【月刊極北5周年+極北ラジオ開局カウントダウン連載】

発売禁止・放送禁止と戦う深夜放送


竹村洋介[第6回]
2017年1月23日

読者から指摘を頂いた。あのねのねは、1973年に『赤とんぼの唄』でデビューしているが、加藤和彦&北山修のコンビで出された『あの素晴しい愛をもう一度』の二番の出だしは、「赤とんぼの唄を歌った空は」となっているが何か関係はあるのか?というものだ。
第3回でも取り挙げたように、この曲はもともと、シモンズのデビュー作として1971年に創られたものであった。曲調、二番の出だし以外の歌詞など、ほとんど共通するところはない。だが、『あの素晴しい愛をもう一度』をMBSに出入りしていた清水や原田が加藤&北山をまったく知らなかったとは思えない。加藤&北山をあのねのねが観に行ったことはあるかもしれないが、その逆、つまり、あのねのねを加藤&北山が見たことはありえない。おなじ関西フォークだからといっても、作詞者の北山修の念頭には、あのねのねの『赤とんぼの唄』はなかったと言っていいだろう(逆はありえる。『あの素晴しい愛をもう一度』を少しは意識していたかもしれない)。
もっともいずれにせよ、北山、清水の頭の中に童謡『赤とんぼ』があったのは間違いないだろう。

発売禁止・放送禁止と戦う深夜放送

第1回でも取り上げたように、深夜放送・フォーク・ロックは、発禁・放禁との戦いでもあった。’Let’s Spend The Night Together’(夜をぶっ飛ばせ)が本国や諸外国で放送禁止になっているかどうかは知らない。ただことあるごとに’Imagine’は放送禁止の報が入るので、日本のものとは異なるだろうが、やはり放送禁止はあるのだろう。日本では、’Lucy in the Sky with Diamonds’(ビートルズ)も―LSDを連想させるからだろう―、日本では放送禁止になっている。
放送禁止と発売禁止は同一のものではない。発売禁止は文字通りレコード(CDも)の販売を禁止するもの、第1回で取り挙げたものでは頭脳警察の1st.&2nd(なぜか、2ndの方は発売1か月たってから禁止になっている。レコ倫が気づかなかったというかなり信憑性が高い、そして間抜けな、噂が流布されている。
このように一般社団法人日本レコード協会内の、レコード制作基準倫理委員会(レコ倫)と呼ばれる倫理組織が決定するものだ。だがあくまで、民間団体の内部規定なので法的拘束力はない。だからかつてのURC、ELEC、そして現在のインディーズと呼ばれる多くのレコード会社はレコ倫に入っていないので、発禁はない。もちろん自主制作版に発禁はありえない。だから「帰って来たヨッパライ」は発禁にしようがない。それどころか大手レコード会社が販売権を競ったり、ラジオ局が放送権を競ったりしたほどだ(結果はそれぞれ東芝音工とニッポン放送が獲得)。スポンサーで嫌な顔をしたのは日産自動車くらいだ(ヨッパライ運転の歌だったため)。現在なら「姐ちゃんはキレイだ」のフレーズの方が物議をかもすのではないだろうか。
一方、いわゆる放禁(放送禁止)は、日本民間放送連盟により定められた自主規制内規制度で、1958年に始まり、1983年度に廃止された制度である。なので、現在となっては放送禁止歌は存在しない。放送禁止になっても、ショップの店頭に並ぶレコード、CDも少なからずある。しかし、インターネットが普及してしまった現在と違い、放送禁止になるということは、ヒットへの道をほとんど閉ざされたと言ってもよい状況であった。ラジオ・テレビ界では、放送禁止用語とともに、不可触的な存在である。こちらも民間団体の(現実としては、NHKも)自主規制であり、明文化さえされたものでもないので、従わなかったからといって罰則があるわけではない。現実にプライム・アワーではNGでも、深夜放送であればOKという例も多数存在する。また本編とCMではコードが違う。
しかも発禁処分がそれほどには濫発されないのに比べて、放禁処分は、放送するもしないも局の自由だからというのではないだろうが、濫発される傾向にある。
明文化された放禁語集というのはながらくなかったという主張もあろうが、私は高校生時代、MBSの公開録音で千里ヶ丘のスタジオに行った際、電話帳もかくやという厚さのある放禁用語集を目の当たりにした。それが、現場のマニュアルのようなものか、局で適用されるものか、それとも民放連、あるいはNHKも従うものか、どういうしろものかはわからないが。中島らももこの放禁集を「そんなこと言うてたら、何にも言われへん」とやり玉に挙げている。とNHKに限れば2008年に「NHKの考える放送可能用語」を発表し、それに従っているようである。それはともかくNHKを悪く歌ったからといって放禁になるとは限らず、全く別の曲が放禁になっていたりする。NHKへの罵倒を許すかといえばそうでもない。
たとえば早川義夫はジャックス時代「からっぽの世界」の、「ぼく、唖になっちゃった」というフレーズで、放禁をくらっているが、後にソロになってから「あぁ、あぁ、この広き国、日の本に、名高にものは、富士の山、加えて名高きNHK」と歌う「NHKに捧げる歌」では、そういった処分はない。
反対になぎら健壱(当時:なぎらけんいち)はELECからリリースした「悲惨な戦い」で「さすが天下のイヌ・イチ・ケー、すぐにテレビカメラを消せと命じたが、折も悪しくもアルバイトを使っていた為に、アップで放映してしまったのだ」と歌い、放禁処分を受けてしまった。折も悪しくもELECからの発売だった為に、15万枚も売り上げてしまったのだ。
そのなぎら健壱が、「およげ!たいやきくん」(歌:子門真人)のB面として出した「いっぽんでもニンジン」は―もちろん売れたのはA面だろうが―、なんと500万枚以上とも言われるミリオンセラーとなる。こちらはフジテレビの『ひらけ!ポンキッキ』という媒体があってのことではあるが、文字通り桁違いのメガ・ヒットである。当時のTVの力を見せつけられたような数字である。ちなみに、このレコード、キャニオン・レコードの買い切りで、子門真人に払われたのは5万円、なぎら健壱には3万円であった(なぎら健壱が、深夜放送に登場するのは1976年4月からなので、この直後のことである)。

