ネット世界の末人たち

仲正昌樹
[第1回]
2013年10月7日

 明月堂書店のブログ再開後の第一回目なので、何か目新しいことを書きたいところだが、八月に私の書いたコラムをめぐって、ちょっとした騒動があり、それがきっかけでブログが一時閉鎖になったという経緯があるので、そのことについて今一度私の見解を述べておきたい。
“事件”の発端は、私が作品社から出した『カール・シュミット入門講義』に対する、ある大学の法学部生で将来は研究者志望だと称する人間――ハンドルネームを使っていて、大学名も示していない――のネット上の“書評”だった。どういう基準によるのかも示さず、いきなり「無駄な記述が多かった」とけなす、上から目線の嫌な物言いだった。それで『極北』に月一で連載していたコラムに、「匿名でこんなコメントをするのはロクな奴じゃない、こんなのに研究者になられたら、不快である」、という趣旨のことを書いた。
それからしばらくたって、明月堂書店のHPに対して、この人物――便宜的にAと呼んでおく――から、これは仲正による私の人格に対する誹謗中傷だ、反論文をのせろ、という趣旨の投稿があった――ハンドルネームを使っての投稿だった。八月七日の午前中のことである。明月堂の方から、私に相談の電話がかかってきたのだが、その時ちょうど私は、他大学に集中講義に出かけていたので、しばらく電話に出られる状態ではなかった。すると、二~三時間の内に、その反論文と全く同じ内容の文がツイッター上に現われた。そこに、普段からネット上で私の悪口を拡散して喜んでいる“常連”たちが寄って来て、あることないことネガティブ情報を付け足し始めた――悪口を書いていた連中の内、十数名は、よく見る名前だった。そこに、プロの物書きになりたくてたまらない目立ちたがり屋や、とにかく騒ぎが好きなヒマ人たちが、野次馬として集まって来た。当然のことながら、この連中は、発端になった私の本がどういうものか全然知らないし、興味もない。単純に、たくさん本を出していいきになっているように見える仲正なる奴を叩きたいという欲望で群れているだけのどうしよもない連中である。
 この状況に驚いた明月堂の担当者が、慌ててしまったのと、かねてからブログのリニューアルを考えていたこともあって、すぐにブログを閉鎖するに至った。私は後になってそのことを知らされて、「明月堂の事情で閉鎖するのはいいけど、このタイミングで閉鎖したりしたら、騒ぎたがっているバカどもが、『仲正が逃げた』といって余計に騒ぐだけなので、いったん元に戻して、改めて一時閉鎖することにしてほしい」と言ったが、技術的な問題があって、すぐには復活できなかったようである。
 私が同日の夕方になってようやく明月堂の担当者の電話に出た時には、「仲正は学部生に反論され、自分のブログを閉鎖して逃亡している」というデマが出回り、Aは“勝利宣言”を出していた。それを含めたネガティヴコメントの連鎖を、わざわざtogetterにまとめてアップした奴もいる。そこには、「仲正逃げた」を含めて、かなりのデマや中傷誹謗が含まれていた。例えば、仲正が人格異常なのは、まだ統一教会信者であるせいだ、と邪推するのがあった――私が二十一年前に信者をやめた経緯については何度もいろんな所で語っているが、そういうことは知らずに、又聞きで適当なことを言っているのだろう。仲正は屑だとか、正気を失っているとか、この知的水準で大学教授が務まるのか、とか単純な悪口も多かった。飲食店での悪ふざけをツイッターに投稿する若者たちのことが世間で話題になっている時期だったので、仲正はツイッターに悪ふざけを投稿している若者と同じだ、と論評する自称社会派ライターの奴もいた―――「同じ」なのは、悪口に反論する文章を出版社のブログにのせただけの私ではなく、他人に便乗して騒いでいるだけのくせに、論客ぶっているテメエだろ!
 明月堂ブログの臨時閉鎖と、その手のネガティヴコメントで満足し、「みなさんのおかげで僕の言い分が通りました」、などと言ってのける、Aはやはりまともな奴でない。そもそも反論文を掲載してくれという投稿を送りながら、同時にツイッターで悪意のあるリアクションをかき集めようとするのだから、誠実な人間ではない。しかも、終始匿名のままである。そういう奴のことを、「冷静な対応している学生さんです」、と持ちあげる連中がいるのだから呆れてしまう。こういう連中は、自分たちが妄想する絵柄に合わせて物事を認識するのがくせになっているので、全然おかしいと思わないのだろう。
 この手のバカのおかげで迷惑にあうことはしょっちゅうあるので、騒ぎが起こったこと自体はそれほど驚きではなかった。しかし、多少意外だったのは、現役大学教員が何人か騒ぎに加わっていたことだ。私自身がそうであるように、最近の大学教員はあまり行儀が良くないし、ツイッターでふざけたことを書いている教員も少なくないが、当事者でもないのに、他大学の教員に対する誹謗中傷を拡散させる“祭り”に参加して喜ぶ奴がこんなにいるとは思っていなかった。中には、私と直接面識のある人間もいた。
 かなり昔から因縁のある四国の某国立大学の教員は、「仲正氏の文章を面白くないと思う人がいるのも確かだ」とか、「仲正氏には、彼が『基本的マナー』と呼ぶルールがあって、それを破った人に対しては、自分もそのルールを破ってもいいと思っているようだ」とか言っていたが、まったくもって見当はずれである。
 学者の書く本は、その学問に関心のない人にとっては、ほぼ価値がない。その意味で、面白くないと思っている人の方が多いのは当然である。しかし、その学問領域の研究に自らも従事している人間、あるいはその領域に関心があると称する人間が、当該の本を読んで論評する際に、「無駄が多い」などと言うのであれば、何を基準に無駄だと言うのか述べるべきである。何の基準も示さず、「無駄だ!」と言いっぱなしにするような奴には、その学問に関心があるとか、一定の造詣があるなどと称する資格はない。私が当該のコラムで指摘したのは、このことである。それが、学者にとっての「基本的なマナー」だと分からない奴は、中傷誹謗と「批判」の区別がついていないのだから、学者を名乗る資格などない。そういう当たり前のことが分かっていない奴に失礼なことを言われたので、反撃した、というだけの話である。お互いに紳士的に討論している時に討論のため常識的なルールを守ることと、いきなり罵倒された時に「ふざけるな、何様のつもりだ!」と怒鳴り返すことが、矛盾しているとでも言いたいのか?
