【月刊極北5周年+極北ラジオ開局カウントダウン連載】

落語家たちが駆け抜けた深夜放送【1】
「落語家DJ」の新境地ひらく!笑福亭仁鶴の知られざる真実


竹村洋介[第4回]
2016年11月27日

笑福亭松鶴の紫授綬褒章受章祝賀会に仁鶴らが並ぶ(1981年)

笑福亭松鶴の紫綬褒章受章を祝う笑福亭仁鶴ら(1981年)

落語家ってどう訳すの?

ある英字紙の記者であるIanというイギリス人の友人に落語家がDJを演ることについて、どう思うか聞いてみようとした。彼は日本の文化、中でも若手のミュージシャンを中心に取り上げるコラムを担当しているライターだ。日本語にややおぼつかないところもあるけれど、当然,日本の現代文化についてかなり詳しい。その彼に、新宿の小さなライヴ・ハウスの楽屋で、「落語家がDJを演る」ことについて聞いたことがある。
まず、落語家というと(笑い)噺家だから、”comical story teller”あるいは”comic story speaker”か?Ianは”comedian?”と反応。全く通じていない。漫才などと区別するためにも、ひとりで演ることを言わなければならない。そして講談師と区別するためにも座って演じることも盛り込まなければ。”solo comical story teller in sitting”。これで、スタンド・アップ・コメディアンとの区別はつくだろう。でも、話し手である僕自身が何を言っているのやらわからない。もしかりに”solo comical story teller in sitting”などと僕が言われたとしても、落語家のことを意味するとはまず分からないだろう。Ianはますます訝しげな顔になっていく。ああとで、和英辞典を詳しく調べてみてわかったことだが、”Rakugo teller”とほとんど開き直ったとしか思えない辞書もあった(もっとも項目そのものがない辞書がほとんどなだった)。
もうなんとでもなれと思い、”Bunshi,Tsurube,Harudanji”と適当なことを言うと、”Ah,you say,Rakugo!”
そうか、Ianは、日本語は不慣れなところもあるけれど、日本の文化の研究者だったのだ。もっとも落語は、彼の専攻ではないので、それほど詳らかではなかった。
そこで、”In Japan Rakugo-kas play DJ, don’t you know?”と続けてみると、”I don’t know what you say.”Who does?”Rakugo-ka? Announcer? Foot-ball plyer, base-ball player,who is a DJ”。落語家が深夜放送のディスク・ジョッキーをつとめることなどまったく夢にも思わなかったことらしい。こういうこともあるから、DJということばよりもパーソナリティという(半)造語が好まれて使われるようになったのかもしれない。

落語家という仕事

ところで、この落語家という職業、もともと社会的にはそう高い地位ではなかったらしい。大阪である古老に聞いたところ、「新劇は観に行ったけれど、落語など職工ふぜいが見に行くものは観なかった」とのことである。もっとも、この古老とて、そう教養などのある人にはみえなかったが。というのも、落語家が叙勲されたり、人間国宝になっていることすら、知らなかったからだ。
落語家というと上方と東京で江戸時代から続いている一種の伝統芸能、人を笑わせる噺家というイメージがあるだろう。古典落語は師匠から弟子に伝授され、新たに若い人が新作落語を創造する。それに間違いはない。笑福亭笑光(のちの嘉門達夫)などは「師匠(笑福亭鶴光)が、カラスは白いといったら、白い」と述懐するほど、師弟関係、上下関係(いつ入門したかによって兄弟子、弟弟子という疑似家族が成立し、兄弟と呼ぶ)の厳しい社会でもある。漫才師もそうだが、師匠・弟子の関係で、林家、桂、立川など亭号を名乗る家元制度は擬制家父長制と見てよいだろう(相撲部屋もそうだ)。4代目、5代目、6代目笑福亭松鶴のように現実の親子だったりすることもある。それでいて、この後、記していくように、個人的には奇天烈なふるまいをしたりして、話題を呼んだりするのだが。

上方落語協会-ラジオと落語

落語家の協会は昔から、分裂、合流を繰り返していた。それでも東京の各団体と違い戦前戦後、上方落語協会はある程度まとまりを持っていた。しかしその上方においても落語は、戦中から戦後にかけて新興の(しゃべくり)漫才に押されて、先細りであった。漫才とは昭和初年代に吉本興業が命名した新興の話芸だ。
やがて、昭和の時代となり、ラジオが登場してくる。すでに1924年にははやくも柳亭左楽の『悋気の火の玉』が放送されている。しかし、これはあらかじめ録音しておいた演題をラジオで放送するというもので、後年のDJ、パーソナリティとは異なるものだ。また吉本興業はラジオに出演すると演芸場に人が来なくなるという心配からか、落語家をラジオに出演させないという圧力をかけたようだ。

