自分の思い通りに事態が進行しないと世界は破滅すると思い込んでしまう病

仲正昌樹[第27回]
2015年12月6日

あごうさとし「複製技術の演劇——パサージュⅠ」より

あごうさとし「複製技術の演劇——パサージュⅠ」より

 私は何年か前から、京都を中心に活動しているあごうさとし(吾郷賢)氏という現代劇の演出家による「無人劇」のプロジェクトにドラマトゥルクとして参加している――どういうコンセプトの劇なのかはあごう氏のHP(http://www.agosatoshi.com/schedule)などに出ているし、ドラマトゥルクというのが何をするかについては、演劇関係の書物で解説が出ているので、適当に調べてほしい。現在、制作中の「バベルの塔Ⅱ――純粋言語を巡る物語」という作品は、岸田國士の戯曲『紙風船』(一九二五)と『動員挿話』(一九二七)をベースにした、リアルな役者による芝居を、映像的に加工したうえで、インスタレーション的――インスタレーションがどういうものかは、調べればすぐに分かるだろう――に展開する、というコンセプトのものである。そのため、私自身、ベースになった二つの戯曲をじっくり読み、リアルな役者による芝居の稽古も見学した。そうしている内に、この二つの戯曲のテーマが、私がこの極北の連載で繰返し指摘していることと繋がっているような気がしてきた。
 『紙風船』も『動員挿話』も、夫婦の間のディスコミュニケーションが主題になっている。両方の作品とも青空文庫で読める。『紙風船』は、新婚の夫婦の日曜日のやりとりという設定であり、今日何をしようかという他愛もない会話をしているはずなのだが、その会話がどこかおかしな感じで空回りし続ける。二人で一緒に何かやることに消極的な感じの夫に、妻が不機嫌になり、それを夫がなだめようとするのだが、それが余計に妻の癇に障り、余計に不機嫌な調子になっていく。そういう負のスパイラルが、毎日曜繰り返されているという。その通りだとすると、気が遠くなるようなループである。妻にとっては、何か理想のコミュニケーションがあるけれど、夫の態度がそれからズレているので、不機嫌になるのだろう。しかし、どうしてほしいのか、本人にも具体的に分かっていないので、負のスパイラルに入っていくように見える。夫婦に限らず、人間関係でよくありそうな話であるが、それを演劇として凝縮した形で表現すると、狂気のように見えて来る。あごう氏がこれをどう演出し、それがどう展示されるかは、作品を見て確かめてほしい。
 この作品から見えて来るのは、理想のコミュニケーションに固執しすぎて、かえってディスコミュニケーションのスパイラルに入っていく現象をめぐる問題だ。普通の人間は、親しい相手との間のディスコミュニケーション=気持ちの伝わらなさを経験しても、そのことに固執し続けることはない。理想のコミュニケーションを求めることは無理だと自分に言いきかせる。何かのきっかけで、自分の気持ちが伝わらないでストレスを感じても、いつまでもそのことだけを考え続けることはできない。生きていくうえでやるべきことがいろいろあるからだ。相手や周囲の人のリアクション、世の中の動向に関係なく、同じ問題にいつまでもこだわり続けるのは異様である。
 夫婦や恋人、友人の間で、そういう問題が生じただけであれば、社会にとってさほど害はないので、当人たちのコミュニケーション努力で勝手に解決してもらえばいいわけだが、不特定多数の人に向かって、「私を理解してくれ!」アピールする人間は、厄介である。ブログやツイッターでイタイ自己主張をして、暴れている連中の多くは、そういう傾向があるのではないかと思う。彼らは、自分には“優れたアイデア”“独創性”“洞察力”“高い感受性”などがあると信じ、それを他人に認めてもらいたがっている。それでネットでアピールするのだが、陳腐で下手な文章にすぎないので、なかなか他人に注目されない。それで、「○○という問題を本当に分かっているのは私だけだ!」、「▽▽の問題を解けるのは私だけだ」などと叫び始める。そうすると、多少は注目されるかもしれないが、当然、バカとして注目されたのだから、からかわれることになる。そうなると余計に意固地になり、「世の中はバカばかりだから、時代の先を行く私の考えが理解できないのだ。しかし、どこかに真実が分かる人はいる」、と思い込み、“同士”を探し始める。そして、自分が世の中で正当に認められていないと不満を持っている人間たちが集まってきて、自分たちを苦しめ、不遇にしている共通の“元凶”を名指しし、糾弾することで溜飲を下げようとする。しかし、そうやってできたお友達のサークルは、他人の言うことを聞くつもりはなく、ただただ自分のことを認めてほしい人たちの集まりなので、すぐに仲たがいする。そして、“バカばかりの世の中”にますます絶望し、同じようなことを延々と繰り返す。
