哲学や文学研究はカンタンだと思っている連中の大言壮語

仲正昌樹
[第24回]
2015年8月30日
『教養主義復権論』2009年、明月堂書店

『教養主義復権論』2009年、明月堂書店

 前々回前回と、「ポストモダン(ポモ)」と呼ばれる思想傾向についてその実態をよく知らず、また、知ろうともしないまま、適当なことを言いたがる人たちのことを書いた。すると、「ポモ」という言葉にパブロフの犬のように反応して、「お前はソーカル様の偉大な業績を否定するのか」、とステレオタイプに吠え立てる連中が何匹か登場した。偉そうなことを言う割にはこの連中は、ソーカルによって批判されている「ポモ」というのが、どういうことをテーマにしている知の営みであるのか全く分かっておらず、ソーカルの“言い分”――実際には、ソーカルの言い分そのままではなく、どこかのまとめサイトなどに載っている、ソーカルの主張の要約――をそのまま真に受けている。「ソーカル事件」は、ソーカルが「ポモ」系の学者をからかうべく、インチキ論文を投稿したことから始まったことだというのを念頭に置くと、そういうことをやる人間の言うことを全て真に受けていいか、疑問に思ってしかるべきだが、その程度の批判的思考さえ働かない連中が“ポモ批判”をやっているのである。インチキ論文が投稿された《Social Text》というのは、「ポモ」のための準学会誌的な役割を果たしているわけではなく、たまに「ポモ」的なテーマの特集を組んでいただけの、マルクス主義系の雑誌だという最も基本的なことさえ分かっていないのだから、学問とは縁のない連中なのだろう――自分で論文らしいものを書いて、査読制度のある雑誌に投稿した経験のある人間なら、インチキ論文が掲載された“ポモ雑誌”がそもそもどういう性格のもので、それが「ポモ」とどういう関係にあるのか、知ろうとするだろう。
 この連中の言い分を見ていると、どうも「ポモ」がどうこうというより、哲学や文学(研究)のような人文系の学問は、方法論などないに等しく、思いつきでいい加減なことを言うことが許される偽科学だという先入観があるようである。前回例として取り上げた、shinzorという人物の、“文学作品”と文学研究を混同した戯言などはその最たる例である。吠えていた連中の中には、その他、「仲正は理系コンプレックスでポモを擁護している」と――ソーカルの主張の内で、確定的事実と見てよい部分と、争いの余地が大きい部分を分けて考えるべきだと指摘することが、どうして“理系コンプレックス”になるのか皆目理解できない――主張する者や、どういう思考回路によるのか分からないが、「こういう事件(=ソーカル事件)があるのなら、国立大学で文系学部廃止論が出るのもやむを得ない」、と暴言を吐く者もいた。
 こうしたことを平然と言い放つ人間にとっては、哲学や文学研究など、テクストの解釈や思考の筋道をつけることに主眼を置く“学問”は、もともと学問というほどのものではなく、単なる雑学や一般キョーヨー――「教養」とは本来どういうものかについては、明月堂から出している拙著『教養主義復権論』で論じた――にすぎないのだろう。哲学や文学研究を全般的に下に見ている人間、というより、複雑な長文を読んだり、込み入った関係を整理して理解することが苦手で、自分の頭にすっと入ってこないことは無価値だと決めつけてしまう病的な体質の持ち主が、そうした面倒くさいものの権化として「ポモ」を嫌っているということかもしれない。前回の文章で私は、ソーカルたちが『知の欺瞞』で描き出そうとしている「ポモ」のイメージにどういう問題があるのか、テクストの構成に即してやや細かく説明した。しかし、それを理解するつもりがないらしいlocust0138という人物が、「中身がないのに無駄に長い文章を書くのは学者としての適性に欠けると思う」、という中傷を、はてなブックマークに書き込んでいた。こいつには、自分の理解できないことを「中身がない」と決めつけて自分を守る習性があるのだろう。