奇蹟の誤読

仲正昌樹
[第17回]
2015年2月2日
今井君が今こそ読むべきと思われる1冊

今井君が今こそ読むべきと思われる1冊

 ネット上のウヨクやサヨクには、ある程度知名度があり、マスコミにも登場している学者や知識人が実はバカだということを“証明”しようと躍起になっている輩が多い。ターゲットにした学者や知識人の発言やテクストを、よく分かりもしないでけなそうとする。専門家の眼から見ると、目も当てられないくらいひどい誤読なのに、本人は大発見をして、その学者を追い詰めたつもりになるのだから、始末が悪い。この連載でも何度も述べているように、私もしょっちゅうこの手の連中から被害を受けている。以前はサヨクからの被害を受けることが多かったが、このところウヨクからの被害も増えている。最近のウヨクには、知識へのコンプレックスが強く、偽学者を論破することで、自分の方が真の知識人だと証明したい奴が多いようである。昔は、そういうのはサヨクの専売特許であった。

 最近、新潟県の方で在特会関係の活動をしているらしい今井道夫という人物が、「仲正昌樹はハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読んでいない」という記事を、活動仲間の何人かに送信したようである。そのお仲間のバカの何人かが、そのデマ記事を自分のブログにアップしているのが私の眼に入った。この今井という男は、アーレント研究の専門家を名乗って、『全体主義の起源』についての解説らしき文章を書き、仲間に回覧しているようだ――思想史を研究している学者でもないのに、専門家を自称できる神経は理解しがたい。その今井が何かのきっかけで、私の著作『今こそアーレントを読み直す』(講談社現代新書)に関する他の人のブログ上の記事を見て、仲正は『全体主義の起源』を読んでいないと判断し、私を誹謗する記事を書いたようである。しかし、今井はそう決めつけて誹謗する一方で、私の著作を一切読んでいないことを認めている。今井曰く、仮に仲正が少しは『全体主義の起源』を読んでいたとしても、現実を知らず表面的なことしか理解できない学者風情に『全体主義の起源』を理解できるはずがないので、ちゃんとバカにしてやる価値もないことが予め分かる、というのである。こんなことを平気で書けるだけで、十分に狂人である。
 この男が私の本を読んでないのに、私を偽学者と判断した根拠は、彼の文章にまとまりがないのではっきりとは分からないが、いくつかの断片的な記述から推測すると、要は、仲正はサヨクなので、(ウヨクのマドンナである)アーレントを理解できるはずがない、ということのようである。どうして、(ネット・サヨク連中から目の敵にされている)私をサヨクと思ったのかはっきりしないが、どうも私の本に言及した第三者が、(今井から見て)サヨク的な議論の例として引用していたので、「仲正はアーレントを理解しないサヨク」、と確信したようである。無茶苦茶、短絡的な奴である。
 二〇〇九年に私がこの本を出した時には、ネット上で常日頃から「新自由主義反対!」の雄たけびをあげているサヨク連中が、読みもしないで、「新自由主義批判・格差社会反対運動の意義を理解しない仲正にアーレントを理解できるはずがない」と決めつけ、アーレントからでたらめな引用――別の思想家の言葉をアーレントのそれと勘違いするなど――をしながら、私を貶めようとした。五年半経って、今度は自称ウヨクが同じようなことをやっているのは、ある意味、興味深い現象である。アーレントは、文学的で思わせぶりな表現をうまく使うので、(ネット上のありがたそうな言葉にすぐに飛びつく)サヨク・ウヨクの双方を刺激するのかもしれない。

 今井によれば、仲正などのサヨク知識人は『全体主義の起源』を読んでおらず、生半可な理解のまま適当にアーレント紹介をしているので有害だが、そうしたサヨクの欺瞞は、『全体主義の起源』そのものを読めば一目瞭然であるらしい。その証拠として、サヨクのアーレント観と真逆に見える箇所を“引用”してみせている――引用と言えた代物ではないが。恐らく、元外交官で作家のS氏が、「専門の学者たちは、基本的なテクストをちゃんと読んでいない。本当はこう書いてある…」、という調子で、評論文を書き始めるのを真似しているのだろう。たしかに、古典的なテクストの重要な箇所を引用することによって、学者の見落としを指摘できれば、かっこいい。しかし、それにはかなりのリスクが伴う。自分の方が、その古典テクストと、それに対する当該の学者の解釈の双方を曲解し、無茶苦茶な屁理屈を言っている可能性がある。学者になるための知的訓練を受けていない人間は、そういう二重の誤読をしている恐れがあるので、かなり慎重になるべきところだが、今井とそのお友達たちには、その自覚さえないらしい。

