「スーパーグローバル大学」とは何か

仲正昌樹
[第14回]
2014年11月6日

 九月末に文科省は、「スーパーグローバル大学」に選ばれた三十七の大学を発表した。「スーパーグローバル大学」というのは、国際的競争力を持った大学を育成するために、特定の大学を重点支援する制度である。東大、京大など旧帝大クラスの国立大や早慶など十三大学が、世界ランキング百位以内を目指す「トップ型」に選ばれた。そのワンランク下で、国際競争力の強化のための独自プログラムを追求する「グローバル化牽引型」に、千葉、岡山、明治、立命館など二十四大学が選ばれた。私が務める金沢大学も後者に選ばれた。
 こういうのに選ばれると、大学の格が上がったかのように見えるかもしれない。しかし、これらの大学で、選ばれたことを喜んでいるのは、学長や理事など執行部の人たちだけで、教員の多くは、面倒なことになったと思ってうんざりしているはずである。どうしてうんざりするのかと言うと、「スーパーグローバル大学」に選ばれるには、独自のグローバル化の案を文科省に提出して、審査を受けねばならないわけだが、どんなことをやったら国際競争力がつくのか誰にも分からないので、どの大学も取りあえず、頑張っているところを見せようとして、とにかく目立つ計画を立てる。実際に学生を教えている教員から見ると、非合理極まりない“計画”でも、文科省の役人が“斬新そうだ”と思ってくれたら、それでいいわけである。
 ほとんどの大学は、留学生の数や英語の授業の割合を増やすことを目標に掲げている。この二つの数値が上昇すると、大学の国際ランキングのポイントが確実に上昇するからだ。無論、その大学の研究や教育の環境が優れていることが国際的に知れ渡って、優秀な留学生が集まり、それに伴って、必要に応じて、英語の授業の割合を増やすのであれば、結構なことである。しかし、文科省の役人や与党の政治家はそれほど悠長に待ってくれない。すぐに“結果”を出すことを求める――どうして彼らが焦るのかは、説明するまでもないだろう。そこで、仕方ないので、入学試験の基準を下げたり、住環境を整えてやることで、とにかく留学生を増やせ、という話になる。
 また、“英語でやる授業”を早急に増やそうとすると、留学生向けの簡単な日本文化紹介の授業を英語でやり、そこに日本人学生を参加させる、というような安易な手法を取ることになりがちだ。そういうクラスでは、日本人と中国人やアラブ人が下手な英語でお互いの文化を紹介し合ったり、日本文化体験だといって一緒に祭りを見に行ったり、伝統芸能を習いに行ったりする。金沢大学には、コーヒー学とか温泉学の授業があるが、そういうエンタメっぽい授業を英語でやることも考えられる。無理に増やそうとすれば、そういうままごとのような授業ばかりになること必至である。文系、特に日本史、日本語・日本文学、民族学、法学などの場合、かなり高い日本語能力がなければ、自分で研究できるはずがないが、そういう分野ではどういう風に英語での授業を増やすのか。本来なら、こうしたことを真っ先に考えねばならないはずだが、ほとんどの大学の幹部は、そういう問題を自分で考えていない。ひたすら各学部、教員にプレッシャーをかけて、表面的な数値目標だけ達成しようとする。
 金沢大学はグローバル化の目玉として、教養教育の大改革を掲げている。先ず、従来ほとんどの科目が、九十分授業を一学期十六回(うち一回は試験)やって二単位だったのを、四半期(クオーター)に八回(うち一回は試験)やって完結する各一単位の授業に移行させる方針が打ち出され、その方向で話が進んでいる。四半期ごとに完結して、別の授業を受けるということになれば、継続して同じテーマについて勉強するという習慣は身に付きにくくなる。そのうえ、一回は試験のためにとっておかないといけないので、七回しか授業ができない。しかも、多くの大学でそうであるように、金沢大学でも従来、最初の授業はオリエンテーションで、二回目か三回目までは別の授業に替えてもいいことにしていた。四半期せいで、それを認めれば、ロスがものすごく大きくなる。七回の内、五回しか出席しないという学生も出て来る――欠席しないという前提での話である。この問題をどうするかについて、「スーパーグローバル大学」への応募に合わせて“改革案”作りを担当した、柴田正良教育担当理事等は全く考えていない。
 更におかしなことに、柴田理事たちは、第二・四半期に、主として国際学類――金沢大学には、とにかく国際と名の付く科目を集めた国際学類という学類がある――の学生が海外留学できるよう、この四半期には、専門や外国語の授業などを入れないようにすることを検討している、という。少し前に高校を出たばかりの学生に、たった四半期留学させて、何を学ばせるというのか。語学コースにちょっと出て、観光していたら、二か月弱の期間などあっというまに過ぎてしまう。その間、第二外国語の学習は中断される。本末転倒になる可能性が高い。そういうことに、留学する予定のない学生を付き合わせるのはおかしな話だが、とにかく国際学類を中心に留学する学生の数を増やしたい理事たちは、他の学生や教員の迷惑を考えようともしない。
 四半期制と並んで、教養教育改革の目玉になっているのは、GS(グローバル・スタンダード)コア科目なるものである。従来からある人文・社会や自然科学などの講義科目を廃して、五つの(四半期完結の)科目群に再編するということだが、そのタイトルがすごい:①自己の立ち位置を知る②自己を知り、自己を鍛える③考え・価値観を表現する④世界とつながる⑤未来の課題に取り組む。「自己の立ち位置を知る」ための科目群と聞いて、普通の人は、大学の話だと思うだろうか。自己啓発セミナーと思うだろう。
実際には、①で想定しているのは、歴史学とか社会学、倫理学を「グローバル」っぽく脚色したもののようである。②③④⑤も、従来からあった科目をアレンジしたものになりそうだ。これは、私の推測だが、国立大学で文系削減の圧力が強まっているので、理事たちはポストを確保するための苦肉の策として、こういう自己啓発セミナーのような大風呂敷科目を金沢大学の改革の目玉にしようとしているのかもしれない。しかし、文系の学問などどうでもいいと思っている理系出身の学長や文科省の役人に媚びるようなまねをして、形だけ文系の科目を生き残らせても、教育・研究の質が更に低下し、文系全体が信用失墜して、不良債権化していったら何にもならない。GSコア科目群の趣旨を説明する資料には、「1~5の各科目群について、そのなかから各3科目を選択して履修することによって、各科目群に設定された5つの学習成果(キーワードに凝縮)にかならず到達することができる」、と明記されている。つまり、九十分の授業を(最大)二十一回受け、三回の試験に合格することで、「自己の立ち位置を知る」人間や、「自己を知り、自己を鍛えた」人間になることができるというのである。こういうのを、独創的だと強弁するうちの大学のお偉方や、それを評価する文科省の役人がいると思うと、本当に嫌になる。