学者でもないくせに、どういう基準で「学者の適性」を判定しているのだろうか? こいつは、偽科学論争のような話があるとすぐに首を突っ込んでは、一方の当事者を罵倒して、溜飲を下げたつもりになっているようである。典型的な学者コンプレックス人間なのだろう。あと、中身とは関係なく、私の文章のタイトルだけ見て、私のことを「学者としては低級だと思う」、などとしつこく誹謗していたtakehiko-i-hayashiなる人物も同類だろう。こいつは一応職業的には学者らしいが、はてなブックマークでこそこそと他人の誹謗中傷をするような輩は、「人間として低級」である。というより、人間扱いする必要のない屑である。そもそも、私の文章に“中身がない”と思うのなら、どうしてわざわざ首を突っ込んでくるのだろうか? 何だかネット上で話題になっていそうなので、その話題の元になっている奴を一言罵倒してやって、自分に注目を集めようとする卑しい心根が見え見えである。こういうことを言うと、「テクストをしっかり分析すべきだと言いながら、おまえは、私たちのテクストを細かく分析しようとしないで、粗っぽく切り捨てているではないか。ブーメランだ!」、などとステレオタイプの反応をする蛆虫が湧いて出そうだが、自分の身元や立場を明らかにしないまま、いきなり相手の人格を罵倒しようとする屑どもの“文章もどき”には、分析したり反論したりする価値などない。ネットに時々湧いて出る不快な害虫の例として言及しているだけである。
 こういう連中にとって、何となくカルイ感じがする「ポモ」は、哲学や文学研究の“弱さ”の象徴なのだろう。そういうナメ切った態度は、訳が分からないのに「ポモはダメ!」と言っている人々だけではなく、逆に「ポモ」に便乗して自己アピールしようとする、ネット上の自称哲学者、自称文芸・アニメ批評家や自称社会学者などにも共有されているように思える。東浩紀や千葉雅也などの「ポモ」系と目されていると論客を叩くことで、自分こそ「真のポモだ」と間接的にアピールする人たちも同類であろう。
 この手の人々は、近代的知を支えてきた基本的な前提が崩れつつあることを示唆したリオタールとかフーコーの議論や、デリダのキーワードとして通用している「脱構築」――多少デリダの意図に反する形で、「脱構築」を定義できないわけではないが、ちゃんと分かっている人間はあまりいないようである――という“概念”を、又聞きの又聞きくらいで仕入れてきて、それらからの連想から、「ポモ」には前提となる基礎知識など必要ない、「何でもありだ」、と思い込んでいるようである。基礎知識が必要ないので、自分のその都度の思いつきを、“オリジナルな思想”として堂々と主張してもいい、ということになる。無論、自分の“オリジナリティ”を主張するのは勝手だが、基本的な前提を踏まえた議論でないと、哲学や文学をちゃんと勉強したうえで、「ポモ」的な路線を取っている人たちから相手にされるはずはない。リオタール、ドゥルーズ、フーコー、デリダ、アガンベンなどは、哲学と文学・文芸批評、場合によっては、法学や文化人類学などの歴史を踏まえ、批判の対象である古典的テクストを細部にわたって徹底的に分析したうえで、従来絶対的と思われていた知の基準がいかに文脈依存的で不安定であるかを示すことを試みてきた。だからこそ、専門的な研究者から注目されるのである。“哲学”や“文芸批評”を漠然としたイメージとしてしか知らない無教養な人間が、適当に「絶対的な知などない」、と叫ぶのとは全く次元が異なる。
