【月刊極北5周年+極北ラジオ開局カウントダウン連載】

深夜放送の怪人たち(1)放送禁止歌のつボイノリオ


竹村洋介[第7回]
2017年4月8日

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1970年代初頭、黎明期の深夜放送は発禁・放禁をはじめとする既成の制度への挑戦でもあった([第6回]発売禁止・放送禁止と戦う深夜放送)。そんな深夜のマージナルな解放区を拠点に「ぎなた読み」で一世を風靡したのがつぼイノリオだ。

 前回思い余ってぎなた読みで抵抗したミュージシャンとして忌野清志郎率いるRCサクセション『カバーズ』の「サマータイム・ブルース」や「ラブ・ミー・テンダー」の発禁、あるいはZerryの友人・山口冨士夫と共作したティア・ドロップスの「谷間のうた」(作詞・忌野清志郎)を放禁にしたことに対し、忌野清志郎によく似たZerry(あーしちめんどくさい書き方、忌野清志郎だってZerryだって、どっちも芸名だろうが!)が率いるタイマーズがメドレーで抗議の罵倒をしている。RCサクセションは「37基も立っている」、タイマーズはそのバンド名からして、そして「ヒットスタジオR&N」で「FM東京 腐ったラジオ FM東京 最低のラジオ なんでもかんでも放送禁止 FM東京 汚ねえラジオ FM東京 政治家の手先 おまんこ野郎 FM東京」とわめきちらすなど、ぎなた読みというような手法ではない、誰かまうことのないど真ん中・直球勝負だ。
ところで古舘伊知郎は紹介時に「謎の覆面、新人、大物バンド」「危ないです。」と言い、終わってからは「放送上不適切な発言がありましたようです。お詫びして訂正させていただきます。えー、あのほんとにFM東京さん、番組の(聞き取り不能)上、申し訳ありません。」「いやぁでも、あの(テロップは山本厚太郎にあてつけた「偽善者」となっている)2曲目はリハーサルとすっかり差し替えてくれましたですね。」と発言しているが、事前に、誰がどこまで知っていたかは、謎、というか立場上、言いたくても言えないであろう(タイマーズのあるメンバーによれば、タイマーズの4人以外は全く知らなかったとも。(ちろん異説も多数あり)。「私はかってあの様な壮絶な光景を見たことがない、それは20年以上も前の「ヒットスタジオR&N」の話です」「さすが天下のフジ・サンケイ、すぐにテレビカメラを消せと命じたが、折も悪しくもアルバイトを使っていた為に、アップで放映してしまったのだ」ということはありませんでしょうが。

『不死身のタイマーズ』。ジミヘンドリクス&エクスぺリエンス『エレクトリック・レディランド』(写真右)のパロディ

『不死身のタイマーズ』のジャケットは、ジミヘンドリクス&エクスぺリエンス
『エレクトリック・レディランド』のパロディだった

「ぎなた読み」で放送局やレコード会社を挑発
「ぎなた読み」とは文章のくぎりを意図的に誤ることでもともと持っていた文章の意味内容をまったく異なるベクトルに向けて変容させる表現手法だ。ぎなた読み=下ネタというわけではないし、ぎなた読み、つまり「重いコンダラ知れんの道を」(「巨人の星のテーマ曲」)や、「開けてゾケサは別れゆく」(「蛍の光」)のように放禁に全く無縁なものも少なくない(それぞれ「なぎなた」で補足すれば「思いこんだら試練の道を」、「あけてぞ、今朝は別れゆく」)しかし、この下ネタ・ぎなたは重なることが多い。中京地区を中心に活躍しているので、今では全国的知名度はそれほど高くはないかもしれないが、ぎなた読みで放送局やレコード会社を巧みに挑発し、一世を風靡したのはつボイノリオをおいてないだろう。
 つボイは学生時代「CBCヤングリクエスト」(大阪の朝日放送の同名のそれとは別物)に出演したことはあったものの、本人の談では、岐阜にあった日本一小さな放送局がそのスタートだ(異説あり)。この「CBCヤングリクエスト」に出演した際に発表されたのが、デビュー曲である「本願寺ブルース」(1970年) だ。ブルースにお経(親鸞が著した正信念仏)を重ねるというシュールな一品。この経文の冒頭の部分だけであるが、かなり正確なものらしい。「CBCヤングリクエスト」にとび入りで歌ったのが最初だ。洋楽が日本にまだまだ普及していなかった時代であることを思えばかなり突出した存在だ。しかし、後年つボイノリオの名を全国に知らしめた「ぎなた読み」の手法はまだ用いられていない。

