【月刊極北5周年+極北ラジオ開局カウントダウン連載】
夜をぶっ飛ばせ “Let’s Spend The Night Together”(2)
ザ・フォーク・クルセイダーズと深夜放送


竹村洋介[第2回]
2016年5月28日

 1967年10月2日産声を上げた「歌え!MBSヤングタウン」(以下ヤンタン)の最初の歌のゲストを飾ったのは、ザ・フォーク・クルセイダーズだ。アマチュアからプロになったばかり。アマチュア時代の平沼義男と芦田雅喜が辞め、代わりにはしだのりひこが加盟したばかりのことだ。これで加藤和彦、はしだのりひこ、北山修のでこぼこトリオが結成された。(背の高さを揃えるために、後にはしだのりひことシューベルツを結成することになった杉田二郎をメンバーにするという話があったと聞くが、信憑性に欠ける)
 そのアマチュア時代のザ・フォーク・クルセイダーズ解散記念として制作されたのが、アルバム『ハレンチ』だ。

ハレンチ

 完全な自主制作だったために、総製作費30万円をかけても300枚しか作れなかった。それでも、購入してくれる人はほとんどおらず、売れたたのは7万円分だけ。大量に売れ残り、制作費の回収すらできなかった。そこで、かれらが目を付けたのが関西のラジオ局だった。これで火が付いた。ラジオ関西とMBS(毎日放送)にリクエストが殺到したのだ。ほかにもリクエストがあったが、なんといっても「帰ってきたヨッパライ」(作詞:松山猛、作曲:加藤和彦)だ。テープの早回し(当時は皮肉にもカセットテープではなく、オープンリールだったため、早回しは比較的簡単にできた)に、最後の読経の部分にビートルズの” A Hard Day’s Night”をアレンジして重ねて録音したり、ベートーヴェンの「エリーゼのためにでフェイドアウトするなど、アヴァンギャルドな面もあるが、なんといっても早回しのかん高いVo.にコミカルな歌詞がヒットした要因だ。(ライブのようすを聴きたい人は早回しをクリックしてください)。「天国良いとこ、一度はおいで、酒はうまいし、姐ちゃんはきれいだ」(今だと放送禁止?とはいかなくとも顰蹙は買うかも。もっともバンド名のフォーク・クルセイダーズ=民族キリスト教十字軍というほうが、イスラム圏から抗議を受けるかもしれないけれど。敬虔なイスラム教徒は酒も飲まないか(笑)。)
 いちいち書くまでもないことだが、彼らはコミック・バンドでもないし、ましてや宗教勢力でもない。この「帰ってきたヨッパライ」が283万枚という当時史上最高の大ヒットを飛ばしたのちは、「悲しくてやりきれない」(作詞:サトウハチロー、作曲:加藤和彦)、「何のために」(作詞:北山修、作曲:端田宜彦)、「青年は荒野をめざす」(作詞:五木寛之、作曲:加藤和彦)、「戦争は知らない」(作詞:寺山修司、作曲:加藤ひろし)とフォーク・ソングの王道を歩んでいる。ソロになってからではあるが、加藤はアイリッシュ・フォーク・ミュージシャンのドノヴァンへの傾倒から「トノヴァン」と呼ばれていたこともあるくらいだ。
『当世今様民謡温習会』というライブLPを出すまでにフォークソングへの思い入れは強かった。もっとも桂三枝(当時)のように、かたくななまでにコミック・バンドと受け止め「日本史上、最高のコミック・バンド」と褒めちぎる(?)人もいるにはいたが。

