天皇について(22)

たけもとのぶひろ[第74回]

五箇条誓文

五箇条ノ御誓文

■維新劈頭―混沌のなかの理想
 前回——と書いても、はるか彼方、2か月も3か月も前のことですから、なかなかすんなり入っていくことができません。往生しています。やはり、中断した、そこのところから始めるしかありません。

 その前回の復習です。山県藩閥勢力を後ろ盾とした桂太郎と、伊藤博文の流れを継承する立憲政友会の西園寺公望とが、代わる代わるに権力の座についてきた、いわゆる「桂園時代」について考えました。桂と西園寺が提携に合意し、それを “情意投合” などと言って自画自賛したことにも言及しました。そして、その時代を “明治の政治” という全体のなかで見るとしたら、どんなふうに見えるか――その評価については『山川日本史』から引用しました。そこにはこう書いてあります。――この時代を境に、「帝国議会開設以来10年ほどで立憲政治は定着し」「日本における政党政治発展の基礎が築かれることになった」と。これだと、桂園政治がまるで “時代を画した” かのような評価です。こういう評価はいかがなものかと、ぼくの感じる違和感について述べました。以上が前回の議論です。

 今回まず問いたいのは、上述の引用文のなかに出てくる「立憲政治」とか「政党政治」とかの言葉についてです。「立憲政治」「政党政治」の何たるかを問うとは、憲法・議会・政党について考えることを意味しますが、これらを考えるには、少なくとも国家および国民について、また個人ないし市民について、もっと根源的に言えば自由・平等・民主などの理念について、問うて、学んで、知って、自ら思索する――そういうプロセスを自覚的にもたないと、理解のつもりのものが実は無理解であったり誤解であったりする、この種の悲喜劇が他人事でなく起る、それがぼくらの現実だと思うのです。

 こうした困難がつきまとうのは、どうしてなのでしょうか。この国のぼくらのばあい、上記の理論・理念・思想の類いはいずれも、外国産の、いわば “輸入品” みたいなものであって、自国の歴史のなかで生み、育ててきたものではありません。こういう事情が関係しているのではないでしょうか。
 一方に、「近代」そのものを生み出した、それの本家本元というか製造元とでもいうべき欧米列強先進諸国があり、また別の一方に、「近代」に関わるものは思想も科学も文物もすべてを彼らから輸入して、それらを模倣してきた、ぼくら日本のような輸入国がある――そういう「世界の構造」が様々な困難の根源にあるのかもしれません。

 というのも、前者(製造元)のばあいは、自分たちのなかから生まれた問いに対して自分たちで答えを見いだしてきたわけですから、その一部始終が自分の掌を指すようにわかります。それは、問いも答えも借り物ではなくて、自分たち自身のものだからでしょう。
ところが、後者(輸入国)のばあいは、問いとそれに対する答えがあらかじめセットになって与えられているに等しいわけです。そのQ&Aのセットをまるごと輸入するなり借用するなりしてきて、それをそっくりそのまま模倣してもよいわけです。
 ですが、製造元で問いが生まれた歴史的・社会的条件は、輸入国において生まれている問いの条件と必ずしも同じではありません。だとすると、製造元の答えが輸入国の答えと同じでよいとは限らないのではないでしょうか。

 以上は、日本近代史の全体について言えることだと思います。ただ、ここでは明治の建国期の事実について検証してみたいと思うのです。
 最初に、幕末動乱期の混乱がいまだ収まらない、慶応年間も押しつまった半年足らずの間(1867.12〜1868.4)に、新政府が立て続けに発した、一連の政治声明、「王制復古の大号令」「五箇条ノ御誓文」「政体書の発表」についてみます。

 冒頭の「王政復古の大号令」において新政府は、新生国家の政治の大原則を宣言します。この国の主権者は天皇である、と。
 宣言に続いたのが、京都御所の紫宸殿における大がかりなセレモニーの挙行です。少年天皇は、おそらく荘厳を極めたであろうその儀式の空気のなかで、群れなす臣下を従え、天地の神々の前に進み出て、「五箇条ノ御誓文」を読み上げたのでありましょう。新しい時代の統治方針について、その実現を誓って約束したということです。

「五箇条ノ御誓文」は以下の通りです。各項をじっくりと味わってみてください。

一 広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スへシ
一 上下心ヲ一ニシテ 経綸ヲ行フへシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄 各其志ヲ遂ケ 人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ 天地ノ公道ニ基クへシ
一 智識ヲ世界ニ求メ 大ニ皇基ヲ振起スへシ

 とあります。明治天皇はもとより、上記の文章を実際に用意した明治の先人たちは、西洋に学んで新しい国づくりをするのだと、その理想を高く掲げています。詳述は機会を改めますが、ただ、「会議」「公論」「人心」など概念があるのを知り、また「天地ノ公道」「智識ヲ世界ニ」などの表現に触れるだけでも、新時代にかける彼らの意気込みがいかほどのものであったか、伝わってくる気がします。

 そして「政体書」です。この文書は「御誓文」とほとんど同時に――1か月と遅れずに――発布されています。この点は注目されてよいと思います。
 「政体書」は、その内容から言って、新政府の組織・機構についての制度設計書です。それが「御誓文」とほとんど同時に発布されている事実は、「御誓文」と一体のものとして起草されていることを示唆しています。つまり、「御誓文」の思想を具体的な制度に落としこんだものが「政体書」だということです。
 その内容の一つは、すべての権力を太政官(いまでいう内閣)に集中する点にあり、いま一つは、その権力を議政官(立法)・行政官(行政)・刑法官(司法)の三権に分かつ点にあります。これらの点に、「政体書」がアメリカ憲法を模倣して三権分立の “体裁” を整えようとしたものである、との示唆がなされる所以があるのでありましょう。

 既述のとおり、ぼくらの国は欧米先進諸国の先例を模倣しようとしたし、実際に模倣してきました。その流れで言うと、「御誓文」の思想なり「政体書」の制度設計は、欧米先進国のそれと問題意識を同じくするものだと思います。むしろ模倣は、川の水が上手から下手へと流れるのと同じ意味で必然であった、とさえ言えるかもしれません。
 それを、しかし、この段階で、「(欧米先進国の制度の)体裁を整えようとしたものである」とまで言えるかどうか、言ってよいのかどうか、ということです。尊王攘夷の歴戦の闘士がいままさに理想の実現へ向かって決定的な一歩を踏み出そうという、まさにそのときに、新制度の “体裁” みたいなことを考えるでしょうか。考えもしなかったと思います。

 彼らは「大号令」「御誓文」「政体書」と立て続けに発しています。その様子は、自分たちの理想を、まるで丸太でも転がすように天下の前にごろんと差し出している、そういう印象です。その、いまだ整理されないまま転がり出ている丸太をよくよく見ると、「天皇主権」とか「皇基の振興」と書いたのもあるかと思えば、「会議」「公論」「人心」とか「天地ノ公道」「智識ヲ世界ニ」などの正札がついたのもある__そういう感じだと思うのです。
 もちろんこれらの丸太を使って、一つの構造物を作りあげるつもりなのでしょう。そのことはしっかり伝わってきます。しかし、その、作りあげるつもりの構造物はいったいどういう構造物なのでしょうか。その問いに対する答えは、この段階ではまだわかっていません。そういうことではないでしょうか。

 維新いまだ成らず、の状況です。現実はその答えをいつまでも待ってはくれません。わが先輩たちは、どういう答えを出すのでしょうか。次回は、そういう問題意識でもって取り組みたいと思います。