天皇について(21)

たけもとのぶひろ[第72回]

■「桂園時代」の “情意投合” 政治
 美濃部「天皇機関説」は、帝国憲法をどのように考えるべきなのか、という憲法解釈論です。ですが、これを分けて示すとしたら、帝国憲法下の天皇論・国家論であるとともに、政党政治論・立憲政治論でもあったと言えるのではないでしょうか。大まかに言うと、どうもそういうものらしい、というところまでが、前回考えたことでした。その美濃部学説の影響みたいなことから――それがあったのかなかったのかということも含めて――今回は考えてみたいと思います(ひょっとして次回も?)。

 最初に、その影響力たるやいかに甚大であったかという、広くあまねく知られていることを整理しておきます。①「天皇機関説」は憲法学界の通説にとどまらず国家公認の憲法学説となり、その著書は高等文官試験受験者の必読書となりました。②大正天皇・昭和天皇もこれを是とし、美濃部氏は 1932年 貴族院勅撰議員となりました(1935年 辞任)。③のちに大正デモクラシーと呼ばれた民主主義的な風潮に影響を与えました。等々。
 以上から察しがつくと思うのですが、美濃部理論を理解するにはある程度の知的レベルの高さみたいなものが要求されるのではないでしょうか。したがって、その影響力の及ぶ範囲は結構ハイクラスの教養人・知識人・言論人に限られたと思うのです。ぼく流の言葉でいえば、要するに「国家的国民」であるわけです。別言すれば、美濃部理論の流通範囲は、国家の政策「形成」に何らかの形で関与する側の、そういう身分ないし職業に限られていたのではないか、ということです。

 ぼくの言う「臣民的国民」――つまり、国家政策の「動員」対象に過ぎない大衆――は、美濃部「天皇機関説」の流通圏外にあったと思われます。それはそうでしょう。美濃部学説を理解するには、美濃部教授が理論的支柱として依拠した、イェリネックの「国家法人説」の論理とかイギリス議院内閣制の歴史なんかについて、学ぶことのできる知的能力ないし知的体験というものが、そもそも必要です。つまり、西洋から輸入した学問――その原書を読む読まないは別にしても――に対する理解力が、素養としてあらかじめ求められていたと思うのです。では、そういう能力に恵まれ、自分の力で考え行動ですることのきる、いわゆるエリートたちは、美濃部「天皇機関説」を理解することができたでしょうか。

 それはともかく、このように美濃部「天皇機関説」は、天皇にまで受け容れられるほどですから、上記の国家的国民に与えた影響は決して小さいものではなかったと思うのですが、実際の政治の動きに対する関係ないし影響という点では、どうだったのでしょうか。
 それを知るには、美濃部著『憲法講話』が出版された時代の政治的環境みたいなものから考えてみる必要があると思うのです。

 論争の発端となったこの書物は、1912年3月の出版ですから、世に “桂園(けいえん)時代” として知られる「政治的安定」期の所産というふうに、言おうと思えば言えるのかもしれません。ここで「桂園」というときの「桂」とは、桂太郎を指します。桂太郎は元老・山県有朋を後ろ盾とし、山県閥(長州閥)とその陸軍・官僚勢力を基盤とする藩閥政治家です。また「園」とは、西園寺公望のことです。西園寺は、元老・伊藤博文を初代総裁とする立憲政友会の二代目総裁(1903年7月)であり、伊藤博文を後見人とする政党政治家です。


桂太郎(1848~1913)

桂太郎
(1848~1913)

西園寺公望(1849~1940

西園寺公望
(1849~1940)


 では、どうして「桂園」時代なのでしょう。おおよそ10年余りに及ぶ、明治末年の、この一時期(1901〜1912年)は、桂太郎派(超然内閣主義者)vs西園寺公望派(政党内閣主義者)――と図式化される、「桂」「園」の二大勢力が、 まるで “内閣輪番制” のもとにでもあるかのように、桂でなければ西園寺が、西園寺でなければ桂が、という具合に交代で内閣を組織し、しかも両者がともに比較的息の長い政権運営を成功させたのでした。ですからこの時代は、政治的にきわめて安定した、日本憲政史上特筆に値する一時期だった、と称える意味もあって、二人の名字の一字ずつを採り、上記のネーミングとなったものと推察することができるでしょう。

