【月刊極北5周年+極北ラジオ開局カウントダウン連載】

落語家たちが駆け抜けた深夜放送【2】
鶴光!三枝!嘉門達夫!MBS「ヤンタン」パーソナリティの黄金時代


竹村洋介[第5回]
2016年12月18日

鶴光のヤンタン、オールナイトニッポン

「鶴光でおま!!」で深夜放送界を席巻した笑福亭鶴光

鶴光のヤンタン、オールナイトニッポン

同じ松鶴の弟子で深夜放送界を席巻したのが笑福亭鶴光だ。鶴光は、MBS(毎日放送)のヤングタウン(略称ヤンタン)をアナウンサーの角淳一、佐々木美絵のトリオで、’70年代の関西の若者の夜をがっちりつかみ、1974~1985年にかけては、ニッポン放送「オールナイトニッポン」で全国を制覇した。エロカマキリの異名をとる鶴光は破竹の勢いだった。ラジオを聴いていた人の90%超が鶴光のオールナイトニッポンを聴いていたというのだ。深夜でラジオを聴いている人間が少ないとはいえ、驚異的な記録だ。下ネタを禁止したはずの深夜放送で「ええ乳しておまんな」「乳頭の色は」「ええか、ええのか」などおきて破りを平気でする。ただし、古い深夜放送のエロと違い、鶴光のそれは明るくさっぱりしていた。そしてがりがりに痩せていたのでエロカマキリなのだ。ある時、機会があって、やはりヤンタンのパーソナリティだった元ピンク・ピクルスの小林京子さんに、普段はどういう人なのかをきくと、そのまんま地、普段と変わらないと聞いて驚かされたものだった。そしてこのエロ路線で『鶯谷ミュージックホール』というレコードをヒットさせる(他は、ヒットしなかった)この『鶯谷ミュージックホール』、ストリップ劇場の場内放送を歌ったものだが、鶯谷にストリップ劇場は実存しない。あくまで架空の物語なのだ。ちなみにB面は『ももえちゃん』。もっとも師匠である6代目松鶴からは落語に専心しろと大目玉をくらってしまった。もともと松鶴は仁鶴とはうまくいっていたのに対し、鶴光とはしっくりいっていなかったらしいが、破門3か月は相当な処分である。鶴光自身、弟子である笑光に1年の破門を言いつけ、それがきっかけで笑光は嘉門達夫として、音楽分野に転身することになる。
鶴光自身はオールナイトニッポンを足掛かりにして、本業の落語でも東京進出を果たす。もともと上方落語協会の会員だったが、落語芸術家協会にも籍を置くようになる。ただ、人気はあるのに落語芸術家協会の寄席ではトリをとれない。鶴光が真打でないからだ(上方落語協会はそもそも「真打制度」をとっていない)。そこで考え出されたのが、「上方真打」なる称号である。鶴光の弟子には。落語芸術家協会に属し、真打になっている者も少なくないが、「上方真打」は鶴光だけである。鶴光によると、江戸落語の話の8割は上方が源流だということになるので、東西の交流は当然となる。
もっとも鶴光は、落語家としての鶴光と、ラジオ・パーソナリティとしての鶴光をまったく別物と考えていた。むしろ古めかしい古典落語の世界からの息抜き、ストレス解消と考えていたようだ。そして本業はあくまで落語家。ラジオの深夜放送と寄席は別物。それゆえだろう、明石家さんまたちのように落語家を廃業することはなかった。また六代目桂文枝(旧名、三枝)や鶴瓶のように深夜放送などのメディアでの人気を背景に上方落語協会で昇進していくということもなかった。かといって、プロ意識がなかったわけではない。暗にセイ・ヤングを指して、「自局のアナばかり使こうて、安上がりに作りよって」と批判している(が、MBSヤンタンでトリオを組んでいた角淳一、佐々木恵美は二人とも局アナ)し、「寝たらあかん、寝たらあかん」!と聴取者に向かって絶叫するのも、前代の亀渕昭信は「いいんですよ、眠たいときには眠ってください」と言っていたのと好対照である。もちろんスポンサーのあるなしや出演料の多寡によるところも大きいだろうが(オールナイトニッポンは最初期にはスポンサーなしで放送されていた)。

笑福亭笑光こと嘉門達夫

嘉門達夫

嘉門達夫

この嘉門達夫、今では色物系のミュージシャンとして知られているが、先にも記したように元々は鶴光の弟子でだった。高校生時代より入門していた。毎日放送があった千里丘を原付バイクで追っかけまわし入門したのだ(ちなみに鶴光自身は松鶴に往復はがきで入門を申し込んだそうだ。しかも宛先が松福亭松鶴となっていたとも)。鶴光は高校くらいは出ておくようにと笑光に言い、はれて卒業したのちに正式な内弟子となる。しかし、鶴光の落語を追い掛け回したのではなく、ヤンタンのパーソナリティである鶴光、また同番組のディレクターである渡邊一雄ディレクターに魅かれていたようである。自著『丘の上の綺羅星』が「五つの赤い風船」などで活躍した金森幸介に始まり、渡邊一雄との再会で終わっているのは、象徴的である。笑福亭笑光としてではあるが、ヤンタンの一コーナー担当したことを晴れやかそうに記している。が、やはり笑福亭笑光は嘉門達夫になって正解だったのだろう。渡邊一雄ディレクターも『ヤンタンの時代。』のなかでそう記している。

