自殺スイッチと“カルト”

仲正昌樹
[第10回]
2014年7月5日
今月のラッキー

今月のラッキー

 私の勤めている金沢大学で、最近何件か学生の自殺が続いたので、その対策が検討されている。その“対策”とは、アドバイス教員による定期的面談である。
 金沢大学では、全ての学生にアドバイス教員が指定されている。その名称通り、学業に関するもろもろのことについてアドバイスするのが、アドバイス教員の役割だが、通常は、単位が極端に不足している学生や不登校の恐れのある学生を呼び出してお説教したり、休学や退学を望む学生から事情を聴くのが主な仕事である。常識的に考えてもらえれば分かることだが、生きる意味とか恋愛などに関する相談を、プロのカウンセラーでも宗教家でもない教員に、わざわざ相談しにくる学生はあまりいない。メンヘルの学生をひきつけてしまう雰囲気の教員もたまにいるようだが、私は普段から厳しそうなことを言っているせいか、そうした学生はあまり寄って来ない。三、四年生の場合、ゼミの教員が、アドバイス教員を兼ねていることが多い。
 「自殺対策のための定期的面談」というと、普通の人は大げさなことを連想するだろうが、担当部署で検討されているのは、アドバイス教員が毎学期全ての学生に会って、単位の取得など学習の状況を確認し、カルテに記録を付けることである。ゼミ担当教員がアドバイス教員を兼ねている場合は、大した手間ではないが、まだゼミに配属されていない一、二年生、留年生などに関しては、担当が割り当てられている教員がいちいち呼び出しをかけて、日時を約束しなければならないので、結構面倒である。教員にとって面倒なのはまあいいとして、呼び出して単位の取得状況を聞いてカルテに付けることが、何故自殺防止になるのか? 
 この問題を検討している委員会の責任者たちは、自殺をする学生は孤立していることが多いので、教員が会って声をかけること自体に意味があると考えているようだ。学習状況の確認というのは、「会う」ための名目で、カルテを付けさせるのは、教員が怠けていないかチェックするためのようである。あまり深く考えないで聞き流している分には、多少まともな話のように聞こえるが、この理屈はいくつかの前提がないと成り立たない。
 まず、自殺の主要な原因は、孤独であり、自殺する学生は誰とも話していない状態が長期にわたって続いている、という大前提がないと、教員が少しの時間だけ会って、とにかく会話を試みる、ということには全く意味がない。世間には、何となく「自殺」と「孤独」を結び付けて考えている人はいるだろうが、それは単なる、普通のおじさん・おばさんの直感にすぎない。そんなものに基づいて自殺対策するなどというのは、教育者のやることではない。ましてや、心理学や教育学の専門家もいる大学がやっていいことではない。自殺の主要な原因は長期にわたる孤独であるという心理学的・社会学的な知見と、自殺している大学生は実際に長期にわたって孤立していた、という客観的な統計データが裏付けになっているのであれば、ちゃんとした対策だが、金沢大学で“自殺対策”を立案している人たちは、専門家に意見を求めているわけでもないし、データを収集しているわけでもない。おじさん・おばさんの平凡極まりない直感を、大学という高等教育で実行しようとしているのである。
 科学的根拠がないのは明らかだが、五百歩くらい譲って、この“大前提”を認めるとしても、更にいくつかの前提を強引に設定しないと、この話は成り立たない。孤立が原因で、教員が声をかけることがその緩和になるとしても、どうして半年周期でそれをやるべき、という結論になるのか? 孤独ゆえに自殺するような学生は、人と話していない状態が半年以上続くと、自殺スイッチが自動的に作動してしまうという前提と、教員が「おい!」と声をかければそのスイッチをオフにすることができるという前提がないと、面談すること自体に意味はない。“自殺対策”を立案している人たちは、学生思いのやさしい教員だということになっているが、自殺する学生を、周期的にエラーを起す、不良品のPCみたいなものだと見なさい限り、こんな発想が出てくる余地はない。
 もしかすると、単に「おい!」と言えばいいという話ではなくて、会話をしている内に、学生の悩みを聞き出し、相談にのってやることが期待されているのかもしれないが、その場合は、教員の側にその学生が自殺をしたくなりかけているかどうか見抜く能力があることが前提になる。無論、単に見抜くだけではダメである。というより、下手に“見抜いて”しまったら、本格的にスイッチが入ってしまうが恐れがあるので、最低限刺激しないようにしないといけない。しかし、“見抜いた”以上、教員として放っておくわけにはいかない。スイッチが入りかけているのであれば、どうにかして気分を変えさせて、オフにすべく努力しないといけない。しかし、そういう知識や経験を持っている教員はほとんどいない――「先生のおかげで自殺を思い留まりました」、と三人以上の学生から言われたことがないと、信頼するにたる「経験」とは言えないだろう。自分に知識や経験がないのであれば、専門家に相談すべきだが、下手に連絡すると、不信感を抱かれるかもしれない。また、教員自身の精神状態が不安定だったら、おかしな相互作用が起きる恐れもあるだろう。