 実際、今井の文章は見栄っぱりの虚偽と、誤読のオンパレードである。例えば、今井は、「『全体主義の起源』ドイツ語版の○○頁には~」、という書き方をしているが、その○○頁というのは、大久保和郎氏等による邦訳の頁数である。みすず書房から出ている邦訳が、ドイツ語版をベースにしているので、ドイツ語版と言っているのだろうが、これはインチキである――英語版に基づく邦訳は刊行されていない。「邦訳の○○頁には~」、と正直に書かないとダメである。引用に際しては原則として原典に当たるべきだが、語学力とかオリジナルの入手困難などの理由で邦訳しか見ていないのなら、正直にそう書くべきである。そういうことは大学の学部教育レベルで習うはずだが、今井はそんなことさえ満足に習っていないのだろうか。今井がドイツ語を読めないことは、引用の随所随所で初歩的な間違いをしていることから分かる。例えば、「大衆的人間(マッセンメッシュ)」という間違ったカタカナ表記をしているが、これは大学一年の前期で習うレベルにも達していない証拠である――今井たちにドイツ語を教えてやる義理はないので、正しい表記は示さないことにするが、どう間違っているか知りたい人は、和独辞書でも見てほしい。
 今井の『全体主義の起源』の“解説”はあまりにもお粗末だが、基礎的教養のないバカがやりがちな誤読の典型的なサンプルになっている。貴重な反面教師である。そこで、今井を例にして、勘違いの基本的なパターンを何点か指摘しておこう。

 『全体主義の起源』は邦訳で三巻にわたる大著――いくつかの異なったヴァージョンがあり、まとめて一巻本にしているヴァージョンもある――であり、アーレントの出世作だが、タイトルから分かるように、全体主義体制が生じるまでの歴史過程、一八世紀末からのナチズムやスターリン体制の完成までの過程を論じた著作である。アーレントは(政治)哲学者であって、歴史家でも社会学者でもないので、史料として、歴史家や社会学者が書いたものを多く利用している。第二巻『帝国主義』では、レーニン、ホブスン、ローザ・ルクセンブルク、オットー・バウアー、ヒルファディングなど――これらがどういう人なのか分からないような人間がウヨクやサヨクになると、バカに磨きがかかっていく――の帝国主義の記述にかなり頼っている。アーレントの独自性が出ているのは、この本の大半を占める歴史的記述の部分ではなく、歴史的事実に対して哲学的考察を加えている部分である。哲学・思想史的な素養がない人間は、その肝心な箇所を読み飛ばす可能性が高い。哲学・思想史の素養がなくても、ドイツ史に関する教科書的な知識があれば、少なくとも、歴史的記述にアーレントの独自性があまりないことは分かるはずだが、今井にはどちらの素養もないので、歴史家や社会学者の先行研究に依拠した内容的にはさほど斬新でもない――が、アーレント流のレトリックによってたくみに表現した――記述を、“アーレントのすぐれた洞察”と思い込んでいるふしがある。読み手に教養がないせいで、斬新なことを言っているように見えるにすぎない。
 ただし、今井のようなド素人に限らず、プロの思想史研究者でもその手の勘違いをする人がたまにいるので、要注意である。アーレントは偉大だという先入観と、歴史学的な基礎知識の不足から、勘違いしてしまうのではないかと思う。

