社会常識と論理的思考の関係


仲正昌樹[第52回]
2017年12月31日

 私は、学者の研究する能力、あるいは自分の専門に近い領域で学問的に議論する能力と、その人の社会常識や人としての品格はさほど関係ないと思っている――「さほど」、である。ほとんどの人とうまくやっていけるコミュニケーション上手の人や、専門の内外問わず人格的に尊敬されている人だからといって、学問的にすぐれているとは限らないし、学問的にすぐれているからといって、立派な人間である必然性はない。学者に人格者であれと要求するのは、見当外れである。
 しかし、学問的な議論を開始するには、最低限の社会常識、モラルが必要だ。それが分からないまま、論争もどきをやろうとする輩がネット上の自称論客には多い。職業的な学者にも、そういう常識が欠けている輩がいる。
 先ず、単なる印象だけで他人を攻撃してはならない、批判する前に相手の主張をよく調べたうえで、誹謗中傷にならないよう客観的な表現を使うべき、ということがある。これは、無暗に喧嘩を売ることにならないよう、相手に対する攻撃と受け取られる可能性のある態度を取る時は、無用に不快感を与えないよう慎重を期すべき、特に初対面の相手には、という社会常識に対応する。そうしないと“議論”が始まらない。例えば、自分の最初の印象だけに基づいて、「まあ、こいつはどうせ大した人間ではないので、こんな偉そうなことを言っているけれど、取るに足りない…」、という調子で話を切り出したら、そう言われた相手が、“議論”に応じるだろうか? 話が通じない奴と見なされ、無視されるのが普通だろう。相手の議論する能力と資格をのっけから否定している以上、その相手から自分が否定されても文句は言えない。
 そんなのは学問や評論という以前のしごく当たり前の社会常識レベルの話だが、それがピンと来ていない人間が多すぎる。中には、自分の方が相手の人格を攻撃して喧嘩をふっかけたのにそれをきれいさっぱり忘れて――あるいは、忘れたふりをして――相手の方が自分を攻撃してきたのだと言い張る輩がいる。私がこの連載で再三言及している、山川賢一、祭谷一斗、uncorrelatedなどの山川ブラザーズ(東浩紀氏や千葉雅也氏等に対する嫉妬から反ポモに走る集団)、似非科学批判クラスター、ネットサヨク/ウヨク、奈良の自称社会学者、武蔵大の自称演劇研究家などはその典型だ。自分が口にした罵詈雑言は片っ端から忘れて、被害者面できてしますのだから、“論争”することなどできない。こちらの発言をどこまで捻じ曲げられてしまうか分からない。
 最近、小包中納言というハンドル・ネームの人物が以下のようなツイートをしているのを目にした。

ヒルベルトという人という人が支持する仲正昌樹、昔は近代哲学史をコンパクトにまとめた啓蒙書を書いておられて文転する際には重宝したのですが、どうやら最近はポモ礼賛・ソーカル批判に舵を切ってかなり御乱心とのこと。

 見てすぐ分かるように上から目線の物言いであるうえ、「ポモ礼賛」とか「ご乱心」という言葉遣いは失礼である。私が「ポモ礼賛」だというのは、表現として不適当というだけでなく、私の立場に対する曲解である――これについては、『FOOL on the SNS』 に転載した文章や、この連載の第四十一回以降を参照。しかも、私自身の発言を参照しているのではなく、私を個人攻撃するために書かれた山川のブログにリンクを貼っている――山川のツイッターやブログに出てくる、醜悪な擬似アニメ・アイコンは見ているだけで不快な気分にさせられる。これでは山川の言い分を一方的に真に受けて、私を攻撃してもいい、という態度を表明しているようなものである。
 それで彼のブログに、反ポモの立場で私の具体的発言を批判したいのであれば別に構わないが、この言い方は失礼であり、きちんと議論したい人間の物言いではないだろう、というコメントを残しておいた。しばらくしてツイッター上で、少々引っかかる言い方であるものの、一応謝罪の言葉を述べた。それで少し安心していたら、しばらく経って、これとは全く別件、ある時事ネタについての第三者とのやりとりの中で、ネット上の武勇伝のような感じで、以下のようなツイートをしている。

