時間と空間を楽しむ哲学(3)

秋の夜風に揺れる薄にヤブ蚊たちが戯れ遊ぶ

秋の夜風に揺れる薄にヤブ蚊たちが戯れ遊ぶ

 闇に沁み入る虫の音の響きも懐かしく、中秋の名月に風情ゆかしき代々木公園のススキを夜風がゆらせば、穂先に戯れ遊ぶがごとく、優雅に舞いを楽しむデング熱のヤブ蚊たち。
 その風流趣味を解さないのみか、この世に二つとない大切な彼らの生命までをも奪わんとする東京都の理不尽なる殺虫剤のジェノサイド攻撃にも余裕綽々、意気軒昂にして徹底抗戦の構えを崩さず、ヤブ蚊一同、「東京戦争」などと称して、都内各所で反攻に転じ、果敢に勢力範囲を拡大させ、未だ都民に甚大な脅威を与え続けているけれども、前回、私が、彼らこそ「悔い改めを迫る予言者ヨハネの化身かも知れない」などと適当な事を書いたら、その直後の『極北』誌上で、吉岡氏がデング熱の背後に天狗の存在ありと鋭く指摘して下さった。
 私の妄想と違って、吉岡氏の推理はそれなりにヒトをして傾聴させる史実を踏まえたもので、私自身興味深く読ませて頂くと共に、非常に勉強にもなったが、吉岡氏には天狗に限らず、ぜひ、これを機会に筆の赴くまま、都内各所から地神怨霊・魑魅魍魎をわんさか呼び起こし、巷間広く紹介するとともに、私たちの蒙を啓いてくださることを強く希望したいと思う次第である。いずれにせよ吉岡説の前には、私のヤブ蚊=ヨハネ説は撤回せざるを得ないであろうと思う。
 古今東西、哀れな末路は予言者の宿命とは言え、やはり、殺虫剤攻撃では、余りにもヨハネ氏が可愛そう過ぎないだろうか、“ジョーダンじゃねー、やってらんねーよ”、不運を歎くヨハネ氏の「恨み節」が聞こえて来そうである。ゴキブリ退治じやあるまいし、辱めを与えるにも程がある。これじゃ、パレスチナで、首切りの刑に処した領主ヘロデ氏のほうがまだ、礼節を弁えているというか、思いやりがあるような気がするのである(http://ja.wikipedia.org/wiki/洗礼者ヨハネ)。ヨハネ氏には悪い事をしたと深く反省している私であった。

殺虫剤よりこの方がまだ浮かばれるとはヨハネ氏の弁

殺虫剤よりこの方がまだ浮かばれるとはヨハネ氏の弁

 今年の夏は大雨が多かった。暫く日本語では「バケツをひっくり返したような」というのが大雨を表す形容詞の最高値で、大体1時間に30ミリメートルくらいの雨量を言ったらしい。極々例外的に、「天が抜けた」などと形容することもあったが、それこそ「バケツをひっくり返す」ことは時々あっても「天が抜ける」(大体1時間に50ミリから60ミリメートル)ようなことが年がら年中あっては困るわけで、そのことからも逆に、かかる事態が滅多になかった事の証明にもなる訳で、過去に比べ、昨今の雨量の多さが分かろうというものである。
 今年は「50年に一度」の大雨(大体1時間に100ミリ前後らしい)が何回降っただろうか? 甚だしい場合は連日各所で「50年に一度」の大雨が降る「形容矛盾」を招く始末。しかも表す形容詞のインフレも連日の大雨記録の更新に追いつけず、遂に「これまでに例がない」という「空前」の表現形容法を発明するに至って、以後この用法の利便性に乗じて連日「これまでに例がない」の連発である。
 先月の広島の土砂災害はかかる流れの中での出来事であった。なぜこういう事になったのか、勿論、私には分からない。しかし、思うところはある。

 雨に伴う土砂災害はともかく、その前に、まず人口問題から入りたい。こういう話はどこに基準線を引くかで結論も変わって来てしまうのだが、私は、とりあえず幕末、つまり開国前後に線を引いて話を進めてみたいと思う。日本人が現在の国境線よりも狭い領土で、しかも、ほぼ自力更生出来ていた時点に遡れる最後の頃がこの時代だったのではないかと考えるからである。
 その頃の日本人の人口は大体三千万人くらいだったらしい。以後、国力の増加とともに人口を増やし続けて百数十年、1億3000万前後でピークになると、今度は人口減に転じて現在に至っている。
 国力増加と人口増がイコールで染み込んだ脳の持ち主にとって、人口減が深刻に写るのは当然だろう。昨今、人口減を歎いたり危惧する説が有力跋扈しているけれども、これらはかかる脳による仕業である。しかし、本当にそうなのだろうか。私はかなり懐疑的なのだ。
 ピラミッドの昔から、国家の興亡が繰り返された世界史の中で、人口が減少し更に国力を強めた国家は一つも存在しない。これは歴史研究者の間では常識らしい。国家の隆盛と人口増加はイコールみたいなのである。確かに、私の拙い歴史知識でもそう言われれば反論出来なさそうだし、日本の近代化と国威発揚に伴う人口の推移をみればますますそうかなと思いたくもなる(あくまでも国力の増強は人口の増加を伴うと言うことであって、人口増加=国力増強ではない)。
 しかし、その事のみを鵜呑みにし、だから、国力増強の為にも、人口増加が絶対欠かせない、場合によっては移民政策を断行してでも人口増加を計らねばならない、という説には与したくないのである。

 そもそも国威、国力とは何かが詳らかでない限り意味のない議論である。国威・国力を軍事力・経済力を背景にした侵略国家の力量と定義すれば分かり易いし、21世紀に入って急速に懐古主義が復活し、100年前に回帰したが如く、かつての帝国主義的国家間競争を彷彿して目の当たりにすると、確かにそんな感じがしないでもないが、しかし、それこそ我々が100年前に経験し、その結果として現在があることを考えれば、今また同じ事を繰り返すことに意味はないのではないか、違う道を模索すべきではないかと考えるのである。

 幕末以来日本は西欧列強に伍して100年間帝国主義の翼を目一杯広げたのであった。その結果が無条件降伏である。
 その後の70年間、経済大国を目指して思いっきり翼をひろげ続けて今日に至っている。しかし、もう翼をひろげる余地がないとしたら、このままひろげ続ける事は難しいとしたら、どうしたらいいのだろうか? その時、昔の夢よもう一度、とうのはいかにも愚策ではないか。

 戦場で一番難しいのは退却の仕方だそうだ、部隊をいかに整然と、しかも被害を最小限にとどめて戦場を後に出来るか、その一点で現場指揮官の軽重が問われるらしいのである。
 我々にいま問われているのは、広げ過ぎた翼をいかにうまくタタむか、その具体的な方法ではないだろうか。そういう指揮官がいないなら、不肖わたくしが「時間と空間を楽しむ哲学」で若干のアイデアを提供したいと思っているのである。