたではないか。「哲学者」に主導されて。反面で「労働価値説」を理解しようとして、多くの人たちが苦労し、「俺には理解できない、俺の頭が悪いからだろう」と絶望し、旧制高校生で自殺した人物がいたという。同業の「哲学者」として責任を取ってくれよと言いたい。要するにあんたらの頭が悪かったのだろう。観念論と抽象論で訳の分からぬ検証不能の議論を振り回す、今も昔も変わらぬ姿勢には反吐が出る。文科省が国立大学の人文科学学部を削減するというが、僕は賛成だ。だいたい、労働価値説など、なぜ当時の数学者が関与しなかったのだろう。そうすればアラン・ソーカルや、ジャン・ブリクモンに先行できたのに。

 こいつの頭の中はどうなっているのだろうか。腐っているとしか思えない。本の主題とほとんど関係のない、一か所でごく簡単に触れられているだけの言葉に食ってかかっている。本気で書いているとすると、「みっちゃん」は、日本の全ての「哲学者」が「労働価値説」を教条的に信奉し、大学という機関を利用して洗脳教育を行い、多くの若者を苦しめてきた、と考えていることになる。どうやったらそういう大げさな妄想が生まれて来るのだろうか?「みっちゃん」は大学での学生生活と縁がなかったせいで、大学の文系学部では、かつてのソ連や北朝鮮のようなすごいことが行われているかのような妄想を抱いてしまったのだろう。ちゃんと大学に通ったことのある人間なら、「人文科学学部」などというおかしな表現は使わないだろう。数学が「労働価値説に関与する」というのは、どういう意味だろうか? 「みっちゃん」は、労働価値説がもともとアダム・スミスの説で、マルクスはむしろそれを批判したということなど聞いたこともないのだろう。ついでに言っておくと、ソーカル/ブリクモンの本と、「労働価値説」の間に何の関係があるのか? いろんなところで仕入れてきた、うろ覚えの知識をつなぎ合わせているのが見え見えである――連載の二十二二十四回で述べたように、ソーカル信者には、ソーカルという偉い物理学者やそのエピゴーネンのご託宣に盲従しているだけの輩が多いので、「みっちゃん」が突出してひどいというわけではないかもしれない。
 私は別に『現代思想』の特集の内容や井上氏の議論に賛同しているわけではないが、「みっちゃん」の文章はあまりにも常軌を逸している。他の“レビュー”でも、著者を強引に、哲学者/非哲学者(=現場を知っている人)に分類して、内容と関係なく罵ったり持ち上げたりしている。アマゾンのレビューには、この手の支離滅裂なネトウヨやネトサヨがしばしば出現する。
 嫌儲民や「みっちゃん」のように、自分の頭の悪さを棚に上げ、全ては教師のせいと断言する輩が増えている一因に、文科省の政策や、それを後押しした“良心的な教師たち”の影響があるのではないかと思う。ゆとり教育を強力に推進していた時期の文科省は、それと連動して、子供には潜在的に学ぶ意欲があるので、教師にはそれを引き出してやる、つまり勉強が面白いと“自発的”に感じ、“主体的”に学ぶ姿勢を身に付けさせてやる責任がある、という言説を広めるようになった。“子供思いの教育評論家”とか“カリスマ教師”と呼ばれる人たちがそれに同調した。幼稚園とか小学校くらいなら、全ての子供にそういう意欲があるという想定の下で教育をするというのは分からないでもないが、私が大学教員になった一九九八年頃には、大学教育でも、“学生の潜在的な学ぶ意欲”を引き出すことが必要だと言われるようになった。
 大学生は少なくとも十八歳にはなっている、「大人」である。高校までの教育で、“主体的に学ぶこと”の意義を見出しているという建前のもとで、大学に入学しているはずだ。そういう人間の学習意欲をどうやって、赤の他人が引き出せばいいのか?(精神年齢は別として)幼稚園の園児や少学校の児童ではないので、強制的に学習行動をとらせることはできない。ほとんどの大学教員は、無茶なことを言われていると感じたはずである。しかし文科省や、そのお先棒を担ぐ“リベラルな教育評論家”たちがどんどん圧力をかけてくるので、何とかしなければならなかった。そこで、教室でギターを弾いたり、スポーツや芸術の特殊技能を活かしたパフォーマンスをやったり、芸人さんの真似をしたり、身近なテーマと称して恋愛とアニメを素材にしたりするといった“工夫”で、学生にウケる先生がいると、それをモデルとして、みんなそれに見習え、という風潮が生まれてきた。サンデルの白熱教室をきっかけに注目されるようになった参加型講義や、その拡張形態であるアクティヴ・ラーニングなども、そうした流れの中に位置付けることができる。