 最初に働きかけたのは桂のようです。第一次桂内閣(1901.6.2〜1905.12.21)も4年目に入った1904年、日露戦争にある程度の見通しがつく頃から桂は、後任人事を模索し、最大の議会勢力・立憲政友会の二代目総裁・西園寺公望(1903.7就任)に目をつけていたのでしょう、退陣の際、西園寺を後継首相に指名して後を託しました。以来、桂は西園寺を “盟友” と呼ぶまでに信頼し、両者の “協調” が進んだと言われています。

 両者の協調ぶりを伝えるエピソードがあります。1911年1月末、桂と西園寺が会談したときのことです。おそらく桂のほうが喋ったものと察せられますが、この協調ぶりを「情意投合」と ”自画自賛” したそうです。これには、まだおまけがついていて、その名文句をわざわざ “公表” した、と年表に書いてあります。
 言うところの「情意投合」とは――桂太郎派と西園寺公望派が、暗黙のうちに意思疎通を図って協力し政権を運営していく、その種の政権運営の手法を指しているのでしょう。

 これには呆れてモノが言えません。そもそも、藩閥政治家(超然内閣主義者)と政党政治家(政党内閣主義者)とでは、政治信条・政治理念を異にします。時代に向き合う政治姿勢からして違うはずですし、将来展望にしても違ってくるのが当然です。
 それが、黙っていても考えていることがわかりあえるし協力してやっていける「情意投合」だなんて、顔役の腹芸ではあるまいし、政治というものについてなにか大きな勘違いをしているのではないでしょうか。

 憲法および議会という条件のもとでは、藩閥政治家であれ政党政治家であれ、政治家たる者は、それぞれの政治について、すべての利害関係者にわかるように「明示的に言挙げする」必要があります。暗黙ではなくて明示的に、です。自分を棚上げにして他と和するのではなくて、他とはっきり区切ったうえで自己を主張する必要があります。公然と論争を挑むのは、政治家の義務であり権利です。
 明示的な自己主張(政治的立場の主張)であるべきものが、有耶無耶かつ曖昧で捉えどころがないとします。あるいは極端な話「ない」とします。そうだとしたら、法に基づくことも・法に従うことも・法を行うことも、どだい無理な相談だと思います。これでは「法に拠る統治行為」というものが、そもそも成立しませんから、いくら「立憲政治」とか「政党政治」とか言っても、ぼくなんかには “単なる綺麗事” に聞こえてしまいます。

 しかし、「桂園時代」を肯定的に評価する向きはあって、ひょっとするとこちらの方が主流かもしれません。ここでは、その一例として、鳥海靖著『もういちど読む山川近代日本史』(山川出版社 2013年)から引用して示します。
 「このように(=桂園時代の開始によって)、帝国議会開設以来10年ほどで立憲政治は定着し、自由民権運動の流れをくむ政党(=立憲政友会)は、明治憲法体制下に大きな地位と勢力を占め、日本における政党政治の基礎が築かれることになった。(中略)また、欧米先進国では、おおむね19世紀半ばころまでには、立憲政治が実現したが、その過程で、しばしば大きな流血の騒乱がおこった。しかし日本の場合は、比較的短期間にそれほど大きな混乱もなく、藩閥勢力と政党勢力(自由民権派)の協力・妥協により、立憲政治が定着した。この点は、日本の大きな特色といえよう。」
 ここに、「政党政治の基礎の構築」、「藩閥勢力と政党勢力(自由民権派)の協力・妥協」による「立憲政治の定着」、ということが書いてあります。
 これらの評価ないし解釈は事実に反すると思います。ぼくの考えは上述の通りです。

 なお、前回、美濃部「天皇機関説」を紹介した際に強調したつもりですが、美濃部教授が言いたかったことは、要するに、①国家であれ、天皇であれ、憲法であれ、議会であれ、政党であれ、国民であれ、すべては法の下にあるということ、法の支配下にあるということ、②そしてその法を法たらしめている淵源は国民にあるということ、③これこそが、近代国家・国民国家・法治国家の基本のなかの基本、肝腎の要だということ――これら三点に尽きるのではないでしょうか。

 教授は、伊藤博文という政治家を知っています。「桂園時代」の政治的現実についても身をもって体験しています。そのなかで「天皇機関説」の理論を構築したのでした。美濃部教授は、この国の政治がいかに「法」というものを理解できないか、嫌というほど思い知らされていたのではないでしょうか。臣民的国民は論外として、国家的国民にさえわかってもらえないのだな、と。つまり、美濃部「天皇機関説」は現実の政治には手が届かなかった、ということではないでしょうか。