「今どき、ヒュームに関心を持つような奴は失笑されて当然」、と豪語する自称“哲学好き”の文脈読めない病患者


仲正昌樹[第55回]
2018年4月22日
著者最新刊『悪と全体主義―ハンナ・アーレントから考える』(NHK出版新書)

著者最新刊『悪と全体主義―ハンナ・アーレントから考える』(NHK出版新書)

 前回も話題にした、私に粘着し誹謗中傷を繰り返す、中二病ニート・オタクはまさに、私がこの連載で話題にしてきた、ネット上で著名人の悪口を拡散することで自分に注目を集めるためなら何でもやる、ネット上の末人の典型である――拙著『〈ネ申〉の民主主義』(明月堂書店)を参照。本人はニートではないとツブヤいていたが、自分がどういう仕事をしているか明らかにしていないし、日中他人を侮辱するヒマ人ツイートをあれだけ繰り返せるのは、ほぼニート状態にあるからだと推測できる。中二病ニート・オタクは、末人の特徴をいくつも併せ持っている、ある意味、稀有な存在である。
 先ず、自分が相手に対して失礼極まりない発言をしておきながら、そのことを完全に忘れるか無視する。そして、相手からの反撃を、自分に対する一方的な攻撃であるかのように言い張り、「仲正氏はいつも対人論証(属人論法)を使う」、などと知った風な口を利く。悪口人間である自分は、そんなことを言えた義理ではない、とは思わないようである。記憶力の問題と自己愛が混合して事実認識が狂っているのか、鉄面皮なのか。
 第二に、相手を「批判」すると称しながら、相手のテクストをまともに読まない。タイトルだけで判断したり、自分に理解できそうなワード、センテンスだけ取り出し、それについて勝手な“注釈”を加えて、強引に攻撃材料にしたりする。例えば、私が八〇年代以降の日本の現代思想における、ポスト構造主義の受容について説明している文章の中で、「八〇年代の日本の思想状況を語るうえで最も重要な理論家は、浅田彰と中沢新一である」と書いたとする。それを、「仲正は浅田と中沢を信奉している。浅田や中沢に対する各方面からの批判を真剣に受け止めていない」、という話にしてしまう――無論、その場合の“浅田や中沢に対する批判”なるものがどういうものか、書いている本人は理解していない。
 この、自分が理解していないことを知ったかぶりして書くというのが第三点である。これは、山川賢一等の低レベルの反ポモ集団(山川ブラザーズ)や似非科学批判クラスター、自称リフレ派のネット経済論客、嫌儲民などに共通の傾向だ。どこかのその分野の権威っぽい人が言ったことを、又聞きの又聞きの叉聞きの…又聞きで、かなりねじ曲がった形で“理解”し、それをさも、学会の通説を語っているような口調で、偉そうに他人に押し付ける。例えば、ソーカル事件は、ある物理学者が、ポストモダン系とされているテクストで、数学や物理学の用語をアナロジーとして濫用されており、その用法が間違っていることが多いと指摘した、というだけの話だが、山川や中二病ニート・オタクにとっては、「ソーカルがポストモダン思想を論破した」歴史的な事実になってしまう。
 そして、いったん“歴史的事実”として勝手に“確定”すると、それを疑おうとしない。これが第四点である。例えば、山川や中二病ニート・オタクは、「ポストモダン」と言う言葉を乱発して攻撃する割には、その中身を全くと言っていいほど理解してない。ラカン、デリダ、ドゥルーズ、東浩紀、千葉雅也…といった名前を、「ポモ」と漠然と結び付けているだけである。あまりにも無内容な“ポモ攻撃”をするので、「先ず、何を『ポストモダン』と呼ぶのかはっきりさせないと話にならないだろう」という主旨のことを言うと、「仲正は、ソーカル教授によってポストモダンが完全に論破され、科学性がないことが証明されたことを無視しているか、知らない。