嘉門達夫『丘の上の綺羅星』(幻冬舎、2015年)、渡辺 一雄『ヤンタンの時代。』(2005年、角川書店)

嘉門達夫『丘の上の綺羅星』(幻冬舎、2015年)、渡邊一雄『ヤンタンの時代。』(2005年、角川書店)

ところで、嘉門の記述によると嘉門達夫が渡邊に小さなベンツを贈ったことになっているが、渡邊が記すところでは贈られたのは小さなベンツのミニチュアだったことになっている。どちらが事実だったのか知る由もない。

上方落語協会会長、桂文枝

桂三枝(現・6代目桂文枝)

桂三枝(現・6代目桂文枝)

その鶴光と同期だったのが桂三枝(現、6代目桂文枝、紛らわしさを避けるため旧名の三枝を使用する)だ。三枝がまず頭角を現したのは鶴光と同じ『ヤンタン』そしてそのTVヴァ―ジョン『ヤング・おー!・おー!』(初代司会は、落語家の仁鶴と三枝が担当。二人とも吉本所属。局アナでMBSの顔となる斉藤努も出演)。このブレークで三枝の人気は関西の若者の中で決定的になった。また上方では最初の大学卒(中退との異説もあり)で師匠の桂小文枝(当時。後に5代目桂文枝を襲名。6代目松鶴と同じく上方四天王の一人)にそのことを嫌がられたともいう。若いころにはフォーク・グループ「ダボーズ」をバックに「夕陽のアンジェロ」をヒットさせた。もっとも、演歌歌手・紫苑との長年の不倫、あのねのねをフォーク・クルセイダーズのコミックバンドとしての後継者として褒めちぎるなどを考え合わせると、どれほどフォーク・ソングを理解していたかはかなりあやしい。
むしろ落語家なのだから当然と言えば当然なのだが、『ヤング・おー!・おー!』で番組内ユニット「ザ・パンダ」(先代林家小染・月亭八方・桂きん枝・桂文珍)を作り、それを改編して明石家さんまをメインに「さんまアンド大阪スペシャル」(SOS)を立ち上げたことなど、若手落語家たちの育成に励んだ点が特筆されるだろう。明石家さんまは「その昔、ヤンタンを一生やりますと言った言葉に嘘はありません」とまでにヤンタンへの愛着を吐露している。

そして、1971年にスーパー長寿番組「新婚さんいらっしゃい!」(ギネス・ブックも認定)が始まる。不倫騒動でどうなることかとも思われたが現在もまだ放送中である。逆にすぐに放送が打ち切られたのは関西ローカルのCMではあるが、「リッター・クッター・ウマカッター」というのがある。西ドイツのメーカーがスポンサーだったとは首をかしげしまうようなセンスである。落語家としては、1970年代には特に古典を苦手としていたが、1980年代に入り新作落語(三枝が言う創作落)一本で勝負している。現在は6代桂文枝を襲名し、上方落語協会の会長でもある。