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フォーククルセイダーズが差し替えという名目で「イムジン河」が発禁、憂歌団は1975年「おそうじオバチャン」、を発売するも1週間で放送禁止になったのは、既述の通りだ。’60年代後半から’70年代前半のフォーク・シンガーが放送禁止になることは全く珍しいことではない。
1970年にURCからシングル・デビューし、1972年にベルウッドからLP『放送禁止歌』、を出した山平和彦だ。山平自身は、放送禁止になると思ってはいなかったとの証言もあるが、現実には文字通り放送禁止になってしまった。また友部正人『どうして旅に出なかったんだ(1976年8月)」、収録曲「びっこのポーの最後」のタイトルと歌詞に差別的表現があるとして回収の憂き目に遭う。(「ちびっこのポーの最後」に改題して乗り切ろうとしたが、駄目だったと述懐したことがあるが、真偽は不明)
岡林信康の「山谷ブルース」、同「手紙」、朴保「傷痍軍人の歌」、高田渡「自衛隊に入ろう」(2分23秒あたりから)(ちなみに当時防衛庁はこの曲をPRソングとして使いたいと高田渡に打診してきたという逸話がある。なお動画が伏せられているのは、この事件をきっかけとしてこの歌を高田渡自身が歌うことがなかったためと推察される)、同、「生活の柄」、小室等と六文銭、「ゲンシバクダンの歌」、村八分『ライブ』(既述だが、バンド名が放禁)などなど、後述するつボイノリオやあのねのねのように放禁覚悟、いや放禁目当てといったものを除外しても枚挙にいとまがない。猥褻の問題など、一律に言い切れない委員会の曖昧模糊とした判断にゆだねられたものでしかなかった。

たとえばピンク・レディの「S.O.S.」が要注意に指定されている。ピンク・レディのセクシィさが、ひっかかったのかと思いきや、なんのことはない、「S.O.S.」というのが、モールス信号で間違うといけないからということらしい。なんとも恣意的、意味不明な判断基準である。
おもしろいのは山口百恵だ。「ひと夏の経験」 -あなたに女の子と一番、大切なものをあげるわ、で始まるヒット曲-かと思いきや(バチョンのパーソナリティであった浜村淳は、何度も、何度も、処女喪失の歌です!と繰り返していたが)、実際に要注意指定されたのは「緑の中をかけてく真っ赤なポルシェ」で始まる「プレイバック Part2」だ。これが放禁指定されたのは、NHKだけ。理由は「ポルシェ」という商品名が出てくるからというものだ。といって、NHKで放送されなかったのではなく、「真っ赤なクルマ」に改訂されて放送された。