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 ぎなた読みでその怪人性を本格的に発揮するのは「金太の大冒険」(金太負けるな!)からだ。悪ふざけと言われようが、駄洒落に近いと言われようが、音楽業界、放送局に対するゲリラ戦は続く。つボイ自身、「ユーミンが何億かけました」というようなものはやりたくないと発言している。深夜放送の安上がりさに相応しい、安上がりなレコードの作り方かもしれない。それでいてゲリラ戦に成功しているのだから、相当なものである。ちなみに現在では「金太の大冒険」の放禁処置は解除されている(放禁制度そのものもなくなったのだが)ようで、中京地区を中心としてだが、まれにラジオで流れることもあるらしい。
 すでに商業的に成功していたチェリッシュから桑原宏司や奥山敬造をむかえて「欲求不満フォークソング・ボーイズ」を結成したり(もっとものちには単に「欲求不満」。「フォークソング」を取り外してしまって単に「欲求不満ボーイズ」と改称してしまうが「君に首ったけ」)などはフォーク調歌謡曲で、それを売るつもりだったのかもしれない(なぜかつボイノリオ先生改のyoutubeのそれは、京都の街が背景になっているが)。 皮肉にもそれが「放送禁止」のお墨付きをもらえなかったためかあまり売れたようではない。
 「金太の大冒険」では四人囃の森園勝敏や岡井大二をバックに歌ったりと、半ば真面目にシンガーを目指していたのかもしれない。もっともそれが、あのねのねが吉田拓郎を目標にしていたのとどちらが真剣だったかというと何とも言えない、同じ程度のものかもしれないが(時代的にもちょうど重なる)。
 しかし、つボイノリオはぎなた読み下ネタ路線を走った。「極付け!お万の方」(お万、小判、番する)「吉田松陰物語」(吉田松陰、シンドバット見せる)
つボイ自身は「『金太の大冒険』は20日で放送禁止となったが、この歌(「極付け!お万の方」)は6日で放送禁止になった」と韜晦している。
つボイはなお進む。これはぎなた読みソングではないが、「飛んでスクランブール」(横道にそれるが3:25前後に始まる割れた窓ガラスにちゃぶ台、ボラギノール、コーラックの箱、そしてあの「アグネス・ラム」の水着姿のポスター、時代が偲ばれる)は、アナログレコードの音飛び風に原曲を編集し、最後は「素敵なつボイ、素敵なつボイ」でエンドレスとなってしまっている(YouTube版には当然終わりはあるが)。この曲も下ネタ満載。ミュージシャンではないにしても、本願寺ブルース同様、卓抜なセンスを感じさせられる。

波瀾万丈のDJ人生
つボイノリオの怪人ぶりはレコードにとどまらない。本業は、と言われると困るのだが、パーソナリティとしかいえない。単なるDJ(この言葉に分類されることをつボイはこころよしとしていないようだ)ではなく、司会者でもなく、単に愛知県のヒーローでもない。コンピュータソフト製作者でもなく、ましてただの鍼灸師(なんと彼は鍼灸師の資格を持っている)などではない。なんとも形容しがたい存在だ。こういう人が出てきたために、パーソナリティという「和製英語」が定着していったのかもしれない。
しかもつボイノリオはパーソナリティとしても騒動をたびたび起こす。もっとも、僕は残念ながら直接お会いしたことがないので断言できないが、伝え聞くところによればきわめて腰の低い人らしい。そしてこれも伝聞だが、音楽に没入すると違う世界に入ってしまうそうだ。
 1968年に東海ラジオが始めた「ミッドナイト東海」でつボイノリオは1972年5月からパーソナリティをつとめるが、「すずらん高原のウッドストックフェスティバル」に「放送局がストしているみたいだねー」と言っただけで舌禍事件に発展しわすか5カ月で降板している。ちなみに、俳優の森本レオもこの「ミッドナイト東海」のパーソナリティをつとめていたが、やはり1972年7月を最後に打ち切りになっている。
 つボイノリオは、同じ名古屋地区のCBCに移り、「つボイノリオのサンデーホットヒット歌謡」「つボイノリオの人生すべからく」などで活路を見出す。そして1970年代も中盤以降となってくると、つボイの活躍は全国的になり、「オールナイトニッポン」(ニッポン放送、1977~1979)、「ハイヤングKYOTO」(KBS京都、1981~1986)などのパーソナリティを担当する。東京で「オールナイトニッポン」(金曜日深夜担当)を終えた後、オートバイで名古屋に切って返し、CBCの「土曜天国」に出演するという多忙さを極めていた。当然のことかもしれないが、つボイは身体を痛めたそうだ。さらにこのつボイのDJ人生を波乱万丈にしたのがKBS京都の倒産騒動だ(一時期は近畿放送という名称だった。京都放送も近畿放送も略称は同じKBS。ここでは、韓国のKBSと混同の内容にKBS京都と記す)