 フーコーやデリダを参考にしながら哲学や文学の研究をしている者にとっては、そんなのは、当たり前のことなのだが、「ポモ」に便乗しようとする人は、その当たり前のことを受け入れたがらない。『声と現象』でのデリダの音声中心主義批判を論じようとすれば、フッサール現象学の概要とその発展史、そして記号論の基礎を抑えておかないといけない。『グラマトロジーについて』でのエクリチュール論を語ろうとするのであれば、ルソーの言語起源論の思想史的意義や、レヴィ=ストロースの文化人類学に対するルソーの影響について知っておく必要がある。しかも、そうした基礎知識があっても、デリダは対象となるテクストをかなりひねくれた角度から解釈しているので、かなり集中して読まないと何を言っているのかよく分からない。原文で読めることが大前提であるが、単にフランス語が読めるだけでは、ダメである。哲学や文芸批評に特有の言い回しに慣れていないといけない。そう考えると、かなりハードルは高い。こういう言わずもがなのことを言うと、自称「ポモ」系論客たちは、「それは学者の権威主義だ。あなたは、デリダの最も本質的な部分が分かっていない!」、とステレオタイプな脊髄反射をする。
 その手の横着者たちが、ネット上で大手を振って「ポモ」ごっこをしているせいで、それを見ている文系的リテラシーが低い人たちが、「やはりポモはダメだ!」と短絡的に決めつける。自然科学や、法学・経済学などの実学的な社会科学の分野に関しても、学者になり損なった人間や訳知り顔のど素人がネット上で適当な議論をし、知らない人が惑わされ、専門家がそれに辟易させられるという現象はしょっちゅう起こっているはずだが、文系アレルギーの人たちは、哲学や文学研究には、専門家/素人の区別はないと思い込んでしまうようである。それだけではない。学者としてのちゃんとした訓練を受けないまま「ポモ」ごっこに興じている人々のほとんどは、自分の文章を発表する活字媒体を見出せず、評論家として食っていけない。そうなると、今度は自分を受け入れてくれなかった「ポモ」に対して恨みを抱き始め、「ポモ」批判に回り、やたらにソーカル、ソーカルと言い始める。どういう実態があるのか知らないまま、「ポモはダメ!」「ポモはダメ!」、と唱える人間がどんどん増えていく。そうした安直な「ポモ」批判は、先に述べたように、哲学や文学研究をナメタ態度に由来することが多いのだが、哲学や文学の研究者の中にも、派手なパフォーマンスをやってやたらと目立っている(ように見える)「ポモ」的なものをよく知らないまま、食わず嫌いでゲテモノ扱いしたがる人たちがいる。その人たちが、自分たちにも悪影響が跳ね返って来る可能性があるとは考えないまま、「ポモはダメ!」の合唱に加わることがしばしばある。負のスパイラルはどんどん拡大していく。
 「ポモはダメ!」という声は、「『ポモ』のようなものを許容する人文系の学問が、そもそもダメだからだ。大学のお荷物でしかない文系の学部は潰した方がいい!」、という声にカンタンにシフトする。有名大学の文学部で、哲学、文学、歴史学、社会学などのポストを持っている教員や、そのもとにいる院生たちは、「いい加減なのは、『ポモ』的なことをやっている連中や、『国際●●学部』『文化□□学科』、『グローバル▽▽コース』などの四文字あるいはカタカナまじりの学部・学科であって、自分たちはちゃんとした伝統的な学問をやっている」と言いたがる。しかし、はなっから“難しい文章を読むこと”や“文脈を整理すること”の価値が分からない人間にとっては、大した違いではない。にわかソーカル信者にとっては、カントもヘーゲルもフッサールもデリダも、自分たちには何がテーマなのかさえ分からない難解な文章を偉そうに延々と書き連ねる、“偽学者”にすぎないだろう。
 前々回、文系の学問、特に文学や哲学の研究は、実験や観察をやる自然科学系の研究や、数式を扱う数学と違って、答えが確定しにくいと書いたが、それは、これらの分野には方法論がないとか、思いつきで適当な議論をしていいということではない――そう勘違いした輩が何匹かいたようだが。実験や観察のような手段によってクリアに答えを出すことができないということで言えば、法の解釈の学としての法学も基本的には同じである。法学の方法論がいい加減だと決めつける人間はあまりいないだろう。法学の場合、議会での立法や裁判所の判決があるので、学問外在的に答えが出てしまうわけだが、仮にそうした外的な要因が働かず、法解釈の学説同士の論争が続くのであれば、クリアに答えが出ることはまずないだろう。しかし、法解釈学には、法律の読み方に関していろいろ細かい規則があり、それに基づく解釈でないと専門家の間で通用しない。そうした専門的な読み方を体系化する必要があるからこそ、法律家とは別に法学者が存在するのである。哲学や文学には、法学ほどの具体的な社会的ニーズはないが、そのことと、学問自体にちゃんとした方法論が備わっているかどうかは全く別問題である。