ぎなた読みによるゲリラ戦 Ⅰ.ロックミュージシャンの戦い

 「日本語のロック論争」と言われると、いつも引き合いに出される「はっぴいえんど」の「はいからはくち」(1971年)。「ハイカラ白痴」を「肺から吐く血」とぎなた読み(「弁慶が長い薙刀振り上げて」と読むところを「弁慶がな、ぎなた振り上げて」と読むことにちなむ。ちなみに巨人の星の「重いコンダラ」などもそうである)させることで、放禁・発禁をまぬがれたことが出される。しかし、はっぴいえんどは「ロック」バンドであったのだろうか? アメリカ合衆国におけるFolk vs.Rockという緊迫した状況はなく、岡林信康『見るまえに跳べ』や高田渡『ごあいさつ』などのレコーディング参加している。そしてなにより第2回、第3回の椛の湖での「全日本フォーク・ジャンボリー(所謂、中津川フォーク・ジャンボリー)に参加している。ここでは吉田の「にんげんなんて」の大狂乱の方が、はっぴいえんどの「12月の雨」よりも、はるかにHard Rockしている。バンド編成こそVo.Guitar.Bass.Dr.というロックバンドの標準的な編成だが、これはロックに限らずFolkの世界でもごくありふれた編成だ。
ジャックスはBOXが出るまでは非常に入手困難(特にタクト版)であったが、「からっぽの世界」は「唖」のひとことで放禁になったものの、続いて同じタクトから「マリアンヌ」をリリースしている。これはのロック論争が始まる以前である。ジャックスを、木田高介の影響と強くみてフリージャズのようなといったり、早川義夫のリーダーシップを尊重してフォークに分類するのも勝手かもしれないが、日本で最初にRockといったのはこのジャックスである(Jacksというのは、Jack=そこらの男の子、たちという意味)。
また前述したが、バンド名からして放禁、放禁の何が悪いという態度の「村八分」。LPのリリースは1973年だが、実際の活動期間は1968年~1973年と、「はっぴいえんど」とほぼ重なる。村八分はリーダーのチャー某の言葉を借りれば「ひらがな」Rockである(Punkということばはまだなかった。それほど前衛的だった)。どれが最初か、という先陣争いに目くじらを立ててもしょうがないことなので、これ以上、ここでは詮索しない。ただ「はっぴいえんど神話」を再検証する必要だけは指摘しておこう。そしていずれのグループもURC、ELECに関係していたことは、注目しておいてよいことだろう。消えていったレコード会社とはいえ、日本のロック・フォーク史に大きな足跡を残していったことは間違いない。そしてURC、ELECに所属したことがあるミュージシャンが多数深夜放送のパーソナリティをつとめたことと無関係ではない。

 放禁・発禁に立ち向かったミュージシャンとして忘れられないのは、RCサクセション、とりわけそのリーダーだった忌野清志郎だ。もともと林美雄のパックインミュージックで『雨上がりの夜空に』がかけられ、林に『性的なニュアンスのある・・・・・・』と困ったコメントをもらうなど不敵な態度を隠しもしなかった。不朽の名作『カバーズ』(1988年)が葬り去られたというショッキングでハレンチな事件は、第1回で取り挙げたとおりだ。そして実力やライヴでの人気のに比してLP/CDの売り上げが今一つだったRCサクセションのアルバムの中で、皮肉にも初めてチャートのトップを記録したのだ。
そのあと忌野とそっくりなZerry率いる「タイマーズ」(大麻s?)がTVではあるが、フジテレビの「ヒットスタジオR&N」で「FM東京」を演ってしまう。ゼリーの友人である山口冨士夫(ex.村八分)との共作で忌野清志郎が作詞を担当したティアドロップスの曲「谷間のうた」をFM東京とFM仙台で放送禁止にされたこと、RCサクセションの『カバーズ』(Gr.に山口冨士夫とジョニー・サンダースをフューチャ)収録の「サマータイム・ブルース」、また「ラブ・ミー・テンダー」が放禁にされたことに対する抗議だった。中継の仕方によって、そのまま生演奏で流した曲、カットして流した曲などさまざまではある。「タイマーズ」というバンド名にしてから放禁だったのかもしれない。FM東京、フジテレビからはこれでもかというほどの報復措置が執られる。

しかしこの事件はかえってyoutubeで大ヒットを生み、今のところ削除の形跡はない。2&3’S、Little Screaming Revue、ラフィータフィーなどを経て、その後「君が代」『冬の十字架』などいくつかの作品を残すが、2009年5月2日、帰らぬ人となってしまった。『カバーズ』や「タイマーズ」であれほどたたかれていたにもかかわらず、その葬儀においては「国民的歌手」などと持ち上げられていた。何とも悼ましい事実である。そしてその時は3年とたたないうちに起きることなど、誰が予測しえていただろう?


kanren