DJからソフトウェア開発にも触手
 つボイの出演していた「ハイヤングKYOTO」もそうだが、KBSは地方のローカル局としては珍しく、若者向けの番組を多く自社で制作していた。「まるぶつWAIWAIカーニバル」「日本列島ズバリリクエスト」などがそうだ。パーソナリティもその名にふさわしくユニークな抜擢が多く、つボイのほかにも、諸口あきら、高石友也、西岡たかし、やしきたかじん、小林京子、桂文珍、笑福亭鶴光、笑福亭鶴瓶など多くの傑物を輩出した。一時は怪人の巣窟といったような様相を示していたほどだ。また洋楽を積極的に放送した番組も多く、京都唯一の放送局ということもあって、根強いファンも多かった。しかし、1980年代に入りいわゆるイトマン事件でKBS京都も経営がおかしくなり、放送中断はなかったものの、多くの自社制作番組が打ち切りとなった。そして、「ハイヤングKYOTO」も制作中止となった(のちにファンの期待に応えるべく復活はしたが)。一方つボイは、一時期は声優としてだがNHKの「プリンプリン物語」に出演するなどして人気知名度も全国的なものとなっていた。

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 しかし、つボイもこの波にもまれ、またANNとCBS「土曜天国」の綱渡りに疲れてか(その後もラジオ大阪OBCでも番組を持っていた)、不承不承ではあったようだが、活躍の場を名古屋に戻す。これだけだと、一時期を謳歌しただけのDJとなるかもしれないが、そこにとどまらないのがつボイノリオの怪人たるところである。DJとしてのスタンスは、あとで取り上げるやしきたかじんも似ているのだが、「FM嫌い」をあげておかなければならないだろう。音質の良さを売りものにして洋楽を中心に上品なイメージで売っていたFMに対し「FMなんておしゃれさを看板にして気取っているだけ」と否定的に話していたらしい。もっともFM愛知で「つボイノリオのバックステージパス」という番組を持つなど、FMだからダメということではないようだ。
 ところが、これがつボイノリオのもっともつボイノリオらしいところかもしれないが、活躍の場を放送局だけとしなかった。もちろん、寄席などの古くからある場に活路を求めたのではない。なんとやっと普及が始まったばかりのパソコン業界に進出したのだ。有限会社坪井令夫商店を1985年設立。ていねい君、まるみちゃん、乱筆君などのフォントを発売する。ファミコンのソフトも開発していたらしい。
 メインテーマの深夜放送から離れるのと時代が下るので、その後は手短にたどることにするが、名古屋をメインテーマにした「名古屋はええよやっとかめ」(1985年)、先に取り挙げた「飛んでスクランブール」(1996年)、ベストアルバム『あっ超ー』(1996年)などコンスタントにCDを出すとともに、「インカ帝国の成立」(2006年)、「雪の中の二人」(2007年)をiTuneで配信するなど、活躍の場を広げている。2009年には還暦記念クラシックコンサートをするなど、その後も大病を患ったこともあるが、2017年の現在、67歳、なお活躍中である。
 つボイ自身は「花のDJ稼業」(1978年)を出す(youtubeのこれはKBS京都の「ハイヤング」を下敷きにしているようだが)など、あえて規定するならDJなのかもしれない。しかしそれだけではとらえられない。ミュージシャンであり、プログラマであり、司会者でもある。そしてよくあるようにミュージシャンがかたわらでDJをやる、司会者がDJもつとめるというのではない。放送禁止歌の帝王。まじめにおちゃらけを追求する達人、既成制度に対するゲリラ戦の名手、深夜放送というマージナルな解放区から、なんとも八方破れな、型破りな、何をしでかすのかわからない存在。ベビーブーマーの名古屋人、いまだ健在である。


kanren