2+2=5と言っているようなものだ!」、などと無茶苦茶な反応をする。まるで、自分たちの教祖を侮辱された時の新興宗教や左翼セクトのような反応である。恐らく、(自分たちにとっての)“歴史的に確定した事実”に対しては、受け入れるか、受け入れないかの二者択一しかなくて、その“事実”をもう一度基礎的な概念や出来事に分解して問い直す、などということは高尚すぎて、思いも及ばないのだろう。
 第五に、自分たちが大事なはずだと思い込んでいることを、相手があまり重視していないため、ほとんど触れないと、「逃げている!」(a)とか「無知だ!」(b)、などと断言する。例えば、「ポストモダン思想について語る時は、必ずソーカル事件に触れなければならない」、と決めつけている山川等は、私がポストモダン系の解説書でソーカル事件について触れないのは、逃げているのだ、と断言して、一切聞く耳を持たない。どうして山川のような無知な輩が解説書の書き方のルール・ブックになれるのか不思議でしょうがない。また、中二病ニート・オタクは、彼がたまたま目にした私の本にラカンの名前が出てこないので、「仲正はラカンを知らない」と決め付ける。中二病は、自分がどこからか新しい知識を仕入れてくると、それを自慢して回らないと気がすまないたちなので、相手も自分と同じようにありったけの知識自慢をするものだと勝手に決めつけているふしがある。だから、[〇〇に言及しない→〇〇を知らない]と断言できるのだろう。「文脈」という概念を持っていないのだろう。とにかく、自分の怪しげな“常識”を尺度にして相手を評定しようとするのである。何様のつもりか!
 第六に、私のような現役大学教員の学者を無能呼ばわりし、自分こそ本質が分かっていると豪語するくせに、ちゃんとした論文を書いて学位を取ったり、出版社に原稿を持ち込んで出版してもらう努力をしようとしない。山川や中二病等には、何度か皮肉でそう言ってやったのだが、知らん顔をしている。最近、ハイデガー―デリダ好きを称する、みなと (@rsssatt)という男がやたらと、意味が通じない――文章の読み方が分かっておらず、哲学史の知識もかなり適当であることがバレバレの――下手な文章を書いて、「仲正は本質が分かっていない」と連呼している。あたかも、自分の確信が全ての基準であるかのように。そんなに自信があるなら、山川等と共謀して、反仲正本でも企画して、出版社に持ち込むべきだろう。どうしてそうしないのか? 結局、こういう連中は、内弁慶で度胸がないのである。
 第七点は、これと密接に関連している。こういう連中は、自分の主張に自信があるようなふりをしているが、その割に臆病で、自分の発言を何とか権威付けようとする。ちゃんとした権威らしい人の発言を引き合いに出せればそれにこしたことはないのだろうが、うまくそういう権威が見つからない場合、畑違いの人を権威に見立てて持ち上げる。例えば、山川は、物理学者であるソーカルや心理学者であるスティーブン・ピンカーを、科学哲学や思想史の権威でもあるかのように持ち上げ、ソーカルやピンカーから引用している人の発言を引用している人の発言を引用している人の…を孫引きして、自分の言い分をもっともらしく見せかける。それより更に底辺に位置する中二病ニート・オタクは、山川を権威にして、山川が仲正は間違っていると指摘したから、仲正が間違っていることは確定している、などと無茶苦茶なことを言う。