 そもそもの問題として、もし自殺の原因が孤独ではなくて、本人が全く別のこと――例えば、恋愛とか家族・友人関係、将来への不安、自分の心身に関するコンプレックス等――で悩んでいるとしたら、呼び出して会うことがプラスに働くとは限らない。呼び出しを受けたことが、かえって心理的負担になって、追い込まれるかもしれない。実際に孤独で悩んでいるとしても、義務化されている面談で、先生と話をすることによって楽になるとは限らない。自分が孤独であることを、先生に告白しなければならないのかと思って、ますます落ち込むかもしれない。いずれにしても、面談を通して“自殺予備軍”を思い留まらせようとするのであれば、取扱説明書が必要のはずだが、委員会のお偉方はそんなものは一切準備していないし、するつもりもなさそうだ。
ひょっとすると、本当に自殺そのものの防止を意図しているわけではなく、単に、教員が学生の悩みを聞く機会を増やしたいだけのことかもしれないが、それだったら、自殺の話と結び付けるのは、混乱を招くだけなので不適切であるし、先生に相談したい悩みがあるのなら、呼び出しをかけないでも自分から言いにくるはずである。自分から言い出しにくい学生がいるので、教員の方から一律に呼び出すべき、と考えているのかもしれないが、そういうやり方で、学生が心を開いて悩みを話し出すことが期待できるのか? 反発したり、不信感を持ったりしたら、逆効果である。単なる悩み相談だとしても、学生が自主的に相談しに来たくなるような仕組みを考えるのが先であって、一律に呼び出して、悩みがあるかないか確認すればいいというのは粗雑極まりない発想である。
 世間や文科省に向かって、「自殺対策やってま~す!」アピールをしてゴマかしたいだけなら、この程度の雑な話ですませていいのかもしれない。しかし、そのために、ただでさえ余計な事務仕事が増えている教員の研究時間を更に奪うことになるし、学生に対しては、先に指摘したような、余分な心理的負担を与えてしまう恐れもある。
 金沢大学における、素人心理学に基づく“自殺対策”言説の横行は、今に始まったことではない。数年前、成績不振で留年せざるを得ないことを親に告げることができないまま自殺した学生がいた。その少し前から、(留年問題をめぐる親からの苦情に対処するため)実家に成績表を送ることが検討されていたこともあって、法学類の会議で、「二度と自殺する子が出ないよう、成績表を実家に送るようにすべきだ」、と強く主張する人たちがいた。ご当人たちは真剣に言っているようなのだが、冷静に考えれば、かなり危うい素人心理学に基づいた議論である。彼らは、両親に成績を知られてしまうことへのプレッシャーが一気に押し寄せてきたから自殺に至ったのであって、徐々に成績を知らせて、プレッシャーの上昇曲線の勾配を緩やかにしたら、自殺にまでは至らないだろう、というような生理学っぽいイメージで考えていたようだが、その仮定に科学的根拠はあるのか? 成績表が送られてくるたびに、親との関係がどんどん気まずくなって、ストレスが累積していくかもしれないではないか? また、例として挙げられた学生も、本当に成績不振だけが理由だったかどうか、本当のところは分かっていない。科学的データもないのに、素人判断で自殺対策するのは危険である。先ずは、成績表を両親に見せることと、学生の自殺の間の因果関係についての研究があるかどうか確認すべきである――このテーマでのまともな研究があるとは考えにくいが。
 あまりにも強引な理屈だったので、私は会議の席で、「成績表を実家に送るのはいいけれど、それを自殺対策と結び付けるのはナンセンスだ。法学や政治学を研究している人間が、素人心理学に基づく自殺対策を行うなんて、あり得ないことだろう。そんな見解を対外的に公表するのは恥ずべきことだし、大学として“自殺対策”を行っていることを既成事実にしたら、あとあと大変なことになる」、とかなりしつこく言い続けた。その時は、責任者が、成績表の送付と自殺は直接関係ないという見解を述べてくれたので、取りあえず安心したが、今回、同種の素人心理学がパワーアップして浮上して来たわけである。この手の素人心理学に基づいて、“学生のためになること”を提案したがる人々は、本当に性質が悪い。思い込んでいるので、話が通じない。外向けのアピールとしてやっているだけであってくれた方が、まだ救いがあるような気がする。
