編集部便り – 月刊極北
時間と空間を楽しむ哲学(2)

キングコング対ゴジラ

キングコング対ゴジラ

 小学校の3年か4年だったと思う。その頃、『キングコング対ゴジラ』という映画があった。人口三万人余のオラが町でも上映されるという。
 愛読していた少年雑誌があれこれ取り上げるものだから、私もすっかり煽られ、山間僻地の部落から町まで片道数キロの砂利道を、中学生だった実兄と一緒に自転車を走らせ観に行った。
 上映館の名前は明治座。夏休み期間中は小中学生を相手にアニメや怪獣映画をやっていたが、普段、昼間は日活の吉永小百合さんなどの青春純情路線を装いつつ、夜になると一変衣替えし、18歳未満お断りのスケベ映画専門館に変身するのであった。
 時々ストリップショーの実演もやっているらしい――と、小学生相手に事情通の大人を気取りたいマセタ中学生が、(自分だって妄想まじりのくせに)ストリップショーの何たるかを含め、多少興奮気味にレクチィーするのを、私もまたコーフンしながら聴いていた記憶がある。
 それにしても、オラが明治座、昼間は清純、夜は淫媚で稼いだあげく、小中学生にまで、食指を伸ばして儲ける仕組みを完成させていたのだから、なかなかの商売上手だったと言うべきであろう。
 後年、上京した際、東京にも明治座があることを知り、ビックリしたが、オラが町の明治座の前には雄渾な筆づかいで、堂々と「江戸前寿司」の暖簾を掲げる寿司屋まであって、今から思うと、そのニセモノッぽさがかえって微笑ましく、大らかで実にいい時代だった――などとシミジミ懐かしく思い出されるのである。
 飾られるホスターも子供向けから成人向けまで全部混在していて、そんなところにも当時の大らかさが感じられるのだが、成人用に貼られたポスターが醸し出す、怪しげで淫媚な雰囲気は、妄想と色気に目覚め始めた中学生の性欲を直撃し、そのせいか“早く18歳になって夜の明治座に通いたい”などと、おバカな会話が休み時間や放課後の教室でしょちゅう飛び交っていた。
 もっとも、私がかかるリビドーを刺激されるようになるのは、ここで語る話よりももっと後のことだ。話を小学生の私に戻さなければならない――。
 さて、『キングコング対ゴジラ』である。期待して観た映画ではあったが、ゴジラとゴリラ、語感が似ていることから、ゴジラ=ゴリラ=お化けゴリラ=キングコングと勘違いし、巨大化した恐竜のお化けの方がゴジラだと気付いたのは映画の途中というお粗末さ――。
 キングコングとゴジラを逆に認識していたわけで、どうりでそれまで雑誌を読んでも、友達と論争しても、イマイチスッキリせず、記事や会話に齟齬を感じていたのだが、これでやっと納得できたものの、ま、その程度の予備知識しか持ちあわせず、雑誌や友達に煽られるままに観に行った、所詮、ニワカ怪獣ファンの哀しさか、正直、私はイマイチ映画に夢中になれず、結局、怪獣映画を観るのもこれが最後になったのである。
 以後、完全に関心を失い、今日まで来てしまったのだが、最近、そのゴジラに関してこれまでの認識を改めねばならない事実を知った。

 その筋のマニアには自明のことであり、「何を今更」と嗤われるかも知れないが、実はゴジラは単なる怪獣ではないという説である。ゴジラには制作者の深いメッセージが込められており、そこをシッカリ把握してこそ、初めてゴジラの真の意味も理解出来ると言う主張だ。
 それを私流に解釈すれば――、かつてゴジラは、知恵の実を食べる前のアダムとイブのエデンの園にも似た、地下の楽園で仕合わせの微睡みの中にあったのだが、人間共が蛇の誘惑に負けて、知恵の実ならぬ、原爆だの水爆の実験に手を染めることによって、微睡みの均衡を一方的に破壊したがゆえに、「天の怒りか地の慟哭か」、そのビジュアル化としてのゴジラが人間共に天誅を加え且つ猛省を促すべく、地下から這い出して来たと言うことになる。
 昔、パレスチナに天国からイエス・キリストが派遣され、その2000年後、日本の東京に地下からゴジラが這い出して来たというワケだ。
 なるほど、そう言うことだったのか、ゴジラは、戦争と環境破壊に対するアンチテーゼのビジュアル化だったのだな、と納得したのであった。そして、このレトリック、便利で使い勝手がいいなとも思った次第である。
 かかる「ゴジラ解釈の顰み」に倣って言うなら、10日ほど前の広島の大雨や土砂崩れは、乱開発を推進する人間共への「天の涙か地の慟哭が」ビジュアル化されたのであり、そこに何かしらの教訓を感得することが我々に求められていると解釈することも可能であろうし、70年ぶりに日本にデング熱を持ち込んだ代々木公園のヤブ蚊は、ひょっとしたら、ニッポン人に悔い改めを迫って送り込まれた、予言者ヨハネの化身かも知れないではないか。

 いずれにせよ、人間共に突きつけられた数々のビジュアルをどう解釈するか、そしてどう解決するか、今、私たち一人一人に決断が迫られているような気がしないでもない。
 そんなわけで、次回は、その解決策について、私なりに思うところを若干展開することを予告し、今日はこれでオシマイにしたい。
 本稿のどこが「時間と空間を楽しむ哲学」なんだろうか、タイトルに偽りアリと、私の意図を怪しむ向きもあるかも知れないが、そもそも「回り道」と「柿八年の精神」で先を急がないのが、「時間と空間を楽しむ哲学」なのである。本稿の脱線そして回り道もまたその一端である。ご容赦願いたい。