 しかし、これは序の口である。特にひどかったのは、九州の某国立大学法学部の政治学系の教員Bだ。Aを煽って“反論文”を書かせたうえ、ツイッター上で悪意のあるコメントを集めるお膳立てしたのは、Bである。Bは以前、一度だけ私と一緒に仕事をしたことがあるし、共通の何人か知人もいるのだが、この間一切私に連絡しないまま、私に対する攻撃を一方的に続けた。BはAのことを「冷静な対応をしている」「文章力がある」などと持ちあげ、それとの対比で、私のことを、「本当のことを言われて、狼狽している。みっともない」などとけなした。togetterに誹謗中傷コメントを集めてアップしたのは、Bのお仲間である――問題のtogetter自体は、いつの間にか削除されていた。
 それに次いでひどかったのは、首都圏の大手私大の法科大学院の教授だというCと、そのお仲間らしい、匿名の女性研究者Dである。Cは、明月堂書店のブログに掲載されていた私のコラムの魚拓を見たらしく、いくつか誤読による見当外れのコメントをしていたが、特にひどかったのは、「この文章を書いた人間の精神の歪みを感じる」というものだ。Dは、「私は学生時代に自分のブログに、先輩研究者から暖かいコメントをもらって勇気付けられながら育ってきました。そういう私としては、こういう心ない文章に対しては怒りを通り越して、背筋が寒くなるのを感じます」、などともっともらしいことを書いている。
 私は、自分がまともな人格者であるとも、立派な教師であるとも思ったことなどないが、炎上騒ぎ――明月堂書店のブログ上で起こったことではないので、厳密には炎上ではない――に便乗し、他大学の教員の人格をけなし、自己満足している自分たちの人格は、まともだとでも思っているのか?
 仮に、B、C、Dたちが、ある程度の著名人である私が、“か弱い学部生であるA”を迫害していると認識――冷静に考えれば、そんな状況ではないのだが――したうえで、義侠心でAの味方をしたのだとしても、どうして私を挑発し、騒ぎを大きくするようなまねをするのか? Aが実際、研究者志望の学部生だとすれば、この手の騒ぎを起こすのは、本人の将来のためにはならないだろう。ツイッターで騒ぎを起こすような学生と付き合いたいと思う研究者がどれくらいいるだろう。
 彼等がAのことを真剣に考えているつもりなら、先ず、仲正と直接話し合いをするよう諭すべきだろう。B、C、Dの内の誰かが、間に入って仲介すれば、Aは匿名のまま、私や明月堂書店と話し合いをすることができたかもしれない――Aが本当にまともな人間なら、自分の身元を隠したまま、言いたいことだけ言うというのは、おかしなことだが。Aと知り合いであるBや、首都圏の大学――Aの大学かもしれない――に勤めているCには、その機会が十分あったはずだ。B、C、Dが、自分は仲正などと違って“ちゃんとした教育者”だと思っているとすれば、仲裁の努力を一切せず、逆に煽って騒ぎを大きくするのは、矛盾している。
 そういうことに思い至らない人間が、まともな教育者ずらしてのさばっている現状を見ると、私の方こそ、「怒りを通して、背筋が寒くなる」。Dのような奴を暖かく育ててやったという“やさしい先輩たち”の面を見てみたいものである。
 そもそも、大学の研究者が、研究交流や社会問題に対する意見交換など、健全な目的でツイッターをやっているのだとしたら、こういう社会的重要性が極めて低い――ほとんどないといっていい――事案に、単に大勢の人間がRTしているというだけで安易に首を突っ込むのはおかしいだろう。野次馬根性で集まって来たくせに、そういう自分の行状を顧みることなく、まともな人間らしい口をきくことができるのは、末人的症状である。
 この騒ぎ自体は、明月堂ブログの閉鎖から二日くらいで収まった。誹謗中傷を続けても、私がツイッター上で直接反撃しなかったので、飽きたのだろう――本当に末人である。しかし、それから大分たって、これがどういう騒ぎだったのか根本的に誤解して、更に見当外れなことをつぶやいたバカもいた。都内の有名私立大を出て大手広告代理店に勤めているこのバカは、この騒ぎが、たまたま騒ぎが起こったのとほぼ同時期に刊行された、拙著『〈ネ申〉の民主主義』(明月堂書店)に起因するものと勘違いして、おかしなことを言い出したのだが、この件について詳しくは、次回述べることにしよう。
 念のために予め言っておくと、この本が書店の店頭に本格的に出回り始めたのは、騒ぎが起こった後なので、本の内容と騒ぎは全く関係ない。「末人」は、何重にも事実誤認したうえ、自分のような頭がいい人間が間違えるはずがないと思い込んでいるので、話が通じない。誤りを正そうとすると、「意味不明!」と騒ぐ。つくづく厄介な連中である。