 第八点も、こうした負け犬根性に関わるものである。彼らは、他人を攻撃する時、同調してRTしてくれるよう知り合いや、自分に同類っぽい人に呼びかける。そもそもちゃんとした議論をしたい人間が、ツイッターで、事情がよく分からない人に同調を呼びかけたりするのはおかしなことだが、連中は恥しらずなので、とにかく味方を増やそうとする。山川は自分と似たようなプロフィールの人間に媚を売って、味方になってもらおうとする。中二病ニート・オタクは、自分と同じような、あまり他人から相手にしてもらえない暇人で、最近、仲正に関するネガティヴ・ツイートを発した奴を、悪口仲間にしようとしてしきりと暇人にメッセージを送り、勧誘する。悪口の仲間の言うことは理解できなくても、適当に相槌を打つ。普段相手にされない同士で、人恋しいので、何となく同調してしまう。中二病ニート・オタクの話し相手になることは、ルサンチマンの塊の暇人であると自白するようなものである。
 第九点として、先ほどの第五点の(b)とも関係するが、悪口を言いたい相手の能力を可能な限り過少評価しようとする。中二病ニート・オタクは、私の取り柄は語学しかないと決めつけたがる。“哲学の難しい本”を読む能力しかない、と決め付けたがる輩もいる。私の大学での授業を見たこともないのに、仲正の授業は私語だらけで、何も聞こえないに違いないと決め付ける奴や、仲正の本はほとんど売れておらず、社会的に孤立している、と決めつける奴もいる。要するに、相手が自分と同程度に無能、役立たずと思うことで、安心したいのである。そういう他人を、自分のところまで引き下げたいという願望に基づいて適当に発言している内に、それがいつの間にか“事実”になってしまうのだろう。
 第十点として、自分の主張の一貫性のなさ、無内容さを相手に転化するということがある。中二病ニート・オタクや、フェイクニュース・マスターであるuncorrelatedのような奴は、その時々の思い付きで、一貫性のない悪口を言う。何らかの思想的・学問的な関心に基づいた発言ではないので、当然無内容である。それに対して、私が反撃し、バカのサンプルとして分析する場合、元の“素材”に一貫性がないので、どうしても話がぶつ切りになりがちだ。私の積極的な主張も入れにくい。しかし、この連載はそもそも何か学術的な議論を積極的に主張するためのものではなく、私がその時々に書きたいことを書いているコラムなので、少々ぶつ切りになってもいいと思って書いているわけだが、中二病等は自分に原因があることを無視し、もしくは忘れて、「仲正氏に一貫性を求めるのは、八百屋で魚を買うようなものです」、などと、格言風の台詞を使ってふざけたことを言う。
 第十一点として、中二病のような、自分の頭の理解できないものを全て無意味と決めつける輩は、「ブーメラン」という言葉が大好きだ。「ブーメラン」という言い方が成り立つのは、相手を批判する際の基準が、自分自身にもそのままきれいに当てはまってしまう場合だが、多くの場合、「ブーメラン!ブーメラン!」と叫んでいる連中の発想は物凄く雑なので、何をもって、「そのままきれいに当てはまる」と判断しているのか分からない。中二病ニート・オタクが、私に関して「ブーメラン!ブーメラン!」と言っているのは、前々回も述べたように、本当に意味不明である。ニート・オタクが、私の言っていることを、自分の貧しい頭の中で勝手に置き換えているので、私がバカのサンプルたちを論評する発言は全て、「ブーメラン!」になってしまうようだ。あと、この男は、「ブーメラン!」を「吉本芸人」とセットで使いたがる。確かに漫才には、他人のことをくさしているように見えて、実は自分のことだった、と見せかける芸があるが、どの漫才師のどのタイプの芸を念頭に置いているのか特定しないと、アイロニーとしての効果はない。ただの雑なレッテル貼りでしかない――それでもしつこく言われると、不快にはなる。ニート・オタクのぼんやりした頭の中には、何かそれらしいイメージがあるのかもしれないが、はっきり特定できないのだろう。特定できれば、名指ししているだろう。
