80年前の荷風

吉岡達也[第26回]
2016年2月28日

陸軍刑務所跡地に建てられた二・二六事件慰霊像

陸軍刑務所跡地に建てられた二・二六事件慰霊像

 私の唯一ともいえる「座右の書」は、作家・永井荷風(1879~1959)の「断腸亭日乗」だ。1917(大正6)年9月16日から1959(昭和34)年4月29日まで荷風が42年間書き続けた日記であり、明治~昭和の激動期を「都市観察者」としての卓越した視点で記したルポルタージュでもある。私自身、学生時代から折に触れて頁を繰ってきたが、そのたびに新たな発見があることに驚かされる。私自身の老後の生活を見定めていく観点からも、断腸亭日乗は「羅針盤的存在」となっている。
 永井荷風が作家として円熟期を迎えていた1936(昭和11)年2月、国内を揺るがす事件が起きた。「二・二六事件」だ。陸軍の青年将校らがクーデターを起こして総理官邸や大臣私邸を襲撃、都心を占拠した。事件自体は数日で終結したものの、その後は軍部の台頭が進み、政党政治は急速に衰退していった。
 二・二六事件前後の断腸亭日乗の記述には、様々な「自由」が少しずつ失われていく昭和初期の空気に対して荷風自身が非常に憤っていたことが読み取れる。2月14日の日記には次のように記されている。
 「日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事」「政党の腐敗も軍人の暴行もこれを要するに一般国民の自覚の乏しきに起因するなり」。そして、将来的にも国民がしっかりした自覚を持つことは期待できないと断じている。国民の精神的な劣化は国全体のバランスを破壊し、重大な事態を招くことになる。荷風が記した80年後の今、これらの記述はあまりに重く響く。
 一方で同年2月24日の日記では、荷風は「遺書」の草案を記している。そこには「葬儀もいらないし、墓石もいらない。財産はフランスのアカデミーに寄付してほしい」などと記している。老境に入った荷風の不安な心境が読み取れるが、80年前にこうした自由な考え方を率直に表していることは興味深い。
 彼が「偏奇館」と名付けた麻布市兵衛町(現在の東京・六本木)の高台にあった木造2階建ての洋館に居を構えたのは、1920(大正9)年のことだ。1945(昭和20)年3月の空襲で焼け出されるまで、彼は一貫して都心にも近い高台の暮らしに満足していたようだ。
 荷風が事件の発生を知ったのは、2月26日午後2時ごろのこと。ちなみに多くの市民が事件を知ったのは同日午後8時半すぎのラジオニュースだった。翌27日、荷風は偏奇館を出て、クーデターの現場へと向かう。
 この年の2月26日から27日にかけて、東京は30センチを超す積雪となった。記録的な大雪の中、事件現場周辺には多くの人だかりが出来ていた。荷風は現場を回ると銀座に出て、8丁目にあった喫茶店「きゅうべる」で友人らと会食。その後再び内幸町、国会議事堂周辺へと足を運んでいる。28、29日の両日も荷風は銀座で事件の情報交換などを行っている。
 さて、それからちょうど80年後、荷風が歩いたコースをたどってみた。あの日とはうって変わって東京は穏やかな冬の陽射しが差し込んでいた。当然スタートは彼の住んでいた偏奇館ということになるのだが、今となってはそれがどこにあったのすら正確には分からない。1945(昭和20)年の空襲で焼失した後、偏奇館跡地には別な建物が立っていたが、90年代末から始まった大規模再開発によって周辺の地形そのものがすっかり変わってしまったのだ。高層タワーの道路脇に偏奇館跡の記念碑があるものの、そこが跡地とずれていることは当時の地図と照らし合わせると明らかだ。

「偏奇館跡」を示す碑

「偏奇館跡」を示す碑

 そんななか、六本木通りからかつての偏奇館方面へと続く道源寺坂だけが当時のまま残った。荷風が都心に繰り出す際に必ず利用していた坂でもあった。ここを歩くたびに、なぜかほっとした気持ちになる。開発を免れたこの場所が唯一「偏奇館」時代の記憶をとどめている。
 道源寺坂を一気に下り、都心方面へ。荷風がちょうど80年前にこの道をたどったかと思うとある種の感慨が湧く。二・二六事件自体は何ともいえず重苦しい時代の一コマだが、当時と同じコースを歩くことで荷風の思いも理解できるような気がする。

荷風ゆかりの道源寺坂

荷風ゆかりの道源寺坂

 現在でも二・二六事件を振り返ることができる史跡が都内各地に残されている。例えば事件で殺害された高橋是清蔵相(1854~1936)の東京・赤坂にあった私邸は江戸東京たてもの園(東京都小金井市)に移築され、往時の記憶を伝えている。また、東京・渋谷のNHK近くには「二・二六事件慰霊像」があり、今も多くの花がたむけられている。
 しかし、その時代の関係者たちの記憶はほとんど歴史から消えていった。これは首都・東京の持つ、ある種の冷淡さに起因しているかもしれない。とりわけ権力の中枢である都心という舞台は、そこに上るのも自由だが下りるのもまた自由だ。登場人物たちはほんの一瞬の間舞台に立っているにすぎず、気付くとあっという間に人々の記憶の外へ追いやられていくのだ。

江戸東京たてもの園に移築された高橋是清私邸

江戸東京たてもの園に移築された高橋是清私邸

 さて、二・二六事件の後、荷風は私娼街、東京・玉の井を舞台とした小説「濹東綺譚」の執筆に入る。まさに時代の風潮に抵抗することにより、「自立した市民」としての姿勢を鮮明にしたともいえる。
 80年前の冬に起きた事件は長い歴史の中では一瞬にすぎないのかもしれないが、実に重大なものを、今を生きる我々に問いかけているのだ。



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