「そういうの嫌いじゃないですよ。私は今朝方、仲正昌樹に喧嘩を売られた身ですから…」

 この男の記憶力と常識感覚はどうなっているのだろう。因みに、この小包中納言に対して、山川が勧誘らしき働きかけをしていたが、誰かを攻撃するために仲間を集めて、事前に談合するのが普通だと思うような人間は、学問的議論には向いていない――山川自身のことはまた後で話題にする。
 最初に相手に対して無礼な言葉を浴びせかけ、人格否定してしまうと、行きがかり上、その相手の意見を全否定したくなる。実際に、全否定発言をすると、それが自分の中で“確信”へと変わっていく。人格的な悪口と“批判”が相乗作用を起こして、どんどん妄想が膨らんでいく。反ポモ+ネットウヨクらしい「新生活@keisupa」という人物が最近になって、「ソーカル事件」についてのwikipediaの記事を見たようである。そこで、参照されているこの連載での私の記事の各回のタイトルだけ見て、どういう内容か勝手に想像し、「こんな記事を書なんて学者の怠慢だ。ソーカル事件の記事も自分で編集したに決まっている」、という信じがたい決めつけツイートをしていた。これだけ思い込みが強かったら、まともな社会生活は無理だろう。一体どういう場所で、“新生活”を送っているのだろう。
 誰かをバカにすることで、自分の賢さを見せたいという欲求を抑えられないと、妄想でひどい話をすることになりがちだ。私は時事通信の社会時評を担当しており、隔月で執筆している。十一月に、立憲民主党に関連して、同党の言う「立憲民主主義」とはどういうものか、という内容の記事を書いた。その配信記事がいくつかの新聞に掲載されたので、同党のサポーターらしい人が紹介ツイートをしてくれた。それを見た「tm9256(t_m)」が、脊髄反射的に難癖を付けた。やたら左系の話題に首を突っ込んで物知り顔をしては顰蹙を買っている人間である。「tm9256(t_m)」は私の肩書が法学者でないのと、私の記事が、「立憲民主主義とはどういう立場だろう?」、という疑問文で始めたことで早合点したようで、以下のような失礼なツイートをしている。

#仲正昌樹さんは、憲法学者でもないただの思想研究家です。訳が分かってない人です。大学一年で勉強するようなことを疑問に思うとは。立憲主義、つまり基本的人権の尊重や平和主義、三権分立を破壊するような民主主義を否定するのが立憲民主主義です。少し#佐藤幸治とか読んだ方が良いと思います。

