待たれるベンチャーズルネッサンス。

[編集部便り]


モズライトを手にベンチャーズと共演する加山雄三

モズライトを手にベンチャーズと共演する加山雄三

 一年半程前、2020年のオリンピック・パラリンピックの東京開催が決まった頃、本ブログで、来るべきその開会式の選手入場行進曲にベンチャーズを使用すべし、ベンチャーズには国民栄誉賞を与えるべし、と書いたことがある。もちろん戯れであった。(http://meigetu.net/?p=568
 ところが、最近、大瀧詠一氏が今から36年も前に書いた「絶大だったベンチャーズの影響力」(NMM79年6月号)と題する文章の中で、彼らに国民栄誉賞を与えよ、と主張していたことを発見し、我が意を得たりと、まんざらでもない気分がしたのであった。素人の冗談話を専門家が真剣話として書いてくださったことが嬉しかったのである。

 そもそも、何故、ベンチャーズに国民栄誉賞なのか——。
 私の根拠は、60年代中後期、私の中学生の頃、ベンチャーズはビートルズとともに、人気と影響力を二分する外タレバンドの双璧であったのだが、両者を比べると、どうもベンチャーズが常に低きに置かれているような気がして、分が悪い。そこがベンチャーズファンの私にとっていつも不満の種になっていたのだった。
 そんな昔年のわだかまりが(たまたま当日、夕餉の話題にベンチャーズがのぼると)、判官贔屓となって一気に噴出し、国民栄誉賞で一発逆転だ、と景気よくジョークをぶち上げた——、実は、その程度の話だったのだが……。
 しかし、一度呼び覚まされたベンチャーズへの判官贔屓は、私の心の中で確実かつ静かにくすぶり続け、これを機会に彼らの実力や全貌をより多くの人にもっと知って貰いたい、との欲求がドンドン蓄積されて、ついには最近、出版企画をあれこれ妄想するまでに高揚してしまったのである。

 ビートルズの関連本なら、書名を挙げるだけで全集が完成するほど大量にあるのに、ベンチャーズに関する文献が少ないのはあまりにも不公平ではないか。調べても、私の知る限り『ザ・ベンチャーズ—結成から現在まで—』(K&K事務所編集、河出書房新社、1995年初版)の一冊が有るのみ。それも20年も前に出たきりで、ベンチャースの残した社会的、音楽的影響力、足跡の大きさに対する世間の返答がこれかと思うと、この仕打ち、いかにも失礼ではないかと、企画のみならず義憤すら湧いて来るのであった。

 ふん、所詮、ビートルズとベンチャーズを比較すること自体が無謀で間違っている、と考える向きもあるかもしれないが、しかしそれは完全に間違っていると声を大にしていいたい。
 60年代に限れば、ベンチャーズの人気、影響力はビートルズを完全に上回っていた。私が先に人気と影響力を両者が二分していたと書いたのは、ビートルズへの優しい社交辞令に過ぎない。にも拘らず、両者の扱いには明らかな差別があったこともまた事実である。王侯貴族のビートルズに対して一般庶民のベンチャーズくらいの開きがあった。

 それは、両者、約50年前の来日時の処遇や取り上げられ方を比較しただけでも明らかだし、今年の3月ビートルズの一人、ポール氏の来日時のマスコミの騒ぎ方と、今年もまた近々、来日公演が予定されている(7月17日から9月10日まで)ベンチャーズの、まるで町内会の盆踊り大会並の公演告知を比べれば、50年前とその扱いが全然かわっていないことを思い知らされるであろう。

 なぜ、これほどの待遇に開きが出てしまうのか? 差別を生んでしまうのか? 私なりに考えてみたのだが、多分それは、音楽に対する両者の姿勢の違いから来るものではないだろうか。
 エンタメに徹するベンチャーズか、それに加えて音楽を自己表現の手段として作品の側に重きを置くビートルズの違いから来るような気がするのである。
 66年の夏を最後にコンサート中止を宣言し、スタジオに籠ってしまったビートルズに対して、ベンチャーズは終始一貫、精力的にコンサートをこなすエンタメ路線を崩さなかった。

 同じ音作りでも、ベンチャーズには、コンサートで再現できないような音楽は意味がないのであった。彼らの視線の先には、私のような、ただ音を楽しむだけの無数の素人の聴衆がいた。ベンチャーズは素人に働きかけていたわけである。
 玄人重視のビートルズか、素人重視のベンチャーズか、こういう比較をされたら、敬意が自ずと前者に向けられるのも仕方のない事だった。当然この違いは処遇の違い、差別となって現れざるを得なかったのだろう。私の印象としては、どうやら、そんなところに真相がありそうな気がするのである。

