深夜放送の怪人たち(3)謎だらけ、怪人だらけの「チャチャ・ヤング」


竹村洋介[第9回]
2017年9月15日

radiocity

久しぶりですが、まずはいくつかの訃報から。

 若林盛亮とともに日航機「よど号」を乗っ取って朝鮮人民共和国へ行ったいわゆる「よど号グループ」の一人に岡本武と言う人がいるのですが、実は笑福亭仁鶴の本名も岡本武士といい、字も一つ違いなら、読みも同じ。1970年代、当時パスポートのサインはローマ字で書くのが習わしでした。となると、サインはTakeshi Okamotoで、全く同一。当時人気絶頂だった仁鶴ですが、休養旅行にヨーロッパに行って、帰りにローマから飛行機に乗ろうとして出国検査を受けようとすると、なんと国際手配中の「おかもとたけし」。そのまま連行されてしまい、当時受け持っていたOBCの「バチョン」を急遽、休むはめに。もちろん、正確に審査を受けると別人であることが判明し、釈放とはなりましたが。
 その仁鶴夫人の隆子さんが、この6月2日に亡くなりました。72歳だったそうです。仁鶴から交際の申し出があったとき、「末席(まっせき)につけておきます」と言ったのが、仁鶴は「真っ先(まっさき)につけておく」と聞き間違えて、喜んだというエピソードもこのバチョンで聞いたことだった。夫婦仲はよかったらしく、仁鶴は2週間喪に服して仕事をキャンセルしたそうです。

 もう一人、「スバリク」(KBS京都)「ヤンタン」(MBS)や「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)で異彩を放っていた諸口あきらさんも肺気腫のため、京都市内の病院で亡くなりました。81歳でした。北九州は門司生まれ、東京育ち(多磨美大)、京都在住と自身ラジオでも言っていましたが、語り口はどこへ行ってもべらんめぇ調でした。現役時代は個性的なラジオ・パーソナリティをつとめるとともにカントリーソングシンガーとしても活躍していました。同じカントリー・ミュージシャンとして高石友也さんとの交流も深いものがありました。4月には加川良さんがなくなっていますし、ご冥福を祈願します。

謎だらけ、怪人だらけの「チャチャ・ヤング」
 ほとんど知る人もないだろうが、MBSで「ヤンタン」に続いて放送されていたのが、この「チャチャ・ヤング」だ。「ヤンタン」を聴いてラジオをそのままにしておくと、この「チャチャ・ヤング」が聴こえてくるという趣向だ。1970~1973年というごく短い期間しか放送されなかったが、破天荒な実験性にとんだ番組だった。その一方で「ヤンタン」へのステップアップという側面をも持っていたのも事実だ。
じつは、この「チャチャ・ヤング」、きわめて資料が少ない。ヤンタンが本になっているのに比べれば雲泥の差だ。記録らしい記録というと、高石ともやの最終回「チャチャ・ヤング」くらいのものである。これも最終回全編をYouTubeにアップしたものにすぎない。ディープな世界なのに、そして後には有名人を輩出しているにもかかわらず、忘れ去られた番組となってしまっている。番組名からしてなぜ「チャチャ・ヤング」なのかわからない。ChatChatだったのかもしれないが、チャット言う語句は、当時は全く一般的ではなかった。そのこともあって、今回は断片的な資料をあたりながら、まとめ上げてみたいと思う。
まずは、パーソナリティから。

月曜日 馬場章夫(当時、冒険家。カブトガニ探検家。後に昼の番組に移動し、近年までラジオのパーソナリティを務めていた)。
火曜日 西岡たかし(歌手、体調不良により早く降板)→高石友也(歌手、この番組では珍しく自分で歌いまくる、いわゆるフォークDJスタイル)。
水曜日 加川良・岩井宏(両者とも歌手、加川良は本年(2017年)永眠)→ひがしのひとし・まり子夫妻(無頼のシャンソニエ、2014年肺炎で病没、とその妻)。
木曜日 眉村卓(SF作家。小説家としてはまだ駆け出しの頃であったが、深夜放送としては異色の存在)。
金曜日 杉田二郎(フォーク・グループ「ジローズ」のリーダー、後に「ヤンタン』に移動)→谷村新司、ばんばひろふみ(同じくアリス、ばんばんのリーダー、やはり「ヤンタン』に移動、さらに「セイ!ヤング」にも)。
土曜日 上田彰(司会タレントだったらしいが詳細不明)。