紀元貳阡年

 ザ・フォーク・クルセイダーズと深夜放送のエピソードと言えば、関西でヒットしているのをオールナイトニッポン(以下ANN)のパーソナリティ高崎一郎はいち早く知った。そしてANNでかけたところ一気に全国的にブレイクすることとなった。高崎がニッポン放送常務だった石田達郎にこの曲を聴かせたると、石田は「この曲はオールナイトニッポンだけでかけろ」と指示したと言う。一方、パック・イン・ミュージックはスポンサーが日産自動車だったため「ヨッパライ運転」の歌ということで禁止したという。ことの明暗は明らかだった。
 覚えているのは小学校の担任がこの「帰ってきたヨッパライ」を僕たち子どもに聴かせて喜んでいた。なにが嬉しかったのかはいまだにわからないが(音楽ごころのあるような人ではなかった)、それくらい流行ったということなのだろうか?
 そしてプロとしてデビューしてから1年、1968年ザ・フォーク・クルセイダーズは宣言通り解散する。ちなみにシングルの第2弾として予定されていた「イムジン河」が放送禁止になっている。理由は朝鮮民主主義人民共和国に作詞者も作曲者もいるにもかかわらず、そのことをよく知らず、ただの朝鮮民謡だと思い込み、ノン・クレジットにしたためである(当時そのことを知る人は少なかった)。
 その後3人の道はさまざまだった。しかし、みなともに「深夜放送文化」とは無縁ではなかった。加藤和彦は深夜放送のパーソナリティこそつとめなかったものの、ヤンタンのTV版と言われた「ヤング・おー!おー!」にたびたび出演していた。また今ではフォークソングのスタンダードともいえる「あの素晴らしい愛をもう一度」(作詞:北山修、作曲:加藤和彦)を1971年に北山と共演した。この曲で加藤は12弦ギターをフィンガリングするという常識破りの実験的ギターテクニックを演じている。あとで書くことになるが、ある説によるとこの曲はいわくつきの曲で、もともとは加藤と北山が演る予定ではなかったとも言われている。
 加藤にはプロデューサーとしても秀でた才能があり、吉田拓郎のアルバム『人間なんて』のA面(B面1曲目は拓郎自身、その他は元ジャックスの木田高介)、ジローズの『新しい歌』(日本中の一流ミュージシャンを集めると言って30名近いミュージシャン等を1枚のアルバムに投入)などを制作していた。ソロとしてはエリック・アンダーソンの曲をタイトルにした 『ぼくのそばにおいでよ』や『スーパー・ガス』を発表していた。
 あまり言われることはないが、評論家としても一流であった。(当時の自称評論家が単なるレコード会社、音楽出版社の提灯持ちだったためもあるが)。P.サイモンは来日公演の際手を怪我していたのだが、ギターを弟に弾かせるという醜態を演じた。それでも日本の音楽ジャーナリズムは「良かった」「素晴らしかった」と褒めそやすなか、加藤だけは「見なければよかった」と直截に書いた。