 しかし、名誉の為にも言っておかなければならないが、ベンチャースが素人重視路線だったとしても、それは彼らの音楽的質が素人レベルということを意味しない。
 ビートルズの「研究医」に対して、ベンチャーズの「臨床医」というくらいの位置づけがぴったりだと思うのである。決して彼らを軽んじていいということにはならないのだ。
 しかし、ベンチャーズの真意は必ずしもファンに伝わらなかった。これを私は「ベンチャーズの悲劇」と勝手に言っているのであるが、それについて、以下にちょっと触れてみたい。この辺の思いはベンチャーズの企画にも多いに関わって来そうだからである。

 既述の通り、ベンチャースは中学生の頃から好きだったが、半世紀近くを経過し還暦を過ぎた今でも尚その嗜好は変わっていない。エレキギターを会社に持ち込む程の熱の入れようで、大江健三郎の『遅れてきた青年』と、60年代中後期、大ヒットした加山雄三主演の青春映画『エレキの若大将』をもじって、周りには「遅れてきたバカ大将」などと揶揄嘲笑される始末である。

本当はモズライトが欲しかったのですが……

本当はモズライトが欲しかったのですが……

 当時、加山雄三の人気は絶大で、茅ヶ崎(だったと思う)の、彼の自宅付近は観光名所と化し、新潟の私の中学校の修学旅行のコースにも入っていたほどだ。
 その加山雄三に純白のモズライト・ギターを贈ったのがベンチャーズであり、加山雄三の人気上昇にも与って力があったのが彼らではなかったかと私は思っている。しかし、これら日本の芸能史に残る貢献は、ベンチャーズの場合全部裏目に出てしまうのであった。
 65年以来、絶大な人気と影響力を誇ったベンチャーズであるが、68年、69年頃には陰りを見せ始め、この頃から、ちょっと突っ張り気味なロック少年や、背伸びをしたがる生意気な高校生は彼らのファンである事を微妙に隠すようになったのだ。

 老若男女、日本全国ベンチャーズの名を知らぬ者ナシ、ここまで人気を得てしまうと、却ってそれが通俗的に見えたのだろうか、人気が出れば出るほど無視されはじめ(村上龍の自伝小説『69』からもそんな雰囲気が伝わってくる)、それまで人気を支えてくれていたコアなファンは薄情にも掌を返すし、音楽的に強い影響を受けたはずのミュージシャンは「知らんぷり」を決め込み、ほとんど触れなくなるのであった。
 70年代初期、ベンチャーズが歌謡曲に進出し、ここでも大成功を収めると、その傾向は決定的なものになり、無視どころか、それまで散々影響を受けていたくせに、「あんなのロックじゃない」と、恩を仇で返すような暴言が公然と浴びせられるような雰囲気にまでなってきた。
 広く人々に受け入れられれば受け入れられる程、音楽的に貶められるという「ベンチャーズの悲劇」、そのジレンマはこうして顕在化するのである。

 確かに、素人重視の「臨床医」として、音楽の現場にこだわるその姿勢や、エンタメとして、誰でも受け入れる間口の広さなど、生意気なニワカロックファンに軽んじられる要素は彼ら自身の音楽のスタイルの中に既にあったことも事実である。むしろ、こうした音楽的柔軟性こそベンチャーズの才能だったのだが、哀しいかな、これを正しく理解できる程のミュージシャンは当時日本にそれ程多くなかったし、ましてや音楽の「オ」の字も知らない、格好ばかりのロックファンにそれを求めることは無理だったのだと思う。

 格好ばかりのロッカーは、庶民・大衆の表象である「歌謡曲」にあきたらず、あえて突っ張ってロックをやっているのに、ベンチャーズはそんなファッションロッカーの意を介せず、積極的に歌謡曲に接近することで、ニワカロッカーの信頼を失って行くのであった。
 別の角度で言えば、ベンチャーズは何よりもロックンローラーとしては健全すぎた。エンタメとして素人受けした分、玄人モドキには無視されたのである。後者はベンチャーズの記憶を亡き者にすることでしか、ロッカーとしての自身を確かめられなかったのだろう。