 恐らくこの男は、大学で授業を受けたことがないのだろう。学問的な修辞疑問を理解していないのだから。また法学部で学んだこともないのだろう。近代政治思想史が憲法史、特に立憲主義や三権分立と深く関係していることさえ分かっていないのだから。多分、私の肩書の「政治思想史」という学問分野を聞いたこともないのだろう。こいつのように大学に通ったことのない男に言っても無駄だろうが、「立憲主義」がどういうものであるかについては長い論争の歴史がある。立憲主義をテーマにした研究書や論文は数多い。佐藤幸治氏も研究書を出している。憲法の概論の教科書では、ごくかいつまんで紹介するだけである。「tm9256(t_m)」はそんなことも知らないで、偉そうに私をバカにしているのである。
 そもそも、私の文章はブログ記事のようなものではなく、通信社による配信記事である。少なくとも、通信社のデスクと地元の新聞のデスクで二重にチェックが入っている。憲法とか立憲民主党に関して、素人の無知による与太話のようなものを簡単に載せるはずがない。「tm9256(t_m)」はメディア・リテラシーもゼロに近いのだろう。
 恐らく、「tm9256(t_m)」は法学をどこかでちょっと齧って、偉くなったつもりになったのだろう。前にもこの連載で書いた――連載第二十一回(『FOOL on the SNS』 に転載)を参照――が、法学は人を傲慢にしてしまう性質を持っているようだ。ちょっと齧っただけで、法学病にかかった人間は、人を肩書で判断したがる。私は法学部(法学類)に二十年勤務して、法学と密接な関係にある政治思想史を長年にわたって担当し、法思想や医事法に関する論文もかなり書いているし、著書もある。臨床試験に関するインフォームド・コンセントの問題や、ルソー、カント、シュミットの法理論に関しては、生半可な“専門家”に負けはしない。しかし未だに、「~法」と付く肩書にしか価値を認めない、浅はかなひよっこから、素人扱いされて不快な思いをすることがしばしばある。「tm9256(t_m)」のような奴は、法学を学ぶ前に、先ずは、公的な場での発言に関する社会常識と、大学での学問の学び方の基礎を習うべきである――もう手遅れだろうが。
 反ポモ関係に話を戻そう。OokuboTact(中二病)という、しばらく前から私に粘着している、似非科学批判派のつもりらしい中年ニートがいる。中二病というより、国語力が中学生以下の奴で、ものすごく幼稚な思い込みで失礼なツイートする。とてもまともに議論する意志があるとは思えない。以下のツイートには、その失礼な愚かさが凝縮されている。

仲正氏は語学に自信があるらしいですね。あと宗教思想が好きみたいで、その流れだと思います。専門は法哲学。西洋礼賛だから、西洋の偉い思想家の受け売りになってしまうのでしょう。数学に関するムチャクチャな理解も偉い思想家の受け売りだと思います。