 あとは知られているようにサディスティック・ミカ・バンドを結成し、『サディスティック・ミカ・バンド』『黒船』『ホット!メニュー』を発表。加藤が髪をバッサリ切ったり「髪が長いのは「不良」です」との笑いながら名言を吐いたり、アルバム『黒船』のテーマとなっている「黒船来航が日本の夜明けなのか?」と解せないところもあったが(小生意気な小僧ほどマルクス主義史観に毒されていたりする)ロンドン・ライヴを行う。しかし、それがきっかけで離婚。何度かのミカバンドの再結成やザ・フォーク・クルセイダーズの再結成をするが、その間に2回離婚。2009年10月長野県軽井沢町のホテルで自ら命を絶つ。鬱病を患っていたとも言われる。音楽上の盟友が精神科医であったのに何とも皮肉なものだ。
 しかし、サディスティック・ミカ・バンドは日本のロックの黎明期を築き上げたバンドとしてもっと評価されてよいのではないか? バンド名はミカさん(福井光子)の調理法がサディスティクだからとも。プラスティック・オノ・バンドのもじりだとも(多分両方ともそうなのだろう)はっぴいえんどやジャックスはザ・フォーク・クルセイダーズのバックバンドをつとめている。また村八分の山口冨士夫にギターを贈ったことも知られているところだ。少なくとも海外に本格的に打って出たのはサディスティック・ミカ・バンドをおいて他にない。
 はしだは、ザ・フォーク・クルセイダーズ解散後のことを既に見すえていて、解散コンサートで新しいバンド、シューベルツをステージに立たせていた。はしだのりひこ、越智友嗣、杉田二郎、井上博の4人からなるシューベルツは「帰ってきたヨッパライ」には及ばないまでも「風」(作詞:北山修、作曲:端田宣彦)の大ヒットを出し第11回日本レコード大賞新人賞を獲得している。ただ、1970年メンバーの一人井上博が急死し「未完」のままに解散した。
 この間、はしだは深夜帯の番組ではないがKBSの公開録音番組「マルブツWAIWAIカーニヴァルの司会をしていた。これははラジオ・パーソナリティの登竜門のような番組で関西ローカルではあったが、ピンク・ピクルスの茶木みやこ、小林京子、そして落語家の笑福亭鶴光、笑福亭鶴瓶などを輩出した。
 その後、はしだはクライマックスを結成するとともにセイヤングのパーソナリティも務める。バンドの方は「京都主義」と言って(エンドレスを結成するまでは)地元密着、京都人のみで演っていたが、ラジオパーソナリティとしては東京に進出していたことになる。クライマックスのメンバーは、はしだのりひこ、藤沢ミエ、中嶋陽二、坂庭省悟の4人。「花嫁」(作詞:北山修、作曲:端田宣彦・坂庭省悟、編曲:青木望)や「ふたりだけの旅」(作詞:北山修、作曲:端田宣彦、編曲:青木望)などの大ヒットに恵まれ(当時結婚式の披露宴では「花嫁」は定番だったという)、第22回NHK紅白歌合戦にも出演した(当時のフォーク・グループとしてはきわめて珍しいことだった)