 これだけでも十分憂鬱なのに、「全学生との面談実施」の背景には、自殺対策以外の更に別の意図もあるらしい。「カルト対策」である。金沢大学で最近、新興宗教の勧誘が激しくなって、いつの間にか入信している学生が増えているようである――私がかつて入信していた新興宗教も活動しているようだが、それとは別のところが更に活発に活動しているらしい。ある学生が新興宗教に通うようになったことが、教員と別の学生の会話の中で偶然明らかになった、ということがあるようだ。それに“ヒント”を得た、学生関係の委員会の幹部たちが、学生との会話の機会を増やせば、そういう情報が入って来て、対策を取りやすくなると考えているらしい。
 こんなことを本気で考えているとしたら、狂っているとしか言いようがない。どうして狂っているか説明するまでもないと思うが、一応、説明しておく。三つ理由がある。第一に、これは「信教の自由」に対する侵害になる恐れがある。大学生は基本的に大人であるので、何を信じるかは本人の自由である。大学が組織として公的に実行できるのは、①宗教であることを隠した学内での勧誘、学外者による勧誘など、不適切な勧誘を禁止すること、②学生本人の意志に反してその宗教の施設に留まるよう強制されるのを、警察等と協力して阻止すること、③学生がその宗教の活動のために学業をおろそかにすることのないよう指導すること――くらいであろう。不当な勧誘が行われていないとすれば、大学が強制的にやめさせることはできない。教員が学生に対して、やめるよう個人的に諭すことは許容範囲だろうが、組織的に実行すれば、大学が信仰の中身に干渉していることになる。特定の教団の理念に基づいて創設された私立大学であれば、ある程度の干渉を正当化することができるかもしれないが、国立大学が、“まともな宗教・思想”とそうでないものを選別するかのような方針を打ち出すのは大きな問題である。
 しかも、他の学生による密告を促すというのは、プライバシーの侵害というより、どこかの全体主義国家のやっていることである。普段はハラスメントやプライバシーの問題を熱く語っている人たちが、新興宗教の問題になると、憲法に明記されている「信教の自由」を完全に忘れて、全体主義国家ばりの監視体制の構築を示唆するというのは、全くもって本末転倒している。自分が大事だと思っている分野に限って人権の重要性を主張し、自分が気に食わない相手の人権は端から無視するような人間は、極めて危険である。
 第二に、(十八歳から二十九歳まで十一年半新興宗教の信者であった)私自身の体験からして、他の学生の密告によって情報収集するようなやり方は、少なくとも、既にその宗教にかなり魅了されている学生に対しては全く逆効果だと断言できる。そういう体験のない人でも、少し相手の立場に立って想像してみたら分かるだろう。自分が個人的に信念をもってやっていることについて、周りの学生や教師がうさんくさい目で見て、密かに情報交換していると知ったら、本人はどう思うだろう。当然、孤立感を覚える。密告情報に基づいて、自分に“アドバイス”しようとする教師を信用できるはずもない。その逆に、理不尽な干渉者に見えるだろう。すると、現に自分を歓迎してくれる宗教団体に更に引き付けられる。加えて、新興宗教は、自分たちは真理を説いているので、世間の人から理解されず、迫害されるが、それは真理を先に知り、使命を与えられた者の宿命だ、と説いていることが多い。密告・監視のようなまねをすれば、その教えが“証明”されたことになる。
 新興宗教に惹かれるような奴はこの大学にはいらない、と切って捨てるつもりであれば、話は別だが、監視網を造るようなまねをすれば、当人たちをより頑なな態度にさせるだけである。そんなことさえ想像できない輩が、学生のことを思っているかのような物言いをするのは言語道断だし、そういう先生を慕って、進んで情報提供しようとする学生は気持悪い。どっちが、カルトだ!
 第三に、教員が他の学生の提供する情報によって、ある学生が新興宗教に入っている、あるいは入りかけていると予想を付けたとして、どうやって話を切り出し、説得するのか。下手な切り出し方をすれば、第二点で述べたような逆効果になるのは明らかである。自ら新興宗教経験のある私でも、どういう風に話を切り出すのが適切か分からない。普通の先生は、どうしていいか分からず途方にくれるだけだろう。それが心理的に重荷になって、心の病を抱える先生さえ出て来るかもしれない。専門家に相談しようにも、どこに専門家がいるのか? 自殺であれば、心理学者や精神医学者を一応の専門家と見なすことができるが、新興宗教問題の専門家とはどういう人か? 新興宗教からの改宗を専門的に引き受けている人たちも世の中にごく少数いるが、その人たちの多くは、他の宗教や運動団体の関係者であり、法律にひっかかりそうなかなり強引な手法を使っていることも少なくない。国立大学がそういう“プロ”に依頼するのか? それとも、一部の教員がそういう人たちに弟子入りして、自ら“プロ”になるのか?
 大学というのは、大人の学生が学びに来るところであり、生活指導をする場ではないはずである。その当たり前のことを指摘すると、「仲正はやはり変り者だ!」「学生に対する愛情がない奴は教師をすべきでない」、などと言われる。どうなっているのだろうか? 大学自体がカルト化しているような気がする。