 大瀧詠一氏は、前掲「絶大だったベンチャーズの影響力」の中で、同時代の多くのミュージシャンは「過去を持たぬ成り上がり者のように前へ前へと進んだ」と表現してるが、ここで言う過去とは、言うまでもなくベンチャーズである。
 大瀧詠一氏のように、自らの音楽的原点、「氏素性」を隠さず正直に語るミュージシャンは少数派で、むしろ、ミュージシャンの多くは、「成り上がり者」と言われることを怖れ、その原点の「氏素性」、本籍=ベンチャーズの過去を詮索されることを嫌ったのであった。

 こうして、日本ロック界の「改革者・冒険者 The Ventures」は日本の芸能・ロック史上から真価を抹殺され、単なるカタカナ表記のベンチャーズとして、毎年、盆踊りの頃になると、日本へ出稼ぎにやって来るお爺さんバンド(リーダーのドン・ウイルソン氏は御年82歳!)という現実だけが一人歩きし、固定化してしまったものと思われる。何ともあか抜けないイメージが植え付けられてしまったのだった。
 事実、ベンチャーズへの強いシンパシーを表明している私ですら、その偏見から逃れることは出来ず、件の1年半前のブログに下記のように書いている。

 ベンチャーズ。50年の長きに渡って、毎年夏になると日本に出稼ぎにやってきて、全国津々浦々隈無く回るその演奏活動は、もはや日本の夏になくてはならぬ風物詩であり、単純にして味わい深い50年不易のあのテケテケサウンドは、ほとんど伝統芸能の域に達していると言うのが筆者の見解なのであった。

 決して悪意を持って書いたわけではないが、彼らのポジションを揶揄していると言われても仕方が無いだろう。ファンといえども、その多くはこの程度の認識しか持っていないという現実をまず持って知っておいてもらわなければならない。

 ベンチャーズの結成は1959年で、既述書『ザ・ベンチャーズ―結成から現在まで―』が刊行されたのは、実に結成から36年後の1995年。それから更に20年を経過したが、未だ該書以外に彼らを知る為の解説書は出版されていない。
 95年と言えば、「昭和の黒船」(大瀧詠一氏評)、ベンチャーズがそのモズライトで日本中に狂乱のエレキブームを引き起こしてから既に30年が経過していた。これくらいの年月が経てば、あの狂乱に触発されて音楽を志したミュージシャンも自らの音楽的出自、来し方行く末を公平かつ冷静に語れるようになっていたのだろう。特に、自分の仕事に自信を持てる程のキャリアを積んだ本物のミュージシャンは進んでベンチャースを語るようになっていた。ベンチャーズを抜きに自分の音楽史も、日本のロック史も語れないからである。

 そんなミュージシャンの中でも一頭抜きん出て、ベンチャーズ擁護の論陣を展開したのが山下達郎さんである。彼は上記『ザ・ベンチャーズ―結成から現在まで―』に「ロックン・ロール・グループとしてのヴェンチャーズの正当な評価に向けて」と題した長文の「まえがき」を寄稿する一方、丁度この頃、ベンチャースの記念すべき1965年の日本ライブ(東京新宿厚生年金ホール)が、アメリカでCD化され、ついで日本でも発売されると、このCDについても解説を書いて、ベンチャーズへの熱い思いを吐露してくださっている。
 ベンチャーズの当時置かれていたポジションを実に的確に解説して下さっていて、これさえ読めば他は必要なし、あとは心を改め、ベンチャーズのコンサートに足を向けるだけ——、という感じもするのだが、一度持たれてしまったベンチャーズへの偏見を払拭するのは容易でなかったのか、山下氏達の発言に、当時期待したほどの啓蒙効果があったかか否かは疑問である。ベンチャーズの地位がその後も今に至るまで向上したとは思えないのだ。

 その一方で、今、youtubeでベンチャーズを検索すると、彼ら自身の映像は勿論だが、それ以上に無数の彼らのコピーバンドが登場し、全国大会までが定期的に開催されていることなども解る。かつてベンチャーズの撒いた種は、素人の中で確実に芽をだして、全国にその根を張り巡らせていたのであった。
 これを見る限り、私には50年前もそうだったように、今尚、ベンチャースは決してビートルズに負けているようには見えないのである。

 それにしても、ベンチャーズの何がかくも多くの人を引きつけて離さないのだろうか? 
 彼らの演奏は一代目の団塊世代から、子供、孫の世代と、三代を重ねて継承されて今尚盛んである。このエネルギーの源泉、この音楽的魅力はどこからくるのだろうか?
 ベンチャーズとは何か? 正面からのベンチャース論が待たれているように思えてならないのである。そしてベンチャーズルネッサンスとでも称すべき、再評価の時が来ることを期待してやまないのである。