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 クライマックスの中で「花嫁」の作曲をした坂庭省吾は惜しくも2000年、53歳の若さで亡くなったが、クライマックス解散後、高石友也とナターシャセブンに参加していた。
 やはり高石もMBSでヤンタンの弟番組(ヤンタンの次の時間帯に放送)である火曜日のチャチャヤングでパーソナリティをつとめていて坂庭も出演していた。動画を聴いてもらえばよくわかるが、偶然にも前番組のヤンタンのパーソナリティは笑福亭鶴光だった。ナターシャセブンの他のメンバーは城田純二、木田高介(ex.ジャックス)という面々だった。フォークシンガーが番組中に歌うことは珍しいことではなかったが、高石友也とナターシャセブンは特によく歌った。レコードをかけるよりも自分たちで演奏する方が多いのではないかと思えるほど、よく演奏した。しかもこの当時ではボブ・ディラン以降のフォークを歌う人が多いなか、高石友也とナターシャはカーターファミリーなどのカントリー&ウエスタン調のバンドだった。この中で、木田高介はプレイヤーとしてだけでなくアレンジャー、プロデューサーとしても活躍するのだが、1980年5月、31歳の若さで亡くなった。日本の音楽界に偉大な業績を残した人だけにほんとうに惜しい。ちなみに木田と坂本龍一とは東京芸術大学音楽学部の先輩・後輩の関係にある(学科は異なるが年齢はそう違わない)。
 話を北山修(音楽活動をするときには、ひらがな書きで「きたやまおさむ」とすることが多いようだが、厳密にそうではないようなのでここでは「北山修」で通す。もちろん同一人物である。ほかにも自切俳人などの変名を持つ)。
 当時休学中の医学生であったが、大学に戻り精神科医になったことは有名だろう。それと同じくらい有名なのは“音痴”だったことかもしれない。僕の友人である精神科医が学会の後、北山修らと飲みに行ってカラオケを演ったところ、「北山修よりは高得点だった」と言い訳?(彼もきっと低得点だったのだろう)をしていたのを思い出す。事実、プレイヤーとしては、前述の「あの素晴らしい愛をもう一度」以外はこれといった活動をしていない(単発物はいくつかあるが、ベースを弾いている動画は見たことがない)。
 むしろ、作詞家として活躍したともいえる。もっともこれについても、「花嫁」を気丈な女性をモデルにして書いたつもりが、結婚式で歌われる歌になってしまったなど厳しい評価もある。もっとも酷な評価は「戦争を知らない子供たち」(作詞:北山修、作曲:杉田二郎)だ。この曲は、ある世代を画する歌であることは間違いない。1971年、オリコンチャート最高11位、累計で30万枚以上を売り上げ、ジローズは第13回日本レコード大賞新人賞を受賞している。しかしこの詞ができたとき、北山は加藤に曲を頼んだが、全く相手にされず、杉田二郎に持ち込んだというのだ。これは北山自身が言っているのでどうも本当らしい。高石友也も自分の誕生日の翌日が日米開戦だったので複雑な思いだと言っていた。加藤もロンドン・ライヴに向けて『黒船』を作っているとき、「歌詞も考えないといけないし」と言っている(18曲中7曲が、もう一人のフォークルいわれた松山猛の作詞)。それはそれにしても、戦中派世代にベビーブーマーが「異議申し立て」した意味はあったのだろうか? ジローズのもう一人、森下次郎こと森下悦伸は、1972年のジローズ解散後、引退し大学卒業後、奇しくもラジオ関西に入社。取締役まで務める。2013年に退社し、ミュージシャン活動を再開している。
 北山こそ、深夜放送が本領だったのかも知れない。ザ・フォーク・クルセイダーズ解散後、TBSでは1969年4月から1972年3月までパック・イン・ミュージックを(その後を継いだのが吉田拓郎である)、MBSヤンタンでは1971年4月から10月までパーソナリティ(こちらの後継は杉田二郎)をつとめている。パックを辞める時、一度は引退とのことだった。すでに北山は医者になることを決めており、大学への復学(ザ・フォーク・クルセイダーズ活動中は1年間に限り大学を休学)も果たしていた。拓郎のことは、前回少し書いたし、書き始めると長くなるので、次回以降に譲ろう。だが少し時代が下って、1977年から78年にかけてオールナイト・ニッポン(以下ANNと略す)を、自切俳人の名でパーソナリティをつとめている。
 ここでは、ヤンタンの後を継いだ杉田二郎について書いてみたい。すでに書いたことの繰り返しになるが、「戦争を知らない子供たち」で杉田は一躍ビッグな存在になっていた。が、北山は杉田をかわいがったようだ。シューベルツとの関係も、はしだのというより、杉田のという色彩が濃かったようだ。杉田の周りには谷村新司、馬場弘文など若手のフォークミュージシャンが多数いた(杉田自身は違うのだが、彼らの多くが「ヤングジャパン」に所属していた)。中でも杉田が秀でていたのは、シューベルツ出身というネームバリューよりも、その歌唱力にあった。ヤンタンのシニア・ディレクターを務めていた「おおなべ」さんこと渡辺一雄もそれを認める一人である。「戦争を知らない子供たち」という稚拙ともいえる歌詞を歌いきり、大ヒットさせたのはやはり杉田の歌唱力を持ってでしかなかったのだろうか? ブラザーズ5という活動を近年しているようだが、5人の中で杉田は頭抜けて声量がありうまい。その彼がもっとも歌の下手な北山にかわいがられたというもの妙ではあるが。

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 杉田がちょうどヤンタンをやっていたとき、後番組、つまりつけっぱなしにしておくと午前1時を境にチャチャヤングが始まり、谷村新司が出てくるという具合だった。そして馬場が出てくるのだが、これ以上はザ・フォーク・クルセイダーズの枠を超えるので、関西のもう一方の雄URC系のミュージシャンや東京のことは次の機会にしよう。


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