 誤解が生じないよう念のために言っておくと、私は別に、自然科学の実験や観察で絶対的に正しい答えが出るなどと信じているわけではない。どんな厳密な実験装置・計画もいろんな補助仮説のネットワークを前提に成り立っており、一つ一つの前提を疑い始めると、完全な証明など不可能になる。それは科学哲学で散々議論されている話であり、『知の欺瞞』でもラトゥール批判の箇所で話題になっている。また、STAP細胞問題を通して明らかになったように、ちゃんとした実験装置を持っていても不適切に使う人もいる。そういうことは大前提だが、「ポモ」をめぐる誤解の問題で、そういう話にまで入り込む必要はないので、便宜的に、実験や観察だと比較的クリアに答えが出る、と言っているだけである――理系コンプレックスで持ち上げているわけではない。
 哲学や文学研究の対象となる古典的なテクストの読み方にもいろいろ細かい規則がある。例えば、私が大学で教えている(西欧)政治思想史という分野で言うと、〈civil society(市民社会)〉〈Volk(民衆=民族=人民)〉といった言葉は、時代や地域によってかなり意味が変遷している。ほぼ同時代の同じ国の思想家が同じ言葉を使っていても、意味がズレていることがあるし、わざと意味をズラしていることもある。そうした言葉の変化にその社会の価値観や世界観の変化が反映されているかもしれない。微妙な違いを読み取るには、いろんな関連するテクストを比較対照したうえ、それに関する先行研究を把握しておかないといけない。人文系の研究では、昔の学説よりも後の時代の学説の方が優れているとは限らないし、既に終わったと思われていた学説が、少し視点を替えて定式化し直すと、アクチュアルな問題の解決に有効であることが分かったりするので、まじめにやれば、先行研究の把握はかなり大変な作業になる。どのテーマを論じるのに、先ず何を読まないといけないか見当がつかないのは、素人である。無論、“素人”のまま修士論文だけは何とか書いて、研究者ズラをしている人間はいるが、そういう人間はどこの分野にもいるだろう。
 文系の学問をナメテいる人間は、そんなの大して難しいことではなかろう、とタカをくくるかもしれないが、そう思うのだったら、例えば、ハイデガーが〈geistig〉と〈geistlich〉というよく似た、二つのドイツ語の形容詞をどのように使い分けているか、オリジナルなテクストに基づいてきちんと説明することを試みてみたらいいだろう。これは、ほぼ正解が決まっている問題である。ドイツ語の辞書を見ると、〈geistig〉と〈geistlich〉のそれぞれの意味が出ているが、それはあまり関係ない。従って、哲学を専門的に勉強していないネイティヴのドイツ人に聞いても、意味はない。デリダは、この〈geistig/geistlich〉の区別が、ハイデガーの「存在史」の変容とその政治的含意を理解するカギになると示唆する。このデリダのハイデガー解釈を正当化できるかどうかというのは、専門家でも意見の分かれるところであり、はっきりした答えは出ないだろう――この辺のことについては、いずれ解説書を出す予定である。
 そういうことに関心を持つことなどできない、そんなことを学んでも何の役に立つのか分からないと思う人の方が多いだろう。そう感じる方がむしろ自然である、と私も思う。しかし、自分が関心を持てないもの、何の役に立つのか直感的に分からないものは、無価値であると即断するのは傲慢であるし、そんなものにまともな方法論などあるはずがないと決めつけるのは、病的な思い込みである。
 文系的なリテラシーの基本についてもう少し言いたいことはあるのだが、それは次回以降に取っておこう。