 私は西欧の思想史・文学史の専門家である。専門文献に関する読解力が、大学で少しドイツ語やフランス語を学んだ程度の人間よりずっとあるのは当然である。嫌儲板の住人やuncorrelatedがそれを認めようとせず、見苦しい言いがかりを続けるので、この連載で、その認識の誤りを正す指摘をしたことが何回かあるので、そのことを言っているのかもしれないが、それを「語学に自信があるらしいですね」、と表現するだろうか? プロ野球の投手が、「プロだったら変化球投げられて当然ですよ」、と言ったら、彼は「自分の投球に自信があるようですね」、と言うだろうか?「中二病」は、そういうことを平気で言ってしまう奴かもしれないが。あるいは、外国語が 一切ダメなのだろうか。
 「宗教思想が好きみたいで…」というのは、私の過去の経歴と、現在の学問的関心を混同しているのだろう――過去の経歴については、いろんなところで語っているので、最低限の検索能力のある人で関心ある人は調べてほしい。ところで、「その流れ」とは何のことだろう。「語学に自信があるらしいですね」とも、「専門は法哲学」――政治思想史か法哲学かという話はここではあまり関係ないので、置いておく――とも結び付かない。これで論理的なことを言っているつもりなの だろうか。彼のこれまでの反ポモツイートから、かなり好意的に推測してやると、[仲正→ポストモダン→擬似宗教→宗教思想が好き]という連想が働いたのだろう。だとすると、全く支離滅裂である。ポストモダン系の思想を、擬似宗教だというのは、反ポストモダン派の言い分であって、ポストモダン系と呼ばれている思想家、及び、研究者の大多数はそう思っていない。むしろ、そういう決め付けをして魔女狩りのようなことをする似非科学批判クラスターや山川ブラザーズのような連中こそ、似非宗教的だと思っている人が多いだろう。また、擬似宗教を“信奉”しているというのと、本当の宗教の信仰を持っていたり、それに関心を持っているというのでは全く話が違う。中二病は、宗教を信じている人を全てバカにしたいのだろうか。著名な科学者や数学者にクリスチャンはたくさんいるし、最近では、日本でもイスラム圏出身の自然科学系の留学生をたくさん見かけるようになった。中二病はそういう人た ちを全てバカにしたいのか。彼の発言は、そういう意味合いを含んでいる。それが分からないような人間は、論争的なものに口を出すべきではない。
 「西洋礼賛だから、西洋の偉い思想家の受け売りになってしまうのでしょう。」という文は、何をもって「西洋礼賛」と言っているのか分からないし、「西洋礼賛」から「西洋の偉い思想家の受け売り」へと飛躍する発想も理解しがたい。山川や中二病が、ソーカルの言うことは一方的に正しいと思い込んでいるのも、「西洋の偉い思想家」の受け売りではないのか。それとも、狭義の思想家ではなくて、「物理学者」なら、いいとでも思っているのか?
 「数学に関するムチャクチャな理解」というのも何のことか分からない。私は数学の話などしていない。中二病は少し前に、東浩紀氏のデビュー作である「ソルジェニーツィン試論」に関して、uncorrelatedと一緒に見当外れの批判をして、二人だけで盛り上がっていたので、そのことを指しているのかもしれない。私と東氏を個体識別できないとしたら、社会常識云々というより、精神疾患の疑いがある。
 「ソルジェニーツィン試論」の件は、2ちゃん(5ちゃん)でも指摘されているように、中二病等の初歩的な誤読である。私がそれほど親しいわけでもない東氏の代弁をするのもヘンなのだが、中二病等の国語力の低さを端的に示す例なので、少しだけ説明しておこう。中二病は、この論文の中で、ユークリッド幾何学とか非ユークリッド幾何学といった言葉が、本来の意味とは全然関係ない比喩的でよく分からない使われ方をしていると言って、東氏をバカにしているが、よく読めば、これは東自身の見解ではなくて、イワンの世界観の要約だと分かる。[ソルジェニーツィン→イワン]と来ると、多少文学好きの高校生であれば、ドストフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のイワンのことだとピンと来る。『カラマーゾフの兄弟』 を全体として読んでいなくても、古典なので、イワンという名前とその大体のキャラクターくらい知っている。実際、イワンが弟アリョーシャとの会話で、ユークリッド幾何学/非ユークリッド幾何学について比喩的な話をしている箇所がある。東氏は、彼の論文を読むような読者であれば、その箇所を正確に思い出せなくても、何となく思い出せるという前提で書いたのだろう。仮に中二病やuncorrelatedが、ソルジェニーツィンもドストエフスキーも全く知らないくらい、文学に縁遠い人間でも、最低限の国語力さえあれば、イワンとかアリョーシャとかいう名前が出てくるのだから、何か文学的作品からの準引用だということは分かるはずだ。ひょっとすると、引用とか参照という概念を理解できないのかもしれない。これは、彼らの国語力が中二どころか、小学生レベルだということを意味する。とても、他人と論争できるような水準にはない。
 先ほど「魔女狩り」という言葉を比喩的に使ったが、この比喩を使った意図について少し説明しておこう。仮に、山川や中二病の言う通り、“ポストモダン思想” なるものが似非科学の一部だったとしても、別に、ポストモダン系の思想家が、何か似非科学的な商品を売って誰かの健康に害を与えたり、災害対策を遅らせるなどして社会に損失を与えているわけでもない。ポストモダン系特別ポストとか予算があって、それが国の文教予算のかなりの部分を食いつぶしていることなどない。ましてや理系の予算を奪ったりしていない。むしろその逆である――もっとも私の勤める金沢大学がそうであるように、文系のことをほとんど知らない理系教員たちは、「ポモ」などと言う言葉とは関係なく、文系の学問の大半を役立たずと見なし、大幅リストラするよう常に圧力をかけている。自分自身が「ポモ」の被害なるものを受けたわけでもないのに、「ポモ」とレッテル貼りされた人間にはいくら誹謗中傷してもいいと思い込んでしまうのは、社会常識がない輩である。山川や祭谷は、ポモがのさばっているおかげで、自分たちが評論家として成功できない、自分たちは被害者だと思い込んでいるかもしれない。しかし、 それはポモのせいではなく、彼らの実力の問題である。
 最後に、山川の思い込みによる誹謗中傷について。山川はジャック・バンヴェニストの「水の記憶」の問題と結び付けて、ボードリヤールをオカルト扱いしたがっている。この連載の四十五、四十九回で述べたように、ソーカルとブリクモンは、ボードリヤールがバンヴェニストに好意的に言及していることをもって、ボードリヤールも「水の記憶」説の信奉者であるかのように言っているが、これは早とちりである。ボードリヤールは、歴史哲学的な考察についてのごく断片的なテクストの中で、バンヴェニストの議論からインスピレーションを受けた、とごく簡単に述べているだけである。ボードリヤール自身の歴史に関する考察の成否は、バンヴェニストの論文の内容とは直接関係ない。科学者が非科学的な直観とか芸術や宗教からインスピレーションを得るというのはよく聞く話だが、それをもってその科学者をオカルトと決めつけるのはナンセンスである。これで基本的に話は終わりである。
 ただ、私がバンヴェニストが、いわゆる“オカルティスト”ではなく、少なくとも「水の記憶」事件まではフランスの権威ある機関に務めていた免疫学者であり、問題の論文も『ネイチャー』に掲載されているし、本人が水を擬人化して記憶力を付与したわけではない、と述べたことについて、山川と、やはり私にしつこく粘着するSkinnerianという男が揚げ足を取ろうとして絡んできた。先に述べたように、ボードリヤールの論考の結論と「水の記憶」に直接的な繋がりはない、というのがメインであって、バンヴェニストがどういう人かというのは枝葉の話なのだが、彼らは[バンヴェニスト=オカルティスト→それを好意的に引用するボードリヤールもオカルティスト→ボードリヤールを擁護する仲正もオカルティスト]ということにしたいらしくて、バンヴェニストにやたらに拘る。Skinnerianがどこかでバンヴェニストの自伝『真実の告白――水の記憶事件』の邦訳の冒頭をコピペしてきて、それを山川が嬉々としてリツイートし、私に対する誹謗に利用 している――山川の“引用”のほとんどは、反ポモ仲間が孫引きしたものを更に孫引きしたものである。バンヴェニストの説が科学的に認められていないという 点については私もその通りだと思うので、あまり拘りたくないのだが、山川の国語力の低さを示すいい例なので、彼の言い分と、バンヴェニスト本人の言い分を比べてみよう。