 この男が「ブーメラン!」と「吉本芸人」にフェティシズム的に拘るのは、何か幼児期のトラウマでもあるのだろう。こんな迷惑男を作り出してしまった親兄弟は責任を取って、ブーメランを買い与え、吉本の劇場に連れて行って、幼児的な願望を満足させてやるべきだ。今更真人間にはならないだろうが、幼児的な願望を満足させてやったら、多少はましになり、他人に迷惑をかける度合が低くなるかもしれない。
 最近、この中二病ニート・オタクが、これまた、しつこく不毛な批判もどきを繰り返す、自称哲学好きのSkinnerianと暇人同盟らしきものを結んで、私に関する悪口ツイートを続けた。Skinnerianが執着している“テーマ”については、この連載で何回か述べ、その内容は『Fool on the SNS』及び『続・Fool on the SNS』に転載したので、詳しくはそちらを見て頂きたいが、要は、拙著『集中講義!日本の現代思想』で、柄谷行人の紹介に関するごく短い記述の中に、「不完全性定理」という言葉が出てくることに異常に拘っているのである。柄谷が「不完全性定理」と言っていたものが、ゲーデルの不完全性定理そのものではなく、アナロジーであることは確かだが、彼はそのアナロジーで何かの自然現象を科学的に証明しようとしたわけではなく、文芸批評や社会哲学におけるメタ理論的な問題を説明するのに利用している。私は、柄谷の仕事を紹介するのに、「不完全性定理」(のアナロジー的な用法)を無視するわけにはいかないので、かなり雑な話になるのを承知で、ごく簡単に記述した。そのことは『集中講義!日本の現代思想』の中で断っているし、この連載でも説明しておいたのだが、中二病たちは、私が何らかの自然科学的命題のようなものの証明に、生半可に理解した「不完全性定理」を使おうとして失敗したという話にしないと、気がすまないようである。因みに、先ほど第八点として述べたように、中二病は、Skinnerianの言うことに相槌を打って分かったふりをしているだけである。
 『集中講義!日本の現代思想』は、ごく普通に読めば、八〇年代の日本のおける、「フランス系現代思想」の受容と、その影響を論じた本である。何か自然科学的なテーマを論じているわけではない。当然、元になった「フランス系現代思想」も自然科学や数学とそれほど関係ない。文脈的な必要性から理系的な言葉が出てきたとしても、それほど重要な意味はない――この場合の「重要な意味はない」というのは、主要テーマに関する論証のための不可欠な要素ではない、ということである――し、ごく短い不正確な記述にならざるを得ない。
 ニュートンの光学に影響を受けた一八世紀の文学者や、相対性理論に影響を受けた二〇世紀の文学者、芸術家はかなりいる。それらの人たちの理解は多くの場合、不正確だし、そのことを紹介する文章での光学や相対性理論に関する記述も、そこにフォーカスを当てるのでない限り、雑にならざるを得ない。普通に本を読める人であれば、そういうことにあまりこだわらない。主題ではないと分かり切っているからである。文脈と関係なく、そういうことにしつこく拘って、攻撃材料にしようとするのを、揚げ足取りという。あるいは、そもそも何がその文章の主題か分かっていないのである。
 中二病は、Skinnerianとのやりとりで、以下のような独りよがりなツブヤきをし、それにSkinnerianも同調している。