という顔ぶれだった。

 この中で、眉村卓は別格の異色として――他の局の深夜放送でも小説家がパーソナリティを勤めた例はあるだろうか? なお後に眉村はジュヴナイル・ノベルなども手掛けるが、「チャチャヤング」に出演していたころは『わがセクソイド』などが代表作だった――。他に月曜日担当の馬場章夫も異色だが(ごく近年まで自宅からラジオ放送をしていたらしい)、おおよそのところ、杉田二郎、谷村新司、ばんばひろふみらのヤングジャパン系列(北山修人脈と大きくオーヴァーラップする)とURC系列の西岡たかし、加川良、岩井宏、ひがしのひとしらに二分することができる。
 高石友也は自身の音楽事務所であった高石音楽事務所が音楽舎を経てURCの源流となるのだが、「チャチャ・ヤング」のパーソナリティを務めていたころには、すでにアメリカ合衆国での放浪を終え、元クライマックスの故・坂庭省吾(あまり自身は好きではなかったともいわれるが、クライマックスのヒット曲「花嫁」は彼の手によるもの)、城田純二、元ジャックスの木田高介、そして金海孝寛らとナターシャ・セヴンを結成し(木田や坂庭が死去するなどといったこともありメンバーは流動的だったが)、カントリー・ミュージックへの回帰傾向をはっきり示していたので、URC系列に入れるのは無理があるかもしれないが、歴史的な観点からURC系列ということにしておきたい。

坂庭省悟

坂庭省悟

 今回はヤングジャパン系列のパーソナリティを見ていくことにしたい。怪人と言うとURC系の人たちの方が怪人らいいのだが、それは次回に記すことにしよう。
 「チャチャ・ヤング」に出演していたわけではないけれど、もう一つの源流としてフォーク・クルセイダーズの流れは無視できないだろう。フォーク・クルセイダーズのメンバーの中で、北山修は「パックイン・ミュージック」や「オールナイト・ニッポン」で、はしだのりひこは「セイ!ヤング」でと東京のキー局に出演している。

クライマックスとジローズ
関西に残ったのははしだが結成したシューベルツ、クライマックスのメンバーだった。杉田二郎はシューベルツ時代に「風」を(ギターのヘッドの部分に注目、特に越智友嗣のギター・ヘッドは明らかに下を向いている)ヒットさせ、また自身がリーダーのバンドのジローズ(第2期)としても、かの「戦争を知らない子供たち」をヒットさせていた。
一方はしだはクライマックス時代には前述のように「花嫁」をヒットさせている。「風」も「戦争を知らない子供たち」も作詞はともに北山修だが、北山が「戦争を知らない子供たち」の歌詞を故・加藤和彦に持ち込んだ時、にべもなく断られ、杉田に持ち込んでできたといういわくつきのものだった(逆に「あの素晴しい愛をもう一度」は15分でできたと加藤は回顧していた)が、当時は一世を風靡する曲だった。
 はしだはフォーク・クルセイダーズ解散前のコンサート・ツアーに、シューベルツを共演させるなど、売込みが激しい割には、フォーク・クルセイダーズ、シューベルツ、マーガレッツ(公式音源なし)、クライマックスさらにはエンドレスとやたらと短期間にバンドを解散させるので悪評を買っている。さらにシングル・ヒットはあるのに、シューベルツの解散記念とでもいうべき『天地創造』以来、LPはクライマックスのライヴ盤以外に残していないのも悪評の原因の一つかもしれない。クライマックスのライヴ盤を聞く限り、‘Somebody to Love’(原曲Jefferson Airplane)など決して演奏力は低くないのだが。ジローズが、1年の活動期間に4枚のLPを出したのに比して、加藤和彦がジローズのプロデュースに力を入れたとはいえ、少なすぎる。クライマックスはスタジオ録音を用意していたのだが、お蔵入りになっているそうではあるが。なお、はしだとクライマックスのメンバー(坂庭、中島陽二、藤沢エミ)の確執?は北山修『北山修・ばあすでいこんさーと』にも一端が見えて面白い。