あのねのねと鶴瓶

笑福亭鶴瓶

駿河学こと笑福亭鶴瓶

この桂三枝が認めた?のが、京都産大の学生グループ「あのねのね」である。本人たちは河島英五とともに活動するなどフォーク・グループのつもりであったようだ。しかし、駿河学こと落語家になる前の笑福亭鶴瓶と後にその婦人となる夫人玲子らが在籍したりしている(全員京都産大生)。一説には、鶴瓶は後ろでおどっていただけだとも言われるが。彼らが「赤とんぼの唄」でデビューしたのが1973年。すぐさまオールナイトニッポンに登場。1975年に学業に専念するため1年間芸能活動を中止するが、1976年にはオールナイトニッポンに再登場。地元関西でも原田伸郎がヤンタンのパーソナリティをつとめる。彼らは大騒ぎのコンサートでも有名だったが、放送禁止歌でも有名であった。既述の「赤とんぼの歌」も「アンネがなければできちゃった、できちゃった、できちゃったのは赤ん坊」というあたりがひっかかったのか放送禁止になったようだ。ちなみにこの動画の背景でおでんの屋台を囲んでいるのは谷村新司と馬場弘文のようだ。「大きな栗と鼠の歌」はタイトルからしてひっかかったようだ(バンド名だけで放送禁止になるのは「村八分」だけで十分)。もっともタイトルからしてというが、タイトル以外に、詞や曲があったか不明ではあるが。北海道と九州でのみ計2回ライブをやり「日本縦断コンサート」と称してみたり、ミュージシャンとしてもコメディアンとしても非常に素人臭く、そこら辺の学生が悪気もなくやっているというふうだった。卵やアップルパイをコンサート中に投げつけあったりして、ものを大事にしないなどとも言われたが、後代のパンクミュージシャンが確信犯的に臓物を投げ散らかすのに比べれば、子どもと大人、かわいいものだった。しかしそれが、既成世代の価値観を笑い飛ばすようなアナーキーさが斬新だったのだ。
このあのねのねのアマチュア時代に本名の駿河学の本名で参加していた一人が、すでに記したように笑福亭鶴瓶だ。メンバーは流動的であったようだが。鶴瓶も、中退はしたが元々は京都産大生。それが1972年、6代目笑福亭松鶴に11番目の弟子として入門する。しかし、内弟子になっても松鶴からは全く稽古をつけてもらえなかったらしい。それでも深夜放送ではないが鶴光、シモンズのゆみ、ピンク・ピクルスの小林京子、フォーク・クルセイダーズのはしだのりひこなどが出演した人気番組KBS(近畿放送)の「丸物ワイワイカーニバル」にレギュラー出演し、1975年からはヤンタンのパーソナリティをつとめることになる。年齢としてはザ・パンダのメンバーと変わりない。彼をMBSの渡邊一雄ディレクターに紹介したのも桂三枝であった。ウナギの頭、半助を食べたという三枝の貧乏話は有名だが、このころの鶴瓶も相当貧しかったらしい。新婚の住まいというのに文化住宅の2階だったという。しかも1階はラーメン屋が入っていたそうだ。当時のトレードマークのオーバーオールは彼としてはよそいきで、普段はあっぱっぱのようなものを着ていたと渡邊はいう。それでも落語家の看板を背負っているという気概は強かった。ある時、ヤンタンに後輩の学生をゲストとして呼んだのはいいのだが、学生が「普通の無駄話のようにぐちゃぐちゃ喋っている方が深夜放送らしくていい」と発言するや否や「俺は笑福亭という代紋を背負っとんねん」と怒り出した。この時、かつてのバンド仲間だった清水國明や原田伸郎のことをどう思って言ったかは知る由もないが。
鶴瓶は6代目笑福亭松鶴の11番目の弟子、つまりは仁鶴や鶴光の弟弟子にあたるわけだが、落語家の王道を進んだわけではない。松鶴からは落語の稽古を付けられることはなかった。入門したての頃はエスパー・超能力落語家として売りこもうとして失敗。それどころか、松鶴に「こいつの落語は落語やおまへん。現にワタイ稽古つけてない!」とまで言われる始末だった。
当初、駆け出しの頃は、ハダカがらみなどで何度も問題になり、放送局に出入り禁止をくらった。そのような中で深夜放送を中心とするラジオ・パーソナリティに活路を見出したのだ。このあたりは鶴光の弟子であった笑福亭笑光と似ていなくもない。
先にも記したが、最初期にはKBSの、深夜放送ではないが、深夜放送のパーソナリティがよく出演していた『丸物ワイワイカーニバル』の司会の座を鶴光から譲り受けている。それを皮切りにMBS『ヤンタン』文化放送『セイ!ヤング』と駆け上っていく。現在ではNHKにまで進出し『鶴瓶の家族に乾杯』までやっていることは皆さんもご存じであろう。そして、上方落語協会の副会長として、桂三枝と共演するなど活躍している。

落語家、あるいは元落語家が、MBS『ヤンタン』などを足掛かりとして、国民的コメディアンとなっていった。深夜放送が始まった当初、そこは、メジャーな、そしておそらくはギャランティーの高い大御所が出演するような場ではなかった。若者向けの、むしろ素人臭いパーフォーマンスが好んで展開される場だった。先取りになるが、これが「もう一つの広場」にもつながっていただろう。
これから取り上げる、あるいはすでに取り上げたフォーク・ミュージシャンや局のアナウンサーでもそれは当てはまるかもしれないが、落語家の場合、特に顕著だった。またMBS『ヤンタン』の記述が多くなってしまったが、それは「お笑いとフォーク」をメインに据えるというMBSの、とりわけ渡邊一雄ディレクターの方針によるところが大きい。フォークを中心にすると言いながら、「なんで僕たちがおろさねばならないんですか」とカントリーよりの高石友也は捨て台詞をはいたが、フォーク・グループの中でもごく一部、また落語家の中でも日の目を見たのはごく少数だったのかもしれない。笑福亭笑光=嘉門達夫のような敗者復活はあったとしても。
ただ皮肉なことに、少数かもしれないが、彼/彼女らがうけることによって、深夜放送が全国ネット化していき、ビジネスとなるものとして扱われるようになった。そしてそのことが、若く新しい才能が駆け上がっていくところだった深夜放送が、かえって後進の道の壁となってしまい、タコが自分の足を喰うようになり、もとのそれとは変質していったのかもしれない。


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