 今井の数々の勘違いの内、どういうバイアスに基づいているのかはっきりしているものを三点上げて論評しておこう。
 第一点は、「始まり」の意味に関する勘違いである。『全体主義の起源』の末尾で、アーレントは、人間にとっての「始まり initium」の重要性を語っている。「始まりが存在せんがために人間は創られた Initium ut esset, creatus est homo.」、というアウグスティヌスの『神の国』からの引用である。多くのアーレント研究者はここに注目し、「始まり」の重要性を強調する。今井は、それが気に入らないらしい。恐らく、「始まり」が、革命とか革新を含意しているように思えるからだろう。この「始まり」の意義を打ち消すべく、今井は、大衆社会の俗物たちの「新しいもの」好きをアーレントが辛辣に描き出していることを“指摘”し、「始まり」に拘るのは、読解力のないバカ学者だと断定する。この断定から、今井が三重の意味で読解のための基礎的教養を欠いていることが分かる。まず、本の末尾で述べられているのは、著者自身の結論であると考えるのが普通である。末尾で語られているけれど、結論的な内容ではないと主張するには、そう信ずべき根拠を示さないといけないが、今井はそういうことはやっていない。今井は自分が気に入らないことをアーレントが本気で言うはずがないと信じ切っている。彼にとってはそれで十分なのである。これでは、お話にならない。
 第二に、大衆社会の俗物が「新しいもの」好きだというのは、アーレント独自の見解ではなく、アーレント以前からいろんな人が言っていることである。それを引き合いに出して、結論を打ち消そうとするのは見当外れである。
 第三に、そもそも「始まり」というのは、単なる「新しさ」ではない。七年後に刊行される、アーレントの主著『人間の条件』では、「始まり beginning」は、「活動 action」と不可分な関係にあり、「複数性 plurality」を実現するための主要概念として位置付けられている。「始まり」が特別の意味を持つ概念であるというのは、アーレント研究の基本である。その基本を知らないまま、私の嘘を暴いたつもりになっているのだから、呆れかえる。無礼なバカどもにタダで知識を提供してやるつもりはないので、これ以上の説明は控える。どうしても知りたい人は、拙著『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』(作品社)を参照されたい。

作品社『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』

作品社『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』

 第二点として、アーレントが「大衆」批判として述べていることを、今井が強引に知識人批判に読み換えようとしていることがある。例えば、アーレントは、大衆が特定の世界観によって誘導される傾向があることを、社会学や心理学の知見を参照しながら指摘しているが、今井は、そんな大衆は日本にはいないと断じ、これはむしろ知識人の話として読むべきだ、と強引にねじ曲げる。「大衆」の内面性のことなど本当は分からないので、アーレントとは異なる解釈をすること自体には別に問題ないが、どうしてアーレントと関係がない、恐らくほとんど視野になかったであろう日本の大衆の話をし始めるのか。また、どうして、[大衆=知識人]という話になってしまうのか。確かにアーレントは知識人も批判しているが、[大衆=知識人]だなどとは言っていない。恐らく、かつて保守論壇のスターだった人が、知識人こそ典型的な大衆だとする、アーレントとは別の思想家の議論をやたらと引き合いに出していたので、それと混同しているのだろう――この人が誰で誰を引用していたのかは、“保守論客”にとっての基礎知識のはずなので、これ以上情報提供しない。
 これに加えて、今井は、アーレントによるアイヒマン裁判傍聴記録である『イェルサレムのアイヒマン』の中心的概念「悪の陳腐さbanality of evil」についても、これはアイヒマンの官僚的俗物性のことであり、全然難しくない、と勝手に断じたうえで、この概念にいろいろ注釈を加える私のような学者はペテン師だと主張する。これはとんでもなくバカな曲解である。アイヒマンが「俗物である」、という平凡極まりない感想を書くために一冊の本が必要なのか。そんなつまらないことのために一冊の本を書く人間だとすれば、アーレントはつまらないおばさんである。アイヒマン裁判の記録映像をちゃんと見た人なら、「アイヒマンは俗物だ!」などという平凡極まりない感想は持てないはずである――今井は恐ろしくピンと外れな奴なので、何も理解できないかもしれないが。「悪の陳腐さ」は、カントの「根源悪」論の解釈に関わる哲学的な問題であり、単なる官僚的キャラクターの問題ではない――このことは、多くのアーレント関係の研究書で丁寧に解説されている。
 今井は、どうも、[エリート=官僚+知識人=俗物=左翼]が、全体主義を作り出した諸悪の根源だと信じていて、それを、(ウヨクのマドンナである)アーレントも喝破していたと言いたいようなのだが、それは彼の妄想である。官僚や知識人だけで「全体主義体制」を作り出せるなどとアーレントは言っていないし、それは、「全体主義」という概念の意味するところと矛盾している。官僚と知識人による一方的支配体制は、全体主義体制ではない。最近のウヨクには、官僚や知識人の本質は、日本の伝統を破壊し、自分の利益だけ追求しようとするサヨク的体質だと思い込み、なんでもかんでもサヨク陰謀論にしたがる輩が多い。この手の言説も、やはり、さる有名な保守論客のお得意の言い方を無自覚的に真似たものであろう。