 誤解のないように言っておく――誤解したくして仕方ないバカは、以下を読み飛ばしてしまうだろうが。私は大学生の基礎学力が低いことを嘆いているわけでも、大学教師が補習のようなことをやるべきではないと主張しているわけでもない。高校までの教育のカリキュラムに「ゆとり」を持たせたことが間違いだと思っているわけでもない。全ての人間に、「潜在的学習意欲」があり、教師が無能でなければ、その意欲を引き出せるという想定を、大学教育にまで持ち込もうとするのが、勘違いだと言っているのである。本人が、勉強して自分の視野を拡げよう、理解できないテクストを理解できるようになりたい、という意欲を持たない限り、教師にはどうしようもない。どんなに巧みに説明しても、意欲のない学生が居眠りしたり、携帯いじりを続けるのであれば、どうしようもない。芸人さんのリアクション芸のような真似をすれば、瞬間的に目を覚まさせることはできるかもしれないが、真面目な学問的な話に移ったとたんに、また関心を失ってしまうのでは意味がない。そもそも大学に出てこない学生には影響を与えようがない。アクティヴ・ラーニングには、グループでの共同作業や討論に主眼を置くものが多いが、最初の班分けの時に、大学に出てこない人間、他人とまともに会話ができない人間を複数含むグループを作ってしまうと、面倒なことになる。そういう人間がかなりの割合で存在するため、“全員がイキイキと学んでいる”状態を作るのが不可能だと認めたうえで、それぞれの大学・学部・学科の特性に応じた、できるだけきめ細かい指導をする、ということであれば、全く異論はないのだが、文科省の役人やその お先棒かつぎたちは、そういう現実を無視して、ごく一部の“うまくいったケース”をモデルにして、一律の方針を全大学に適用しようとする。だから、とんちんかんなことになるのである。
 そうした文科省のおかしなやり方に、進学校の名物教師、予備校のカリスマ教師、「世界一分かりやすい●●入門」などの本を書いて注目されるライター、メディアによく登場する評論家などが、しばしば同調する。この種の人たちの一部には、大学の教師に強い対抗意識を抱いていて、機会があるごとに、大学生が勉強する気にならないのは、教師が下手だからだ、地位にあぐらをかいていてやる気がないからだ、と決めつける傾向がある。影響がある人が、大学教師をこきおろすと、知識人に対してルサンチマンを抱いている人間にとっては快感である。だから、喝采を受ける。嫌儲民、ネトウヨ、ピケティ信者、ソーカル信者などがしばしば口にする、「二行(or 三行)で簡潔に表現できず、長々と文章を書くのは、その学者が無能だからだ」、というフレーズは、これらのカリスマたちから借用したものだろう――ピケティ信者については、連載十八十九回参照。
 言わずもがなのことだが、予備校生は大学受験に合格するという目的があるので、高い合格実績を挙げている予備校教師の言うことを注意して聞くし、「世界一分かりやすい●●入門」を読む人は、それが自分の知的水準に合っていて、しかも(内容がかなり薄いおかげで)簡単に“分かった気”にさせてくれるから“感動”するのである。大学での勉強はそういうわけにはいかない。どんな学問でも基礎を身に付けるには、ものすごく面倒くさいこと、なかなか興味を持てないことに、一定期間我慢して取り組まねばならない。その分野で何年かに一度という天才でない限り、最初から全て面白くて仕方ない、などということはありえない。大学の教師が、予備校の先生ほど教え方を工夫していないことは私も認めるが、教える側と教えられる側の関係が根本的に違うことを無視して、大学教師無能論を叫ぶのは、プライドだけ高い怠け者の言い訳にすぎない。
 嫌儲民やネトウヨはその“基本的な立場”からして、文科省やカリスマ講師、超入門系のライターなどを嫌う傾向が強いと思われる。嫌儲民にとっては、文科省やカリスマ講師等は拝金主義の権化であろうし、ネトウヨにとっては、日本を文化・教育面からする破壊する売国奴であろう。しかし、ひたすら難しいテクストを嫌い、複雑な論理を操る学者を無能扱いし、あらゆる問題に対して、「二行での簡潔な説明」を要求する彼らの“反知性”的な言動は、文科省やカリスマ講師たちが作り出した風潮の尻馬に乗っているとしか思えない。「みっちゃん」は言葉遣いから六十歳以上であるようにも思えるが、年寄りでも、学者・知識人をこきおろして溜飲を下げようとする安易な風潮に無自覚的にのっかっている輩は珍しくない。文科省や、売れっ子講師・ライターを批判しているつもりで、どんどんその感化を受けていく、自称ネット論客が増えている現状は、本当に憂鬱である。


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