水の記憶説について 仲正先生「水に記憶力があると主張するものでないことだけは確かである」 バンヴェニスト「メディアはその内容をかみ砕いた言葉で伝えたのである」―『水は記憶できる!水を通過した物質のしるしを水は記憶できる』」

もちろん仲正先生の、水の記憶説は批判派が流行らせたものであるとか、バンヴェニスト自身はそういう言い方をしていないとかいった発言も完全なあやまりであることになります。

 Skinnerianと山川が依拠している、自伝(邦訳)の冒頭には以下のように述べられている。

 1988年6月28日――世界で最も影響力ある英科学誌『ネイチャー』(アメリカの『サイエンス』と双璧をなす)に「高希釈された抗血清中の抗免疫グロブリンE(抗IgE抗体)によって誘発されるヒト好塩基球の脱顆粒化」と題された論文が掲載された。このタイトルは一般人にはまったくちんぷんかんぷんであるが、『ネイチャー』の編集長は重大な意味を持つ論文が掲載されるときには常にそうするように、この論文を世界中の大メディアに配信したのである。あらゆる国でこの論 文は大きな反響を呼び、メディアはその内容をかみ砕いた言葉で伝えたのである――「水は記憶できる!水を通過した物質のしるしを水は記憶できる」。これはまさに革新的科学的事実であり、…

