[編集部便り]
ワールドボーイ(1)


極北編集部・極内寛人
2016年5月27日

 何と、また一カ月以上も「編集部便り」に空白が出来てしまいました。申し訳ありません。しかし、私がサボっている間にも(前回紹介した)新設される近所の道路工事は着実に進んでいて、こんなところでもサボった時間の経過を実感させられてしまいます。

写真1

 工事現場の写真の奥に見える高い建物は、靖国通りに面して建てられた開業一年くらいの高層マンションで、60階以上はあると思われますが、正確には分かりません。ラッキーと散歩の度に目で1階、2階……と数えてゆくのですが、何時も途中で(どの階を数えているのか)分からなくなり、一度として最後まで数え通せた試しが無いのです。新設の道路はこのマンションの脇まで延びて、靖国通りに繋がると、そこで新道路としての命脈は尽きる事になりますが、工事は若松河田町方面からだけでなく、このマンション側からも進んでいて、工事予定区域で現在手つかずの状態にあるのは、「刑死者慰霊塔」のある「余丁町児童遊園地」など極一部を残すのみになってしまいました。それも、前後を工事現場に挟まれ、日々攻めたてられながら辛うじて緑の孤塁を守っているという感じですから、まさに風前の灯、アスファルトに固められるのも時間の問題でしょう。開発反対派の私としては残念な光景であります。
 ところで、『極北』ですが、これまでもそうだったように、たとえ「編集部便り」で穴をあけても、シブトく継続されてきたのが『極北』の逞しいところ。四月からは、竹村洋介氏の連載も新たに始まり、ますます充実して来た感があります。
 竹村氏のテーマは深夜放送。私自身は深夜放送のリスナーと言えるほどのリスナーではありませんでしたが、それでも「全共闘世代」などと、本人は全然「全共闘」でもなければ、ましてや学校などに通っていなくても、ただ同世代だったと言うだけで、世間から、同時代の目立ったムーブメントで便宜的に括られ、同類に位置付けされてしまったりすると、〝そう言われれば俺も全共闘かも? 発想や価値観は確かに共通している〟などと、都合良く意味を後付けして、納得してしまう傾向が少なからず私たちにはあるものです。それで、私もそんな〝ヒソミに習って〟自分の深夜放送譚を語ろうとすれば、確かに私にもリスナーを名乗っても許されるような気がしてくるから不思議なものです。
 私は1968年春、中学を卒業して上京してきました。私より数年上の世代(団塊の世代あるいは全共闘世代などと言われる事もあります)は、集団就職とか称して専用列車が走り、毎春、地方から都会へと中学高校卒業生の大量の流入がありました。しかし、私の場合、中学校で紹介された就職先の電気屋から迎えに来た店員と地元の職安で待ち合わせをして、彼に連れられ一人で上京したのでした。「集団就職」という言葉は残っていても、当時、既に実体はなくなっていたのです。
 3月31日上京、4月1日が仕事始め。一番最初の仕事はお店のトイレ掃除。お店は板橋の志村坂上にあり、当時この辺はまだトイレが汲取式だった為、(水を流しながらやると)汲取タンクの水嵩が増えて「汲取料金」も上がってしまうと言う理由から、床も便器も総てバケツに汲んだ水で雑巾を漱ぎながらやるよう指示されていたので、臭いし不潔だし、参ってしまった記憶があります。以後、それが毎日の私の仕事の一つになりました。
 お店の営業時間は午前10時から午後10時まで、その他、開店準備や閉店後の片付けなどもあり、実質労働時間は午前9時半から午後11時半くらいまでになります。仕事が終わっても銭湯に行ったり食事も摂らねばなりませんから、自分の時間を持てるのは午前1時前後から翌朝の8時半頃まで(朝食と通勤時間を計算するとそれ以上寝坊はできません)。
 その僅かな時間、一日の仕事を終えて、疲れた身体を横たえ、枕許から流れて来るラジオの音に耳を傾ける……というか、もっと正確に言えば、これだって実際に聴いていたのか、あるいはただ聞き流していただけなのか、それすら曖昧な、眠りに落ちるまでの僅かな時間だけが、その頃唯一寛ぎの時間でありました。

ワールドボーイ

ナショナル・パナソニック「ワールド・ボーイ」(RF-690型)

 このとき枕許で私と時間を共有していたラジオがナショナルの「ワールドボーイ」で(写真参照)、前置きが長くなりましたが、今回は竹村氏の記事に触発されて、これを紹介したくてここまで引っ張ってきた次第です。「ワールドボーイ」は、その後、農作業など過酷な環境での荒っぽい使用にもよく耐えて、半世紀の長きに渡って頑張ってきてくれたので、カバーの損傷は激しく(取り外して捨てました)、本体も満身創痍と言った感じですが、今も尚私の耳に音を届けてくれています。
 当時の私の給料が9000円(大卒の公務員は2万円余くらいだったと思う)、住宅費はお店が借りたアパートにいたため無料、食費は社長の家で食事をしていたので一日100円、一カ月3000円引かれ、その他、当時は未成年でも税金を払っていたので、手許には4000円くらいしか残りませんでしたが(山手線の初乗り料金が20円でした)、「ワールドボーイ」は自分の勤務するお店で特別に安く購入させて頂いたはずにも拘らず、それでも8000円以上した記憶があります。手取り給料の2カ月分であります。随分高い買い物をしたような気もするし、以後50年お付き合いしている事を考えれば安い買い物だったのかも知れません。
 まあ、こんな感じで、私も竹村氏の記事に便乗し70年代前後の自分の記憶を辿ってみようと思います。次回も「ワールドボーイ」で行く予定。