 『動員挿話』の方は、日露戦争に出征する予定の将校に雇われている馬丁とその妻のディスコミュニケーションである。主人に頼まれて一緒に出征しようとする夫を、妻は引き止めようとする。一度は、主である将校の頼みを断り、夫婦で主の家の暇を告げることに、夫を同意させるが、夫が途中で翻意して、出征することになったため、妻は突然自殺する。最初は、夫の身の安全を願う普通の妻に見えていたが、物語が進む内に妻の妙なこだわりが目立ってくる。あくまでも馬丁であり、普通の前線の兵士ではないので、出征したからといって死ぬとは限らないが、妻の数代は、夫の友吉といったん別れれば、二度と会えないと決めつけてしまって、譲ろうとしない。その挙句、夫が出征する前に、先手を打って自分の方が自殺してしまうわけである。時代背景と結び付けて反戦的な読み方をしたい人もいるだろうが、妻の態度からすると、そういう読みはかなり不自然だろう。夫が国家から強制されて出征するわけでもないのに、妻が“抗議の自殺”をするのは奇妙だし、夫との平和な生活を強く願っている妻だとすれば、夫が生きて帰って、また二人で暮らせる可能性があるのに、その結果が分かる前に、自分が死んで、可能性をゼロにするのは非合理の極みである。この妻を、通常の意味でのフェミニズム的な抵抗の主体と理解するのも、難しいだろう。何を目指して抵抗しているのか分からないからである。
 この作品単体で見ると、理解しにくい妻の行動なのだが、『紙風船』に見られた、ディスコミュニ―ションの延長線上で考えれば、それなりに理解できるような気がする。夫婦間にディスコミュニケーションがあり、ちゃんとコミュニケートしようとすればするほど、ディスコミュニケーションが際立つだけだと気付いてしまった妻が、耐え難くなって、自らループを断ち切ったという理解である。『紙風船』と違うのは、妻が、自分の思う通りに事態が進行しなければ、必ず悲劇が訪れる、あるいは自分にとって世界の終わりだ、と思い込む、完璧主義的な傾向を持っているように見える点だろう。夫が自分の思う通りに行動してくれなかったら、二人の関係は終わりであり、自分にとって世界が終わったのと同じなので、生きている意味がなくなった。そうした完璧主義的な物語への固執が、彼女を最後に暴発させたと解釈することができる。
 自分のやり方に固執し、その通りにいかないのであれば、自暴自棄になり、それまでかなりの労力や金をかけて取り組んできた仕事やプロジェクトであっても、投げ出してしまう、あるいは、そうしたくなる、というのは、ほとんどの人が人生の中で何度か体験することだろう。しかし、エスカレートしすぎて、自殺(寸前のところ)まで行ったり、自分や周囲の人の人生を台無しにするような決断をする人は、ほとんどいない。そういうところまで行きそうだと予感すれば、どこかでセーブして、妥協しながらでも生きて行こうとするのが普通の人間である。
 ネット空間には、恐らく口先だけだろうが、自分の思う通りに政治やマスコミが動かなかったら、日本が滅びると完全に思い込んでいるかのような言い方をする人たちがいる。安保法案が成立してしまったら、日本は再び侵略戦争を始め、若者は徴兵に取られて、その多くが戦死する、と断定し、それを推進するアベやその支持者を、殺人狂呼ばわりし、ありとあらゆる罵詈雑言を投げつける人たちがいた。法案が成立したら、どうせ日本は滅亡し、ほとんどの人は死ぬのだから、どれだけ悪口を言っても関係ないかのような口ぶりだった。自分たちが恐れていた事態が実現した今、彼らはどう生きていくつもりなのだろうか。ごく普通に考えれば、安保法案が成立し、政府にそのつもりがあったとしても、さまざまな準備が必要なので、すぐに戦争を始めることはできないし、徴兵制を実施するのは、国民の反対があって、かなり困難なはずである。現実に戦争をしなくてもいいような環境を作ることには、安保法案に賛成した人や黙認した人たちも合意するはずだから、法案成立後は、そういう人達とうまく協調していくのが賢いやり方のはずだが、自分たちの考えについてこない人間全てをクズ呼ばわりしたら、話し合いの余地はなくなる。自分たちの思っていた通りにならなかったらその後どうするかを全く考えていないのだろう。
 「ピケティの問題提起が真剣に受け止められなかったら、日本の経済は崩壊の一途をたどる」(本連載の十八回及び十九回参照)とか、「ソーカル事件の意義を相対化する修正主義者が増えたら似非科学が蔓延することになる」(二十二回及び二十三回参照)といった、かなり強引な物語を頑強に主張し、それを受け容れない者を徹底的に人格攻撃しようとする輩は、完璧主義の病にかかっているのではないかと思う。その根底には、理解されたくて仕方ない病があるような気がする。