 これを読んですぐに分かるのは、「水が記憶する」というのはメディアの使った表現であり、バンヴェニスト本人の言い回しではない、ということである。山川やSkinnerianは、中二病と同様に、「引用」という概念が理解できないのだろうか。ひょっとすると、「かみ砕いた言葉」という言い方をしていることをもって、バンヴェニスト本人が内容的に是認した、と思い込んだのかもしれないが、「かみ砕いた」という言い方は、内容的な是認を含意しているのだろうか。自然科学の論文に限らず、専門的な論文の内容が新聞や雑誌で一般人向けにごく簡単に紹介される際、端折られて不正確、場合によっては、部分的に間違った内容になるのは、メディアに多少でも注目されるような学者にとっては、常識だ。「かみ砕いた」というのは、必ずしも是認ではない。むしろ、素人向けなので仕方がないという妥協の意と取るのが普通だろう。いずれにしても、この箇所を“根拠”にしてバンヴェニスト自身がそういう表現を使っていると断じるのは、国語力のない証拠である。
 原文を読むと、もう少しはっきりする。「かみ砕いた言葉」の原語は〈termes courants〉。〈courant〉の意味は「流通している」とか「普通の」である。「かみ砕いた言葉」というより、「現在一般的に流通している言い方」と訳した方が正確だろう。更に言えば、原題は〈V Ma vérité sur 《la mémoire de l’eau》〉。「水の記憶」にはカッコが付いている。このテクストの中で、〈la mémoire de l’eau〉という表現が出てくる箇所の内、代表的なものを以下列挙しておく。

J’ai donc estimé qu’il était temps pour moi de livrer dans le détail ma vérité sur le dossier de la mémoire de l’eau, de raconter les manoeuvres, les coups bas, les lâchetés, les lâchages et les insultes dont j’ai été l’objet depuis dix ans. Je ne cherche nullement à passer pour une victime ou à régler mes comptes. J’ai vécu quinze ans d’une aventure passionnante;

Bien au-delà de mes difficultés personnelles, ces facteurs expliquent le Grand Froid qui a saisi la Science française dans les années qui précédèrent la seconde guerre mondiale. C’est pourquoi, si j’entends parler ici de mon cas (ma carrière de chercheur a été bloquée par l’affaire de la mémoire de l’eau), mon propos se doit d’être plus large. Je me suis heurté, et me heurte encore, à des institutions gardiennes d’une Science officielle hors laquelle il n’est point de salut.

Une fois les turbulences de la polémique sur la mémoire de l’eau venues, il se rangera du côté de mes détracteurs…

Il est vrai que depuis le début de cette affaire, tout texte hostile à l’hypothèse de la mémoire de l’eau est immédiatement publié, alors que les argumentations en sa faveur sont largement censurées.

 これらの箇所から伺えるように、バンヴェニストは「水の記憶」をどちらかと言うと、自分の身に起こった「事件」の呼称として用いていて、科学的な言葉として積極的に使いたいわけではなさそうことが伺える。念のためにもう一度言っておくと、これは、バンヴェニストの仮説の成否の問題ではなく、「水の記憶」というオカルト的な呼称を本人が積極的に使って、ニューサイエンス的なことをやろうとしていたか、という問題だ。山川等は、バンヴェニストはとんでも学説を出したのでオカルトだ、それを擁護する奴もオカルトだ、と言いたくて仕方ないようだが、その“オカルティスト”の書いた極めて明晰な文体の自伝さえまともに読めない彼らは一体何なのだろう。妙な学説を出して学会から激しく批判された人だからといって、国語力が低いうえに、ポモを貶めることで自分が目立つためだったらどんな嘘でも許されると思っている輩によって、自伝の内容を好き勝手に捻じ曲げられていいということなどないはずだ――いつぞやのように、フランス語を全く知らないのに翻訳マシーンを使って、珍訳・珍説を展開する輩が出てきたら、それはそれで面白い。