はしだのりひことクライマックス

はしだのりひことクライマックス


はしだのりひことマーガレッツ

はしだのりひことマーガレッツ

 それにしても、「あの素晴しい愛をもう一度」「花嫁」にしても、ともに北山の作詞なのだが、「命かけてと、誓った日から」とか、「命かけて燃えた」というようにやたらと「命かけ」るのがお好きなようである。こういう大袈裟な表現が、北山の作詞者としての評価につながっていることは想像に難くない。

ジローズ

ジローズ

 さて、「戦争を知らない子供たち」に戻ることにしよう。頭脳警察の「戦争しか知らない子供たち」や高石友也とナターシャ・セブンの「戦争を知らない子供たち‘70&’83」(Vo.坂庭省吾)をはじめとしていろいろなバンドがこの替え歌を作ったことでも有名である。内心はいざ知らず、北山自身もこのような替え歌を歓迎しているという。ちなみにこの1971年の1年間限定で活躍した第2期ジローズのもう一人のメンバー森下次郎(本名、森下悦伸)は解散後、ラジオ関西にディレクターとして就職したが、定年退職後、再びフォーク界に復帰している。

谷村新司
 この弟分格だったのが「ちんぺい」こと谷村新司である。ラジオでニックネームを募集したところ「くずれぱんだ」という愛称がきまったが、それまでのあだ名で出会った「ちんぺい」もよく使われていた。こちらは、学校で野末陳平のことを話題にしていたので、友人からそう呼ばれるようになったらしい。今でこそ、AVファンとしても有名になり、貫録を見せている谷村だが、「チャチャ・ヤング」に登場したのは、ミュージシャンとしてはまだアマチュアだった。PPMスタイルのフォーク・グループ、ロック・キャンディーズ(氷砂糖の意味でロックとは無関係)のリーダーだった。それでも1970年には他のカレッジ・フォークの仲間たちとともにアメリカ・コンサート・ツアーを行っている。このツアーは長距離バスであるグレイ・ハウンドを乗り継ぐという相当にハードなものであったらしいが、後のアリスのメンバーになる矢沢透と出会っている。そして、谷村にとってもっとも衝撃的だったのは、このツアーの最中にジャニス・ジョップリンを見たことだった。ジャニスは1970年に夭折しているので、最晩年のステージを見たことになる。さらには自身のレパートリーの中にジャニスも歌っている「サマータイム」を取り入れるほどであった(原曲は1930年代の子守唄)。ジャニスを見たことが人生最大の誇りと周りのディレクターや友人のミュージシャンに言って回るというようにあまりに入れ込みがすぎたので、あきれられて、ばんばひろふみをして、「ジャニスのステージを見なかったのが最大の損失」とまで言わしめるありさまだった。ロック・キャンディーは1971年に「春は静かに通り過ぎてゆく」などを含む「讃美歌」を解散記念として出した。谷村はプロミュージシャンをめざしてアリスを結成し、「走っておいで恋人よ」でデビューした。
 しかし、「チャチャ・ヤング」や「ヤンタン」では持ち上げられたものの、同時代のピンク・ピクルスやシモンズのようにはヒット曲に恵まれず、しばらくは、ミュージシャンとしてよりもラジオ・パーソナリティとしての知名度の方が高いほどだった。『深夜放送ファン』でも、「アリスのすべて」ではなく「谷村新司のすべて」と言う形で別冊特集号が組まれている。アリスがブレイクしたのは、1975年の「今はもうだれも」からである。この曲はもともと谷村がアマチュア時代に交流があったウッディ―・ウーの曲で、谷村自身もロック・キャンディーズ時代にカヴァーしていたことで知られている。もうこの頃には「チャチャ・ヤング」は、終了し、谷村はヤンタン(MBS)や「セイ!ヤング」(文化放送)に活躍の場を移していた(「セイ!ヤング」の前任者がはしだのりひこだったというのも、ヤング・ジャパンつながりだったのかもしれない)。