スーパーグローバル大学創成支援事業(金沢大学ホームページより)

スーパーグローバル大学創成支援事業(金沢大学ホームページより)

 これだけではない。大学全体の改革の理念である「金沢大学〈グローバル〉スタンダード」と、GS科目の関係を説明する資料に、先ほどとは別の意味で、すごいことが書かれている。「自己の立ち位置を知る」などのキーワードについてのちょっとした説明の後で、以下のように述べられている。

 事実認識から行為選択を導き出すには、人類が培ってきた倫理道徳的な態度や感性が必要である。例えば、政治経済状況が不安定な国からの留学生が、祖国と先進国の落差に絶望して暴力的なナショナリズムや過激な宗教原理主義へと誘惑されるような場合でも、彼/彼女を押しとどめ、健全な市場経済の中で祖国へ貢献することを可能とするのは、自己の自由や欲求と社会的正義をともに満足させうるような倫理道徳的規範に彼/彼女が進んで従うことによってであろう。したがって、自然的及び社会的状況認識と倫理道徳的な態度や感性の両方の修得が、ここで必要となる。学生は、以下の科目群の習得を通して、こうしたミクロ、マクロのパースペクティブをもつ状況認識から、「自分は卒業後に何をやろうとするのか」を、学士レベルの理解度において導き出すことができるようになる。

 公の文章にこういうことを書いて何とも思わないどころか、格調の高い文章を書いたつもりになるのが、「スーパーグローバル大学」のグローバル感覚なのである。そもそも、「スーパーグローバル大学」などという、田舎根性丸出しのネーミングのプロジェクトを立ち上げて、何か仕事をしたつもりになっている文科省の発想が根本的にズレているわけだが。