 第三に、ナチズムの本質に関する勘違いがある。『全体主義の起源』には、ナチス運動は、もはや「国民国家」の枠に囚われることなく、むしろそれを超えて拡張しようとする傾向があったことを示唆する記述がある。今井はそれをもって、アーレントは、ナチズムの本質はナショナリズムではなく、むしろ国家の枠を破壊して、世界国家を作ろうとする超国家主義だと喝破していた、と主張する。世界革命を目指したソ連のような体制こそ、典型的な全体主義であり、ナチスはその亜種にすぎないということのようである。今井は更に、健全なナショナリズムこそ、全体主義を防ぐものだとアーレントは見抜いていた、とまで言い切る。
 これは完全に今井の妄想である。まず、ナチスが国民国家の枠に拘らなかったというのは、フランスや英国など西欧諸国によって決められた国民国家相互の境界線を認めず、「ドイツ民族」の本来の生存空間はもっと広がっているはずという想定の下に、現状を変更しようとした、ということである。西欧的な意味での「国民国家 nation-state」は、自分たちは一つの「国民 nation」であるという政治的自覚を持った人民から構成される「国家」であり、三十年戦争後のウェストファリア条約でその原型が作られ、ナポレオン戦争を通して各国の「国民」意識が高まるなかで、次第に実体的な政治の単位になっていったとされている。「民族 Volk」というのは、同じ文化や言語を共有する人びとの集合であるが、必ずしも政治的自覚を持っておらず、共通の国家を持っている必然性もない――〈Volk〉の元の意味は、「民衆」である。歴史的な「民族」意識に基づいて、「ドイツ民族」の文化のルーツを探究し、伝統を保存していこうとするロマン主義的な運動は、一九世紀初頭からあったが、第一次大戦後、多くの領土を失ったことで、若者の間に「民族」意識が急速に広がったとされている。ナチスもそうした「民族」運動の一つであった。民族主義者たちに言わせれば、「ドイツ民族」の居住空間は、第一次大戦後のドイツ+オーストリアの領土の範囲をはるかに超え、ベネルクス三国からヴォルガ河まで及ぶ。そうした民族主義的運動は、ドイツ統一の原動力になった一九世紀の自由主義的なドイツ・ナショナリズムよりも拡張傾向とイデオロギー性が強いが、ナショナリズムでないとは言えない。この程度のことは、ドイツ史の常識である。アーレントも、ドイツ史の基本的知見を踏まえて、ナチズムの反西欧的な民族主義を記述している。『全体主義の起源』の第一巻では、西欧諸国における国民国家の形成過程で、ユダヤ人がはじき出されたこと、第二巻では、一九世紀後半に各国民国家をベースとした排他的な帝国主義政策が展開されたことが――レーニンなどの議論を下敷きにして――記述されている。アーレントは、国民国家の存在を全否定しようとしているわけではないが、無条件に国民国家と結び付いたナショナリズムを肯定しているわけでもない。今井はとにかく、「ナショナリズム=健全/インターナショナリズム=全体主義」ということにしたいのだろう。それを示唆しているように見える箇所を、前後の文脈を無視して集めてきて、曲解まじりの“解説”を展開している。

 結局のところ、今井は、「知識人=俗物なサヨク」と「ナショナリズムの否定=全体主義」という二つの自説を、アーレントが証明してくれていると思い込み、その観点から一貫した誤読を続けているのである。彼は、そうした妄想を前提として、『全体主義の起源』は奇蹟だと書いているが、これほどまでに、ど素人――思想関係のテクストの読解に関して、素人/玄人の区別をするのは本来私の望むところではないが、今井のように思い込みが強く、失礼な物言いをする輩は、“素人”と呼んでもいいだろう――の典型的な誤解の数々を一身に集約した「誤読バカ」が誕生したことこそ、日本のウヨク系ネット文化の奇蹟である。
 私は、今井やお仲間のハンドル・ネーム「もえとら」などに対して、こうした間違いの一部を指摘したうえで、謝罪を求めたが、連中からは何の返答もない。「もえとら」等は、私の名前の入っている箇所だけ消して、だんまりを決め込むつもりのようである。今井は、件の“解説記事”の中で、「仲正から反論があれば、聞いてやったうえで、徹底的にその欺瞞を暴き出し、バカにしてやろう。こいつは大学教授なのだから、税金返せと言っていいレベルだ」などと、偉そうで無礼なことを言っていたが、実際には、この体たらくである。極上のバカであるうえ、卑怯者であることも明らかになった。
 こういう連中は、美しい国日本を汚染し、保守陣営の知的劣化を促進する害虫である。国を愛する心が少しでもあるのなら、さっさと日本海に飛び込み、その奇蹟的な愚劣さと共に消えさるべきである。

『完訳カント政治哲学講義録』(仲正昌樹訳、明月堂書店)

『完訳カント政治哲学講義録』(仲正昌樹訳、明月堂書店)