谷村新司(髪がない)

谷村新司(髪がない)

ばんばひろふみ
 「チャチャ・ヤング」のパーソナリティをともに務めるなど盟友であったばんばひろふみもしばらく不遇をかこっていた。ラジオ・パーソパリティとしては、谷村とともに「セイ!ヤング」に出て「顔がでかい」などといじられ役をこなしたり、「天才・秀才・バカ」で人気を得ていたりしたが、バンド活動は長らく停滞していたままだった。バンバンを結成し1972年に「何もしないで」でデビューするも、木田高介(ex,ジャックス、高石友也とナターシャ・セブン)の手を借りた「永すぎた春」も、谷村との共作の「冬木立」もヒットには及ばず、深夜放送界では谷村のアシスタントのような存在として見られていた。メンバーの入れ替わりなどもあり、ばんば自身も解散を考えていたようだ。それが1975年当時まだ無名だった新井(松任谷)由実が書いた「『いちご白書』をもう一度」で途端に大ブレーク。オリコンの1位を獲得した。往時の述懐によると、ばんばは『いちご白書』を映画でも原作でも全く知らなかったという。やっぱり東京の人(?、新井は八王子の人だ!)の手を借りないと大ヒットは生まれないものなんだとかいわれる一方で、逆に、ああ、これでこの人たちも終わったなと感じたのも一方の事実だ。学生運動全盛時への叙事的なレクイエムに、揺さぶられたのは事実だが、「学生大会」を「学生集会」と書き間違えたり(就職が決まってから髪を切るのは間違いではない)、歌われる叙事があまりにもステレオタイプ、実体験とはあまりにもかけ離れていることがバレバレで、なきのリード・ギターのフレーズにいたってはあまりにもフォーク・ロックのそれとは程遠かったからだ(むしろ演歌臭すらした)。たしかにもう遠いところの人になってしまっていた。

ばんばん(髪が長い)

ばんばん(髪が長い)

 のちにばんばがファンであった(と「チャチャ・ヤング」でばんば自身が言っていた)平山みきと結婚したりするが、それはもう遠い芸能界での出来事に過ぎなかった。いやそれどころか、「真夏の出来事」の方が興味をそそられたものだ(実際、「真夏の出来事」は1980年頃の東京のパンク―シーンでリヴァイヴァルし、平山みき本人がステージに立ったこともあるほどだった)。実際、あのペーソスには、RCサクセションの「スローバラード」に通じるものがあった。

その後
 ほかにも彼らを追っかけるように、ヤングジャパン系列のミュージシャンが深夜放送に顔を出すこともあった。例えばザ・ムッシュ(グループ名で、ムッシュ・かまやつとは無関係)の山本雄二なども「セイ!ヤング」に出たりしているようだが、成功を収めることはなかった。
 そして彼らの中には、演歌に転向するものあり、ただの歌謡曲の歌手になるものもありと、遠い世界に散っていったも同様だ。近年、杉田二郎をリーダー格として、ブラザーズ5(もちろん1960年代のアメリカのフォーク・グループ、フラザーズ・フォアのもじり。メンバーはほかにばんばひろふみ、堀内孝雄、高山厳、因幡晃)などを結成しているが、風に吹かれたその姿などもう見たくないというのが実感だ。
 というわけで次号は今度こそ、本物の怪人たちURC系列のミュージシャンを追いかけてみることにしましょう。