そうですね。でも仲正昌樹氏にとって数理論理学の専門的な話はその程度なんだと思います。‏

 この男にはやはり「文脈」という概念がないのだろう。私は数理論理学がどうでもいいなどと言ったことはない。少なくとも、命題論理学の意味さえ分かっていない中二病ニート・オタクよりは、論理学に関心を持っている。一般教養の論理学の授業の非常勤講師をやったこともあるし、同僚や知り合いの研究者の論理学関係の研究報告を聞かせてもらうなどして、それなりに勉強している。ただ、そんなのは本質的なことではない――知識自慢がしたいだけの中二病等にとっては、そういうことが重大なのかもしれないが。
 現代日本の社会思想史を要約的に概観する文脈で、不完全の定理とか相対性理論、不確定性原理、複雑系、DNAとかいった言葉に、話を進めていく都合上最低限言及せざるを得ない場合、雑な説明にならざるを得ない。専門分野で使われている用語に言及する際は、その分野で使われている通りに使わないといけない、そうでなければ、一切言及していけない、というルールを作ったら、難しい言葉を使う会話はほぼなり立たなくなる。数学や物理学者が、文学や哲学、経済学、政治学の言葉を何気なく雑に使っていることはしょっちゅうある。先に述べたように、自分のフィールドでの議論を論証するため、不当に他分野の概念を濫用したわけではなく、本来説明すべき内容をイメージしやすくするため、アナロジーとして参照するのは、許容されてしかるべきだろう。アナロジーとしての利用の仕方が適切かどうかは、本来説明すべき内容がどういう性質のものかによるが、Skinnerianや中二病は、本来説明すべき内容の方を理解しないまま、あるいは、理解する気がないまま、アナロジーとして利用した他分野の概念の理解が不正確だと騒ぎ続けているのだから、見当外れである。
 『続 Fool on the SNS』に収録した連載第四十五回で、柄谷等が「不完全性定理」と呼んでいるのは、実際には自己言及性をめぐる古くからある哲学的問題であり、「不完全性定理」をめぐる問題と根っこで繋がっているが、後者は数学的に高度に形式化されているので、本当はアナロジーとしてあまりうまくない、しかし前者の哲学的関心まで否定するのは、反ポモでの傲慢である、という主旨のことを述べた。ごく簡単な話なのだが、国語力に問題があるSkinnerianはそれを全く理解せず、図らずも自分の本性を暴露する、以下のようなツイートをしている。

例えば、私が因果グラフとかマルコフ過程についてデタラメを言って、色々な人から誤解を指摘されたとしますか。で、「私はヒューム以来の因果性の問題に関心を持ってるのだから嘲笑するな」と言ったらみんな呆然とするのではないかな…。

 これに対して中二病ニート・オタクはこれに輪をかけたバカなツイートをしている。

> 「私はヒューム以来の因果性の問題に関心を持ってるのだから嘲笑するな」と言ったらみんな呆然とするのではないかな…。 仲正昌樹氏の本の購買層は呆然としないみたいですね。何故だろう?

 まず、この連中は本当に「文脈」という概念が分かっていない。「因果グラフとかマルコフ過程についてデタラメ」を言うというのが、どういう文脈での発言かによって、意味するところはかなり異なる。確率論についての講義をしている統計学や数学の教授がデタラメを言ってしまって、開き直れば唖然とされるだろが、確率とは本来関係ない話をしていて、ほんの少し、「〇〇の分野の専門家がマルコフ過程についておっしゃっていたように…」と言及しただけなら、単なる凡ミスである。しつこく揚げ足を取る方がどうかしている。問題は、それよりも、古くなってもはや学ぶ価値がないものの代表として「ヒューム」を引き合いに出していることである。
 自然科学なら、ケプラーやガリレオ、ニュートンの説が古くなったので、現役の物理学者がそうした古い理論を知らなくてもいいという話は成り立つが、哲学で大事なのは考え方の筋道である。ヒュームは、いかに確率の精度を上げるかと、統計データからいかに因果性を同定するかという話をした人ではなく、「因果」とはそもそも何かを、「知覚」や「自我」の在り方と結び付けて考えた哲学者である。Skinnerianたちは、現代の分析哲学や倫理学・正義論の最先端の研究者が、ヒュームを様々な角度から再解釈しているのを知らないのだろう。そういうテクストを読んだとしても、「何でヒュームなんて今頃持ち出すのだろう。骨董趣味だなあ!」くらいにしか思わないのだろう。そういう素朴な学問進化論のようなものを想定している人間は、「哲学」には向いていない。哲学や思想が、自然科学や技術と同じようにほぼ単線的に進化し続けており、古い思想は無価値だと思ってしまうのは、最先端の知識を知っているとアピールして自慢したい、というあさましい欲望に取り憑かれているからである。本当に「哲学」が好きな人間なら、「ヒュームの因果性」と聞くだけで笑ったりしない。笑われるべきは、哲学も自然科学も数理学もよく知らないネット上の一般公衆に向けて、見当外れな知識自慢をしたがるこの連中である。本当に「哲学」、いや学問が好きなら、私のごく断片的な表現に延々と粘着して、仲正を侮辱することに拘ったりせず、自分が本当に関心あるテーマについてその方面の専門家と議論しているはずである。
 因みに、この二人の見当外れなやり取りとほぼ同時期に、例によって山川が以下のような見当外れなツイートをし、それに、中二病ニート・オタクが分かった風な口調で同調している。