初代・桂春團治

初代・桂春團治

それに反抗するように初代・桂春團冶のように大阪から放送すると吉本側には見せておいて、京都から放送するという離れ業をなした落語家もいる。これが大いに受けたため、こののち吉本興業は、所属する芸人のラジオ出演を積極的に進める方向に転換する。
しかしその数年後には漫才が考案され、吉本興業はこちらに力を入れ始めた。落語はラジオの世界にはなかなか喰いこめていかなかった。それは翼賛団体であった講談落語協会が1945年に解散しても、1946年にテレビが再開されても変わらずだった。上方では、絶滅危惧種という扱いに近かったらしい。やっと1957年になって上方落語協会が結成される。が、結成されたと言っても、わずか18人。だが、その中に後に上方四天王の一人に数えられる6代目笑福亭松鶴がいた。

6代目・笑福亭松鶴

6代目・笑福亭松鶴

言わずもがなだが、この6代目松鶴の弟子に、深夜放送で大活躍した仁鶴、鶴光、鶴瓶などがいる。

仁鶴と吉本

松鶴の一番弟子の仁鶴は、すでに1960年代からラジオ、TV、レコードで大活躍であった。子連れ狼のパロディを「ボンカレー」のCM[https://www.youtube.com/watch?v=UYqyaIE7oZ4]として全国的大ヒットさせたり、八面六臂の活躍であった。その仁鶴とてアマチュアの天狗連では受けが良かったものの、プロになった当初(1960年代前半)には全く仕事がなく困っていたとも聞く。しかし、当時、勢いをましてきたTVの波に乗った。仁鶴は6代目松鶴や鶴光が松竹であったにもかかわらず、吉本に所属していた。当時としては八方破れな芸風が6代目松鶴から吉本向きだと言われたからとも聞く。吉本中興の祖、視聴率5%アップの男と言われるほどにメディアを駆け回った。深夜放送でもABC(朝日放送)ヤング・リクエスト(略称ヤンリク)で「仁鶴・頭のマッサージ」のコーナーを担当したり、OBC(大阪放送)の(略称)「バチョン」「仁鶴の落語大学」(当時上方には大学卒の落語家はいなかった)を担当するなど、深夜放送への落語家の進出の口火を切った。

3代目・笑福亭仁鶴

3代目・笑福亭仁鶴

「どんなんかなぁ~」と持ち前のギャグもあったが、知られざる仁鶴の業績は、レコードにある。それも落語を吹き込んだものではなく、歌手として録音したものだ。『男・赤壁周庵先生』などのかげにかくれて、おそらく聴いた人はそれほど多くないだろうが、飛びぬけてすごいのが『おばちゃんのブルース』[https://www.youtube.com/watch?v=edOL1a35z98](じつは、『どんなんかなァ』のB面)だ。といっても知る人は少ないだろう。が、憂歌団を語るなら欠かすことのできないあの名曲『おそうじおばちゃん』[https://www.youtube.com/watch?v=5Ecs3VTSGt0]の原曲なのだ。憂歌団のコミカルでありながら、力強いメッセージ性、芸術性、音楽性の高さに比べれば、さすがに仁鶴の原曲は素人芸で足元にも及ばない、しかしこれはこれで悪くはない。なにより、憂歌団の『おそうじおばちゃん』は仁鶴が歌った原曲なしにはなかっただろうから。

「憂歌団」

「憂歌団」

落語家がパーソナリティをつとめる深夜放送は、それほど音楽面に力を注いだものはなかった。レコードを出したり、フォーク・グループに入っていたりする落語家は珍しくはない―反対に落語家からミュージシャンに転身した笑福亭笑光こと嘉門達夫のような例もある―が音楽的レヴェルは総じて低かった。
この笑福亭仁鶴だが、1970年代中期にマスコミでの仕事を整理し、上方落語協会の仕事に集中していく。中で残っている珍しい例外は笑福亭仁鶴のNHKの『生活笑百科』である。なんであんな番組と思われる方も多いだろうが、こういういきさつがあったのだ。(次回へ続く)


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