ハイデガーの入門書3冊読んでみたが著者によって言ってる事がけっこう根本的なところで違ったりするし、まだ通説固まってないみたいな世界なんだろうか

ある著者は「存在と時間」のこの箇所でのハイデガーの真意はこう!みたいな話で、根拠としてハイデガーの講義を提示されたりするんだけど、別の著者は、いやその時期とこの時期ではハイデガーの考えは変わってるとか言い出したりする、みたいな印象。

今回読んだ3冊とは別に木田元先生のハイデガーぼんも昔読んだんだけどユクスキュルが出てきたこと以外なんも覚えてない。

哲学書の解釈ってこんなに割れるものなんだな。ウィトゲンシュタインやポモみたいなケースを除くと、おれみたいな素人にはよくわからんだけで、専門家の間ではそれなりに通説があるものかと思ってた。

 山川のツイートがあまりに雑なので、何をもって通説があるないのと言っているのかはっきりしないが、「哲学」について根本的な誤解をしているらしいことと、学問一般の基礎がなっていないことだけは推測できる――山川は一応、名古屋大学の文学研究科の修士課程を修了しているはずである。
 先に述べたように「哲学」は考え方の筋道を問題にするので、自然科学とか法学・経済学などに比べて、通説が形成されにくい。考え方の大元が覆されたり、新しい角度から見直したりすることで、枠組みが変わることは珍しくないし、実験のような手段によって決着を付けることが難しいので、真っ向から対立する意見の学派が併存し続けることもよくある。それは常識である。しかし、『存在と時間』でハイデガーが使っている基本概念がそれぞれどういう意味で、誰の影響を受けたもので、その後の著作ではその意味内容や使い方に変化があるのか、あるとすれば、どういう変化か、といった基本的な解釈レベルの話であれば、通説に相当するものがないわけではない。それに対して、ハイデガーのどのテクストが本当に重要かというのは、解釈者自身の「哲学」観と関わってくるので、文献学的に決着を付けにくい。ハイデガーのオリジナリティが最も現われているのはどのテクストとか、彼が自らの思索のエッセンスを凝縮して表現しているか、どのテクストが最も一貫性があるか、といった問題であれば、ある程度客観的に論じることが可能だ。どういうレベルの話をしているかはっきりさせないと、「通説」のあるなしは全く意味を成さない。
 山川の書きっぷりからすると、恐らくそういう高尚な話ではなくて、入門書の切り口が異なっていて、どの切り口からの説明も、彼にはよく分からなかった、ということだろう。どの分野でもそうだが、入門書は、素人向けに分かりやすい切り口を選んで、議論を始める。だから、専門的な解説書や原典とは、記述の順序や強調点、挙げている例が異なる。特に哲学はその傾向が強い。ただ、それは専門家同士の間での通説/多数説/有力説/少数説というのとは、別次元の話である。多分、山川はハイデガーそのものに入る前の、哲学的思考そのものところでつまずいてしまって、それを、この業界で学説が固まっていないせいにしたいのだろう。
 そもそも自分が「素人」だと自覚しているのであれば、その「素人」が、入門書を読んで理解できなかったことをもって、「当該分野に通説はない(⇀何とでも適当なことを言えるいい加減な分野だ)」と判断するのは、おかしな話である。彼もまた、中二病ニート・オタクやSkinnerianと同様に、素朴な学問進化説のようなものを漠然と想定しているのだろう。反ポモ連中の横着さと傲慢さを象徴している。